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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

失格者にならないように

2018年09月28日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 9章19−27節

 近くの教会が木曜日にしている「ドイツ語のお話」に参加していることは、ここでも何度か触れましたが、きのうは1周年の記念イベントでした。お祝いにと赤飯のおむすびを持って行きましたが、さて反応は…? とてもおもしろかったです。

 この箇所には、福音を宣べ伝えるパウロの姿勢が明らかにされています。ここを読むたびに、自分はどうなのだろうかと心探られ、襟を正される思いがします。

 おそらく、コリント教会を「荒らしていた」知恵ある教師たちのあり方を意識してのことばなのだと思いますが、人を罪と死から生かす力のある福音は、それを正しく力強く宣べ伝えるだけではなくて、伝える者がどのように生きているのかによって人に届くか届かないかが分かれるというように読みました。

 ここには、競技者の姿勢に自分をたとえるパウロが描かれています。勝つために自分を鍛え節制する姿がそこには描かれています。みことばを語る者は、みことばによって歩む者でもあるということをパウロは言おうとしているのではないかと、考えました。

 「自分自身が失格者にならないように…」、このことばを心に留めます。


権利を用いず

2018年09月27日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 9章1−18節

 外を歩く人がコートやヤッケを着るようになりました。この一週間でずいぶんとヒンヤリとしてきました。ここ数日の美しい青空、そして夕焼けが秋を感じさせます。

 偶像に献げられた肉を食べるかどうかという質問に答える中で、兄弟をつまずかせるならば今後決して肉を食べないと公言したパウロは、自分が使徒であることを批判する人への反論へと話を進めていきます。

 コリント教会には、パウロは使徒ではないと批判する人がいました。教会からの報酬を受けないで宣教していたことから、批判が出てきたのです。パウロは自分は使徒であること、とりわけコリント教会に対しては使徒だと明言します。使徒であることの証印はあなたがただとまで言います。それゆえ、自分には使徒として行使することのできる権利を持っているのだと反論します。

 それでは、なぜ彼は使徒として当然受けるべき処遇を受けなかったのでしょうか。キリストの福音に対して何の妨げにもならないためでした。「親の心、子知らず」ということばのように、コリント教会はパウロの身を削るような愛に基づく配慮を知ることなく、批判していたのです。

 何かを行うとき、周りの人々はその人がなぜそれを行うのかをすべて知ることができません。動機を言わないこともありますし、言えないときもあります。そこから誤解や憶測が生まれます。そして、それが一人歩きして、教会の働き人(牧師、役員、リーダーなど)への評価になってしまうという残念なことも起こりうるのだとも考えさせられます。同時に、自分が何のために福音のために仕えているのかを探られる箇所でもあります。


愛ゆえの自制

2018年09月26日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 8章

 夕食を終えた頃、お客様が…。近くの教会で木曜日午後に行われている「外国人のためのドイツ語でおしゃべり」の先生でした。今度の木曜日には午前10時から教会がしている木曜日プログラムの一周年記念行事にいらっしゃい、ということでした。この前の木曜日、来客のために出席しなかったので心配してきてくださったのかもしれません。そこでしばしおしゃべり。話題はやはり、食べ物のことで盛り上がりました。

 コリント教会からの質問の二つめは、偶像にささげた肉を食べてもよいかということでした。このことについては、「みことばの光」が詳しく説明しています。偶像礼拝の町コリントでは、その影響が食生活にも及んでいましたので、教会の中には偶像にささげた肉を食べたら汚(けが)れてしまうと心配していた人たちがいたのです。

 一方で、偶像など生きた神ではないのだから、ということは偶像などないものなのだから、それにささげた肉を食べて汚れるなどということはないと主張する人々も教会にいたのです。パウロはこのような考えに、まず同意します。そのとおりだというのです。

 その上で彼は、知識のある人々が信仰の弱い人々(偶像にささげた肉を食べたら汚れると考えている人々)の前で、むしゃむしゃと偶像にささげた肉を食べてつまずかせるようなことがあってはならないとも教えています。

 正しい知識を持ち、それに基づいて行動するのは大事なこと。しかしパウロは、それが弱い人々をつまずかせるのならば、自分は偶像にささげられた肉を食べないと言います。愛ゆえの自制です。


時は短く

2018年09月25日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 7章25−40節

 日曜日午後の小さな嵐で、近くの散歩コースにある松の木からたくさんの松ぼっくりが落ちていました。少し水で湿っているので傘が閉じていますが、少し経つと開くことでしょう。少しずつクリスマスの準備をしています。

 結婚についてのコリント教会からの問合せへにパウロは答えています。この箇所で目に留まるのは、時に対する鋭さです。パウロは「差し迫っている危機のゆえに」、「時は短くなっています」、「この世の有様は過ぎ去るからです」などと述べています。

 初代の教会はキリストがおいでになるのが間もなくだと信じて待っていました。パウロもその一人です。パウロが結婚についての序言をする際に、「そのままで…」と繰り返すのは、キリストの再臨を前提にしてのことだというのがわかります。

 何かの時を待ち、その時間が限られているとしたら、それまでにすることを選ばなければなりません。「あれもこれも…」はできないからです。結婚は人生ではとても大きなこと。パウロは、もうすぐキリストがおいでになるのだから、大きなことに心を奪われないようにするのがよいとと伝えたいのです。

 結婚はどうでもよいなどということではありません。夫と妻との関係がキリストと教会の関係になぞらえられているほどです。それほど密な結びつきなのですから、時としてキリストとの結びつきを妨げるものになるかもしれない…のです。


神の御前に

2018年09月24日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 7章17−24節

 日曜日の午後、当地での礼拝が始まる頃に嵐のような天候になりました。帰りの道路が一部冠水していたのは、わずかな時間にたくさんの雨が降ったことを物語っていました。昨日は「秋分の日」。これからは駆け足で夜が長くなっていきます。

 コリントの教会は、結婚のことだけでなくて、いろいろな問題への解決を求めていました。この箇所には、割礼のことと奴隷についてのパウロの見解が述べられています。それは、クリスチャンでない配偶者を持つ人々へのアドバイスに通じるものがあります。「召されたままの」ということばが鍵語です。

 割礼を受けたユダヤ人のクリスチャンは、「知恵ある人々」から割礼など必要ないと言われて、どうしたらよいのかと不安だったのでしょう。反対に割礼を受けていないギリシア人のクリスチャンは、ユダヤ人のクリスチャンから割礼を受けるべきだと言われて、どうしたらよいのかと不安だったのでしょう。パウロは「召されたままの状態で」と答えます。割礼は取るに足りないことだからです。

 奴隷のクリスチャンは、自分はキリストを信じて自由にされたのだから奴隷でいたくはないと訴えていました。これに対してもパウロは、「召されたままの状態で」と答えるのです。「奴隷などいらない!」と奴隷解放のために戦うようにと言わずに、「そのままで」ということばは、ある人々を失望させたかもしれません。

 もちろん奴隷でいるということは決して取るに足りないものではありません。ここでパウロが言うのは、長いものに巻かれろということではありません。パウロは、クリスチャンの奴隷たちは「主にある自由人」だと言い、クリスチャンの自由人に「キリストに属する奴隷」だと言っています。神の前に自由であり神の御前に奴隷なのだという新しい立場にこそ目を留めるようにと勧めるのです。

 性急に物事を進めようとし何かを変えなければと急ぐ者に、「神の御前の私」が何かに気づき、とどまるようにと促します。


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