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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

この時から、…この時に

2022年08月15日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 12章20―36節

 子どもたちといっしょにいると、普段口にしないものを食べることにもなります。パイナップルもその一つ。買い求めてちょうど食べ頃の時に切りましたので、とても美味しくいただいています。

 この箇所のいくつかのことばには、忘れられない記憶があります。神学校の説教理論の授業で、「一粒の麦…」の箇所を、「私たちの愛の犠牲」というテーマで語ろうと思うと言ったら、「一粒の麦は私たちではない、イエスただお一人!」と教師から厳しく言われたことがあります。

 36節の「光があるうちに」ということばから採られた三浦綾子さんのエッセイを読んだことも忘れられません。

 ヨハネの福音書では「時」がキーワードの一つになっています。これまでイエスは「わたしの時はまだ来ていない」と言っておられました。福音書の著者ヨハネも「イエスの時はまだ来ていなかった」と繰り返し書いています。

 ここでイエスは、「この時からわたしをお救いください」、「このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」と言っておられます。「この時」とは何を指すのでしょう。十字架に至る苦難です。前のことばは受難から救われることを願うものであり、後のことばはご自分の務めに歩む決意を表すものです。誰のために…?

 私たちは、自分の身に何が起こるのかしらないまま、ある意味で時の流れに身を任せて歩んでいます。しかしイエスは、ご自分の時を知って歩いて来られたのです。


もっともらしいことば

2022年08月13日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 12章1−11節

 「ライオンと魔女」(C.S.ルイス)の読み聞かせを、私がすることになりました。木曜日は第一回。幼稚園の働きをしていた頃、何度も読み聞かせした本なので、読み始めたら途端に記憶がよみがえってきました。何度読んでも面白い作品です。

 この箇所にはイエスをめぐって二人の主人公が登場します。マリアとユダです。二人はイエスに対して対照的な態度を示します。

 興味を引くのは1、2節に「ラザロが…いた」ということばが繰り返されていることです。あるいは、イエスがよみがえらせたラザロは、人々の興味本位な関心から身を避けていたのかもしれません。9節からそのことが確認できるでしょう。

 マルタはマルタらしく給仕しています。三人の、それぞれのイエスへの愛が個性的に伝わってくるような箇所です。

 マリアは高価なナルドの香油をイエスの足に塗り、髪の毛でぬぐいました。彼女はイエスが自分の家に滞在される時には、イエスのそばで耳を傾けているような女性です。もうすぐイエスの身に何かが起こることを知っていたのでしょう。この時とばかり、彼女は一年分の収入ほどもする香油をイエスのために用いました。しかし彼女は何のためらいもありませんでした。

 一方ユダは、マリアの行為を非難します。もっともらしいことばで…。マタイ26章8節を読むと、「弟子たちは…憤慨して言った」とありますので、ユダの言葉に他の弟子たちも賛同したのです。しかし彼の「真っ当な」ことばは、裏返すとイエスへの愛が見られないことを明らかにしてしまっています。

 主イエスを愛さない理由を、一見もっともらしいことばで飾るなどということは、私たちにもあるのです。


行き着くところ

2022年08月12日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 11章45−57節

 子どもたちが日本へのお土産を買いました。いつものスーパーのレジのおじさんは子どもたちにちょっとしたいたずらを…。お菓子を自分の手の中に抱えて、渡してくれません。子どもたちがにわか覚えのことばで、「おねがい!」と言ったら、笑顔でやっと渡してくれました。そんなやり取りが何度がありましたが、後に並ぶ方々も楽しそうに見ていてくださいました。

 イエスがラザロをよみがえらせたことは、他のしるしの場合と同じように二つの反応を引き起こしました。信じる人と信じない人です。ここには、信じない人々の動きが詳しく書かれています。

 信じない人は、その態度を自分のうちにとどめておかず、イエスと敵対していたパリサイ人たちに報告しました。パリサイ人と祭司長たちは最高法院を召集しました。「イエス対策」です。人々がイエスを信じるようになることで、自分たちの立場が危うくなるという危機感を募らせたゆえの召集でした。

