ヨハネの福音書 12章20―36節
子どもたちといっしょにいると、普段口にしないものを食べることにもなります。パイナップルもその一つ。買い求めてちょうど食べ頃の時に切りましたので、とても美味しくいただいています。
この箇所のいくつかのことばには、忘れられない記憶があります。神学校の説教理論の授業で、「一粒の麦…」の箇所を、「私たちの愛の犠牲」というテーマで語ろうと思うと言ったら、「一粒の麦は私たちではない、イエスただお一人!」と教師から厳しく言われたことがあります。
36節の「光があるうちに」ということばから採られた三浦綾子さんのエッセイを読んだことも忘れられません。
ヨハネの福音書では「時」がキーワードの一つになっています。これまでイエスは「わたしの時はまだ来ていない」と言っておられました。福音書の著者ヨハネも「イエスの時はまだ来ていなかった」と繰り返し書いています。
ここでイエスは、「この時からわたしをお救いください」、「このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ」と言っておられます。「この時」とは何を指すのでしょう。十字架に至る苦難です。前のことばは受難から救われることを願うものであり、後のことばはご自分の務めに歩む決意を表すものです。誰のために…?
私たちは、自分の身に何が起こるのかしらないまま、ある意味で時の流れに身を任せて歩んでいます。しかしイエスは、ご自分の時を知って歩いて来られたのです。