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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ついて行く者を支える

2022年08月26日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 17章1−19節

 残暑の厳しい当地ですが、朝の涼しさを心地よく感じています。「9ユーロチケット」もあと数日になりましたので、どこかに行ってみようかな、とも思っています。

 本章は、イエスが弟子たちのためにとりなす祈りで占められています。しかし、本日の「みことばの光」が解くように、ここに記されている祈りは、私たちのための祈りでもあるのです。

 1節の「イエスは目を天に向けて言われた」ということばが目に留まります。祈りは「目を天に向けてなされるもの」です。私は祈る時どちらかというと頭を下に向けることが多いのですが、上を見上げて祈ることの大切さをここから教えられます。

 昨日は、「みことばの光」の新しい5年サイクルの打ち合わせをデザイナーの方としたのですが、解説があるいわゆる本文のレイアウトが少し変わります。新しいレイアウトは今までよりも初めに「上を見る」ことになります。

 話が逸れましたが、イエスの祈りには弟子たちの課題といいますか、欠点に触れるということがありません。いやむしろ、「彼らはあなたのみことばを守りました」とさえ祈っているのです。私もそうですが、人はあれこれと自分が足りない者であること、失敗を重ねてしまうことを嘆きます。もしもそのようなことにだけ目が向くのだとしたら、それこそうつむいてだけいることになります。

 弟子たちもそうでした。しかしイエスは弟子たちをそのようにはご覧になりません。「あなたのみことばを守りました」と祈るのです。この祈りには、預言的な意味合いも含まれているのかもしれないとさえ思いました。

 イエスについて行こうとする者は、自分の才覚でそれをなしえることはできません。とりなしてくださる方によって、このようなとりなしによって支えられているのです。


しばらくすると

2022年08月25日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 16章16−33節

 水曜日、一か月休んでいた祈祷会を再開しました。聖書をともに読み分かち合うのは良い時だと改めて思いました。夏の間あちこちに出かけていた方々もそれぞれの生活の場へと戻ろうとしています。お疲れが残りませんように…。

 ご自分が去って行かれることについて、イエスが弟子たちに語られたことばも終わりの部分です。これまでもそうでしたが、この箇所にも「時」が大きな意味を持っているということが読んでいて伝わってきます。

 「しばらくすると」ということばが多く用いられています。さらに、「その日には」ということばもあります。イエスの弟子たちがこれから向かって行こうとするところ、時でも、待ち構えているのは厳しいことです。

 「世にあっては苦難があります」という33節のことばはよく知られていますが、イエスは弟子たちに安っぽい平安を約束はされません。しかし、何を経験しても恐れることはないとの確かな約束を与えておられるのです。それは、イエスがこれからたどろうとしている勝利の道に基づく約束です。

 イエスの勝利とは、十字架と復活、そして昇天です。もうしばらくするとその時が来るのです。本を読むことにたとえるならば、数ページめくるとそれを知ることができるのです。しかし、弟子たちには先を見通すことが許されません。

 ここを読んで、イエスのことばを聞いて、今、信頼することが大切だと教えられます。明日何が待ち構えているのかが分からないからこそ…。


真理の御霊

2022年08月24日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 16章1−15節

 最近は翻訳のための便利なツールがあるので、郵便物にそんなに怖じ気づくことも減ったように思います。気をつけなければならないのは、届いた郵便物を放っておくことです。

 もっと良いことが待ち構えているのに、目の前の今の関係に変化が訪れるのを恐れるということは、生活の中でよくあるのではないかと、ここを読んで考えました。自分たちのところから主イエスがいなくなるという大きな変化を前にして、弟子たちは悲しみでいっぱいでした。5節の「あなたがたのうちだれも、『どこに行くのですか』と尋ねません」というイエスのことばに目が留まります。

 彼らはすっかり意気消沈してしまったのです。イエスとの関係がこれで終わってしまうと考えたからです。今が変わってほしくない、いつまでも今が続いてほしいと考える時があります。それはある意味で幸せな経験なのですが、それが終わることへの恐れが心を占めてしまい、次に何が待ち構えているのかに思いが至らない…、そんなことを5節から思いました。