 自分たちの立場を危うくする者は放っておくことはできないというのが彼らの理屈です。そこには、自分たちの心を低くしてイエスのことばを聞き、イエスがしたことを受け止めようという思いはありません。いなくなりさえすればいいのです。大祭司の一言で、彼らはイエスを殺すという企てを実際に実行することになったのです。

 「信仰が成長する」とよく言われます。ここを読むと、不信仰も成長するのだと考えました。「私が、私たちが間違っていました」と言えないならば、心を頑なにするのみです。


心を騒がせる

2022年08月11日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 11章30−44節

 久しぶりのライン川下りに行きました。電車のトイレが故障して使えないので、途中駅で一旦降りるというハプニングがありましたが、それはそれで楽しいこと。しかし、その後に乗った電車もトイレが故障して使えません。「……あるある」なのかもしれないのですが、困ってしまいますね。

 マルタの後は、マリアとイエスとの対話です。マリアも姉のマルタとほぼ同じように「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに…」と言いました。しかもマリアは泣きながら言ったのです。マリアは激しく泣き叫んだのです。

 イエスはマリアのその姿に「霊に憤りを覚え、心を騒がせました」。福音書には、イエスがご自分の感情を露にするのは少ないのですが、ここはその箇所です。「霊に憤りを覚え」ということばは、「馬のように荒々しく鼻息をはく」という意味です。ですから、日本語の聖書も「憤り」と訳します。死の力が人間をこれほどの悲しみに追いやるのかと、憤っておられたのではないかと考えます。

 「心を騒がせた」は、この後14章1節でのイエスのことばを思わせます。「あなたがたは心を騒がせてはなりません」とはイエスが弟子たちのところから去って行かれると聞いた弟子たちへのことばです。イエスは常に心静かにおられたのではありません。弟子たちが心騒ぐさまを、ご自分はすでにラザロの死を悲しむマリアを初めとする人々の様子を見て心を騒がせられたのです。

 そして、イエスはそのような激しい思いを「泣く」ことによって外に表されました。イエスの涙は人々に二つの反応を引き起こしたことが続くことばから分かります。ラザロへの深い愛をイエスがもっておられたこと、そしてイエスはラザロを死に追いやらないようにはできなかったということでした。

 二つ目の反応へのイエスの答えは、「断じて違う!」でした。ラザロの墓の石を取りのけよと命じられたイエスは死に立ち向います。そして死に勝利されます。ラザロの墓の石は、やがてイエスの墓の石へとつながります。


今でも知っています

2022年08月10日 | ヨハネの福音書

ヨハネの福音書 11章17ー29節

 おばあちゃんによる「ライオンと魔女」の読み聞かせを聞いた孫の一人に「スイッチが入り」、数日でナルニア国物語全7巻を読み終えてしまいました。興味を持った弟に、今度はお姉ちゃんが読み聞かせを始めました。素敵な連鎖です。

 イエスがベタニアに着いた時は、ラザロが墓に入れられて四日経っていました。「四日」とはイエスの来宅を待ちわびていたマルタとマリアの二人の姉にとってどれほどの長さだったでしょうか。

 イエスがおいでになったと聞いて、迎えに行ったのはマルタ。ですから、ここではマルタとイエスとの対話が描かれます。ここでの対話を読むと、マルタの信仰が伝わります。「あなたがいてくださったのならば…」とのことばに続いて、彼女は「あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています」と言います。

 「私は今でも知っています」ということばに心が動かされます。

 彼女は失望していないのです。イエスがおいでになるのは遅かった、しかし彼女はイエスを信じているのです。そのマルタにイエスは、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです…」という、どれほどの人々に確かな希望を届けたのか分からないほどの、ご自分についてのメッセージを届けてくださいました。

 マルタについては、ルカの福音書10章でのエピソードによって、妹のマリアと比べられてしまうという、偏った評価のようなものが聖書を読む人々の間にあるかもしれません。しかし、私はそうは思いません。弟の死という哀しみの極みにあってなお、彼女は「わたしは、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」と言うのですから。


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