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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

時宜にかなって

2023年12月15日 | 箴言

箴言 25章

 水曜日、本欄の写真は色とりどりのクッキーでした。当地ではこの時期になるとクリスマスのクッキーを焼く家庭があります。パン屋さんにもクッキーの詰め合わせが売られています。シナモンの味わい深いレープクーヘンやシュトレンなども好きですが、バターの風味豊かなクッキーはどれを食べても美味しいです。

 25章から29章までは、ソロモンの箴言として伝えられていたものを、後のヒゼキヤ王の時代に王のもとにいた書記官たちが書き写したと言われています。

 2−7節には王についての格言が並びます。まず2節に目が留まります。王はことを隠される神についての真理を探ることによって誉れを得るとあります。ここでは神の御旨を探り求める、つまりは神に聴くことがすぐれた王の資質だというのです。ここには、王なのだから自分がいちばん偉いという姿はありません。王にかぎらず、すべての統治者、上に立つ人々に必要なことです。

 この章には「時」や「日」ということばが多いように思います。11節の「時宜にかなって語られることば」、13節には「待ち焦がれた使者からの良い知らせ」、19節の「苦難の日」、20節では「人を、特に緊張関係にある相手を助ける時」について、25節にはことばが届くタイミングについても触れています。

 「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」という伝道者の書3章1節を覚えました。神に信頼する者にとっては、誰かに何かを言わなければならない時や沈黙すべき時、一歩前進する時や後退する時など、「時宜にかなう」とは自分が良いと思うタイミングではなくて神の時であり、それを探り求めるということの必要を思いました。


二つの畑

2023年12月14日 | 箴言

箴言 24章23−34節

 冬至まであとわずか。朝が暗くベッドから出るのが……という方もいるでしょうか。起きる時「エイヤッ!」と気合いを入れる必要があるかもしれませんね。

 22章17節からの「知恵のある者たちのことば」は24章22節まで。23節に「これらも、知恵のある者たちによる」とありますから、ここから24章終わりまでは一つのまとまりです。

 ここには「畑」が3回用いられています。27節は勤勉に働くことが勧められていますので、ここでの畑は豊かな実りをもたらす者として描かれています。一方で30節には怠け者の畑とあります。それはぶどう畑で茨やいらくさに覆われていて収穫が見込めません。

 28―29節は隣人への態度についての知恵のことばです。

 28節に隣人に対して根拠を持たない証人となってはならない、とあります。事実でないことが流布されることによって窮地に陥る多くの人々がいます。ここを読んで、メディアのニュース映像で、何度も同じ場面が繰り返される場面を思いました。もしそれが、根拠のないことだとしたら、偽りを垂れ流していることになります。

 29節では、仕返しをしないようにとあります。聖書の脚注にマタイの福音書5章39節とありましたので、開いてみました。「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」という主イエスの教えです。やられたらやり返したくなるのが私たちの常。克服できるのは神の助けによるしかありません。


いざという時に…

2023年12月13日 | 箴言

箴言 24章1−22節

 敬愛する先輩牧師が「看取(みと)りに入られた」とのメッセージが届きました。「みことばの光」編集の帰り道、コンピュータ操作のお手伝いするために、何度かご自宅を訪ねたことがありました。その度ごとに、美味しい夕食をご馳走になり満たされた思いで帰宅したことを思い起こしています。主の平安がありますように……。

 24章の前半からは、「いざという時」ということばが浮かびました。5−6節には知恵のある者はいざという時に力強く勝利を得るとあり、逆に7節には、いざという時にせっかくの知恵を用いることのできない愚か者の姿が見えます。

 10節では、いざという時(苦難の日)に気落ちするようでは本当はその人は弱いのだと言われます。また11節にはいざという時にある人を助けよとの勧めがあります。さらに16節には、正しい者、つまり主を恐れる者は何度倒れても再び起き上がるとあります。主を恐れる者でも倒れることがあります。しかし、彼とともにいるお方ゆえに、その人には「復元力」が備わっているのだと、ここから考えます。

 そして、私たちすべてにとっての「いざという時」とは、神の前に立つ時です。そのために備えることこそ、本当に知恵のあることなのだと、ここを読んで思うのです。


蔑むな、楽しませよ

2023年12月12日 | 箴言

箴言 23章19−35節

 街中でドラッグストアの場所を探し歩いたら、見つかりません。あきらめかけていたところ、広い通りの向かい側に移転していました。しばらく訪れていないと、いろいろなものが変化しているのですね。

 昨日の本欄に書きましたが、箴言22章17節から24章終わりまでは、多くの場合4行が一つのペアになる格言、いや文章が目立つようになります。さらに、1−9章までのように「わが子よ」という呼びかけのことばが多く用いられています。23章後半でも「わが子よ」が2回出てきます。

 22節に「あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの母が年老いても蔑んではならない」とあります。後半のことばに目が留まります。

 結婚して少なくても年に一度は、子どもたちを連れて私の両親を訪ねていました。私にとって親は、いろいろなことがあったとしても頼りになる存在でした。しかし、ある年の帰省で、親に頼る時は終わったと感じました。それは親がさまざまな面で年老いて弱っていくのだという事実を突きつけられる変化でした。

 そして今、私たち自身が老いつつあります。体力的にもこれまで何の苦労もなくできていたことをあきらめ、長い時間座っていて立ち上がる時には、若い時に痛めた左膝に重さや痛みを感じるようになりました。気がついてみたら、二人の話題は膝が痛いとか肩が痛いとかいうこと……。

 何かができなくなっても何かを持つことがなくなっても、蔑んではならないという戒めを初めて発見したような喜びがあります。そればかりではなく、25節には「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ人を楽しませよ」とあります。蔑むなどころか、喜ばせよと勧めています。これが神を恐れる者の生きかた、教会のありかたです。


用心

2023年12月11日 | 箴言

箴言 23章1−18節

 アドヴェント第二日曜日をどのように過ごされましたか。日本に住む孫の一人が簡単なアニメーションを自分で作ったのでびっくり。タブレットで絵を描くアプリの使い方を少し教えたことがあったのですが、気がついてみたら「すご腕」になっていました。

 23章は、これまでのように一節に一つの格言というのではなく、2節あるいは3節で一まとまりになっています。前半を読んで思ったのは、「用心」ということ。1−3節には、支配者の前で貪り食うことはいのちを落とすことになるので用心するようにという格言です。「自分の喉に短刀を当てよ」とは物騒なことばです。

 6−8節も、食べることについて用心を促すことば。それにしてもことばと心とが違う人と付き合うのは面倒くさいことです。「ほめことばを無駄に」ということばから見ると、用心すべき人が下心のある人の家に招かれて祝いを受けるという場面なのだろうかと想像してしまいます。

 富を追い求めること、他人の土地や畑を欲しがること、罪人を羨むことなどということばから、食べることに限らず、「貪(むさぼ)り」の先に待つのは悲惨であり、破滅だということが伝わってきます。貪りの誘惑から身を守るのは、これまで何度も言われてきた一つのこと。「主を恐れる」です。

 そして、15節からは「心に主イエスがおられるなら」というようにも響いてきます。


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