 イエスは弟子たちの思いを、この先へと向けようとされます、「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです…」と、理由は、イエスが弟子たちのところに「助け主」を遣わされるからです。聖書のこの先を読むと、本当にイエスがここで言っておられるとおりなのだとうなずくのですが、この時の弟子たちに、「すぐに分かれ!」と言っても無理なことなのです。しかし、やがて彼らが分かるようになると知っておられるイエスは、この先のことを伝えておられます。

 「助け主」、ここでは「真理の御霊」とイエスは言っておられるのですが、御霊が三つのことをすると明らかにしておられます。一つは世の誤りを明らかにすること、二つ目は弟子たちをすべての真理に導いてくださること、そして三つ目はイエスの栄光を現すことです。

 だから、真理の御霊のお働きに信頼して歩んで行くのは大切なこと。変化を恐れて怖じ気づいていてはならないのです。

*写真はスイス交通博物館(ルツェルン)


憎まれる者たち

2022年08月23日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 15章18−27節

 長距離を自動車で移動していると、季節の移り変わりをおぼえる景色に出会います。ある場所は紅葉が始まっていました。

 昨日、イエスはこの章で「キリスト者の関係」について教えておられると書きましたが、ここでのテーマはキリスト者と世の関係、世とのかかわりです。17節に「世があなたがたを憎むなら」とあります。

 イエスはご自分の国に来られたのに、歓迎されませんでした。それどころか、中にはイエスを殺そうとする人々もいたのです。イエスはそのような扱いを受けたが、弟子たちはそうではなくて、たいそうこの世から喜ばれたということはありません。イエスを憎んだ世は、イエスの弟子たちを憎むのです。このような仕打ちを受けなければならないのは辛いことです。しかし、そのような体験をするようになったとしたら、イエスとつながっているゆえだとイエスは教えておられるます。

 なぜ世は、イエスの弟子たちにこのような仕打ちをするのでしょうか。それは、弟子たちが世のものではないからです。「あなたがたは世のものではありません」とイエスは言っておられます。それならば、イエスを信じる者だけのコミュニティを作ると言う道も考えられますが、イエスはそうはなさいません。父がご自分を遣わされたように、ご自分も弟子たちをこの世に遣わされるのです。

 福音のために憎まれることがあったとしたら、イエスがまず憎まれたことを思うようにとも話しておられます。キリストを信じる者にとって生き難いこの世、しかしイエスは彼らを取り去ろうとはなさいません。なぜなら、彼らを通してイエスが、福音が届けられるからです。


とどまる

2022年08月22日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 15章1−17節

 一か月にわたる孫たちの滞在もきょうが終わり。無事に両親のもとに帰すことができるという安堵と疲労と、さびしさが交錯しています。どなたかが言われた「孫は来てよし帰ってよし」ということばを思いました。

 イエスはこの章で、「キリスト信者の関係」について教えておられます。初めにキリストと信じる者との関係、次に信じる者同士の関係が、そして信じる者と世との関係です。

 キリストと信じる者との関係について述べられている1−11節に何度も繰り返されるのは、「とどまる」ということばです。日本語訳で11回用いられています。イエスはこれをぶどうの木と枝の関係にたとえておられます。「とどまる」というと楽をするかように受け取られるかもしれませんが、イエスはここでは信じる者がキリストとの関係を保つよう努めるようにと教えているという印象がします。「あなたがたが…とどまり」ということばの繰り返しが目に留まります。

 特に、「わたしの愛の中にとどまりなさい」という9節を心に留めました。愛を情緒的、感情的なものと考えますと、神の愛、イエスの愛を疑うようなことが身の回りにはたくさん起こります。揺さぶられます。けれども、神の愛は不動だと受け止めることができたならば、そこから平安が生まれます。

 キリストとのこの結びつきが、信者同士の結びつきへとつながり、さらにこの世とのつながりにも大きな意味を持つのだと思います。

 


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