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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

イエスの主張

2022年08月20日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 14章1−14節

 スイスから、フランスのコルマールそしてストラスブールへと移動しました。夕食はストラスブールで。孫たちはパスタとピザに大満足。私たちはせっかくなのでアルザス料理をと思っていたのですが、それはまた、次の機会に譲りたいと思います。

 きょうの箇所には、多くの方に知られているイエスのことばがあります。それは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」ことばでです。それは、イエスがもう少しすると弟子たちの間からいなくなるとのことばから生まれたものです。しかもそれは、トマスの言葉に促されるように語られたものでした。

 ここではトマスが、そしてピリポがイエスに尋ねています。そして、二人の質問へのイエスのことばは、歴史の中で多くの人々の心に届きました。トマスの質問に対しては、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」ということばが、そしてピリポの質問に対しては、「わたしを見た人は、父を見たのです」とのことばが語られました。

 それにしても、イエスのことばは大胆です。「一歩退いて…」などと言うことはありません。それはイエスが、ご自分が語るそのとおりのお方だからです。このイエスのご自分についての主張を、私たち教会が薄めてはならないのです。 


何によってつながるのか

2022年08月19日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 13章21−38節

 水曜日夜の雷雨が夏の終わりを告げたのでしょうか。日中はそれなりに気温が上がりましたが、夕方から降り始めた雨が心地よく感じました。

 ここは「イエスの時」が音を立てて訪れたように思われる箇所です。ユダがイエスを裏切る行動を開始しました。イエスはそのことを弟子たちに告げますが、「誰が…」については語りません。しかし、それを聞いた弟子たちに動揺が走らないはずはありません。22節の「当惑し」は、ユダを除く弟子たちの思いを伝えていることばだと思います。

 ところで、この箇所には本福音書作者のヨハネが、名前を伏せて登場します。23節の「イエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である」がその人です。そして彼は、自分がイエスのすぐそばにいたことから、誰が裏切るのかを聞くことになりました。

 ここにはイエスとの関係を自ら絶ってしまったユダと、イエスとの関係を何としても保ちたいという熱意を示すペテロとが対照的に描かれています。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません」とのイエスのことばに、彼は、イエスのためならいのちを捨てると決意を表します。しかし、そのように言うペテロもやがて、イエスとの関係を絶つようなことばを吐いてしまうのです。

 つながりを保ちたいと言う側の熱心によって保たれる関係なのではなく、それでも関係を切ろうとしないイエスの愛によってつながりが保たれるということを、ここから知ります。


わたしが…から 互いに…へ

2022年08月18日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 13章12−20節

 孫たちとのスイスの旅。昨日はマイエンフェルトという町にある、「ハイジの村」を訪ねました。日本では「アルプスの少女ハイジ」として知られていますが、この作品の舞台となるデルフリ村は架空の地名。しかし、マイエンフェルトには作品に登場するいくつかの建物を見せてくれる小さなテーマパークです。

 ここは、弟子たちの足を洗ったイエスが、その意味を彼らに話している箇所です。目に留まるのは14節のことば。イエスが師として弟子たちの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗わなければならないと言っておられるのです。

 ここでイエスは、ご自分が十字架にかかり復活し、やがて昇天して弟子たちのところからい亡くなられた後のことを考えておられます。もちろん弟子たちはそのようなことは分かりません。イエスが足を洗われた「最後の晩餐」での弟子たちの関心の一つは、「誰がいちばん偉いか」でした。

 「弟子たち」ですから、世の規準をあてはめるならば「誰がいちばん偉いか」「誰がいちばん賢いか」「誰がいちばん力があるか」…が大きな関心になります。その彼らの足をイエスは洗われたのです。そのような中で、彼らの師であるイエスは、弟子たちに模範を示されたのです。比類なく高くにおられるお方が弟子たちのしもべになられたのです。それが彼らの模範であるとしたら、彼らは互いに何をするべきかは自明のこと。

 ここからは、イエスが彼らのところからいなくなられた後の広がりも感じさせます。「互いに…」という広がりです。その広がり、どこかで止まってはいないかと私たちはいつも自分に問う必要があると思います。


関係ないと言われて

2022年08月17日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 13章1−11節

 山の上にそびえる城の麓まで行きました。中には入りませんでしたが、近くから見上げるだけでも満足するほど美しい城でした。

 13章から17章は、いわゆる「最後の食事」の席からゲッセマネへの移動の折りの出来事だと考えられます。イエスはゲッセマネで逮捕されるのですが、「ご自分の時」が来たのを知って折られたイエスは、弟子たちを最後まで愛されたと、1節にあります。

 「最後まで愛された」とは何か、それはまず、弟子たちの足を洗うことでした。

 その時ペテロは、決して洗わないでほしいと断ります。食卓で足を洗うというのは、奴隷の務めだったからです。彼はイエスが奴隷がすることを自分のためにするなど、あってはならないことだと考えたのです。

 なぜなら、イエスはペテロにとって師、いやキリストだからです。彼は弟子としてイエスに仕えようとしていました。しかし、ここでは逆のことが起ころうとしているのです。ですから、ペテロは断ったのです。けれども、イエスの「あなたを洗わなければわたしと関係ないことになります」とのことばに、足だけでなく他も洗ってくださるようにと願います。

 ここは、イエスと自分の関係について考える箇所です。「主イエスに仕える」と告白する私のために、主イエスがしもべとなってくださったことがなければ、そのことを知らなければ、イエスとは関係がないのです。

 ですから、9節のペテロのことばに、どこか共感できるのです。


大きな声で言ったこと

2022年08月16日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 12章37−50節

 夏休みで出かけている方の家に、ブロンベーレンを摘みに行きました。日本ではブラックベリーと言います。ジャムにしていただこうと思います。ごちそうさま!

 ここには、イエスが行われたしるしを見てもイエスを信じなかった人々のことが書かれています。福音書の著者ヨハネは、預言者イザヤによる預言の成就だとこのことを説いています。

 40節に引用されている預言は、イザヤ書6章にあります。イザヤが神の栄光を見ておののいた後に置かれています。それで、ヨハネは「イザヤがこういったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである」と続けるのです。

 イザヤ書6章を読むと、イエスの栄光を見たイザヤは、自分の罪の大きさ汚れを嫌と言うほど知らされるのですが、主は彼をきよめ、ご自分のことばを与えて人々のところに遣わされるのです。しかし、主は予めイザヤに言われました。それが40節です。

 ここを、イザヤの預言者としての苦しみとイエスのお姿とが重なるように思いながら読みました。神のことばを語っても、たくさんのしるしを見ても、心を頑なにするものには届かないのです。だからといって、無駄なことでは決してないのです。この時は信仰の告白に至らなかった者たちの中に、アリマタヤのヨセフやニコデモがいるのですから…。

 後半には、イエスが大きな声で言われたことが記録されています。「大きな声で」ということばに目が留まります。心を頑なにする人々に声を大にして訴えています。何を…? ご自分と父なる神とが一つであるということをです。これはイエスの切なる訴えです。

 一人も滅びることを望まれない神のお姿が、ここにあります。


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