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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

はるかにまさる道

2018年10月22日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 13章

 日曜日の午前、私たちのこちらでの働きを祈りによって支えてくださる方々の祈祷会が日本であり、私たちもインターネットで参加しました。皆さんとは以前からの知り合いですが、「このおじいちゃんとおばあちゃんだあれ?」とことばでは言いませんが、不思議そうにじっと見ている小さなお友だちもいました。ほぼ一か月に一度行なわれる祈り会を神さまに感謝。勇気づけられています。

 「愛の章」「愛の賛歌」として知られている本章。パウロは12章の最後に「私は今、はるかにまさる道を示しましょう」と述べてから愛の賛歌を歌い上げます。12章でコリント教会の賜物の問題に切り込んだパウロは、愛が大切だと話題を変えたのではありません。というのは、この章でも14章でも、彼は賜物のことについて語っているからです。

 どんなに優れた賜物を神からいただいていて、それを用いることができたとしても、愛がなければ何の意味もないとさえ、パウロは1−3節に綴ります。これこそ、コリントの教会が必要としていたことなのです。いいえ、一世紀中頃のコリントにあった教会だけが必要としていたのではなくて、すべての教会、クリスチャンになくてならないのが愛。

 愛は何か美しい抽象的なものというのではなくて、十字架にはっきりと表されたものです。愛の神から十字架によって罪のゆえに無価値な者たちに流れ出るものこそ愛なのだと、イエスを信じる者は考え、この愛によって生きていきたいと心に決めます。

 礼拝後に、「自分は何もできないから…」という人にどのように声をかけるかということについて分かち合いました。ある方が、「それはすばらしい発見よ。イエスさまが働いてくださるわ、きっと」と言って差し上げたいという趣旨のことを話しておられました。

 この章を読み返すうちに、自分には愛がないという思いに駆られます。それはまた、私のために十字架でいのちを落とすほどに愛してくださったお方の愛がどれほどのものかを知るときでもあるのです。感謝に堪えません。


「同じ」と「一人ひとり」

2018年10月20日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 12章1−11節

 「みことばの光」来年1月号の編集をしています。この号から、「みことばの光」が用いる聖書が「聖書新改訳2017」になります。すでに、この聖書を読んでおられる方も少なくないでしょうし、私もこのブログで引用するのは新しい聖書にしています。神さまのことばである聖書は変わることがありませんが、ことばは時代とともに変わりつつあります。それに聖書学という分野においても、これまで理解していたのとは違う新しい光が聖書に当てられるということもあるでしょう。

 きょうの箇所を読みますと、この手紙を受け取ったコリントの教会にどのような問題があったのかを想像することができます。手紙のはじめにパウロは、「あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者とされました」と書いています。この一言からは、コリントの教会には神からの豊かな賜物を受けていた人々が少なくなかったことがうかがえます。

 ところが、パウロはその後で教会の仲間割れの問題に触れています。その豊かさが互いの間に張り合う心や相手を見下す態度をもたらしてしまったのです。

 ですからパウロは、きょうの箇所で賜物をどのように受け止め認め合うのかということについて大切なことを伝えようとしています。まず心に留まるのは、賜物は神さまが与え、神さまに仕えるためのものであり、神さまが働かれるものだという、4-6節のことばです。御霊、主、神ということばが並ぶのは、教会に賜物をお与えになり、それを用いて、働きをなすのは三位一体の神なのだということです。

 何かができる、優れていると、人は素直に喜びます。けれども、同時に必要以上に自分を高め、他人と張り合い、場合によっては人を見下さすことさえします。「同じ」ということばがこの部分に目立ちます。「同じ」ということばと「一人ひとり」ということばが教会においてはとても大切なのだということばが心に響いてきます。


わきまえて

2018年10月19日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 11章17−34節

 教会に通うようになって、たくさんの普段用いないことばに出会いました。「愛餐会」ということばもその一つ。礼拝の後などに、教会に集う皆さんがいっしょに食事をすることをそのように呼んでいるのだとは、すぐにわかりました。

 「餐」ということばから「晩餐会」を連想した私は、はじめはものすごいごちそうが出るのだろうと思っていました。ナイフとフォークで…というのが「餐」ということばの印象だった私は、ちょっと肩すかしを食った気持ちでした。しかし、皆さんが持ち寄る食べ物は、独り身の学生の自分には一つ一つがみな美味しく、ごちそうでした。

 コリントの教会には、食べることにおいても大きな問題がありました。一緒に食卓を囲むことで、主にあって一つとされていることを表わす場であるはずの愛餐が、社会的身分の違いをそのまま持ち込んでしまったような醜い場所になっていたのです。そのような状態のままで、主の食卓(聖餐)にあずかるならば、聖餐の意味を大きく踏みにじることになってしまいます。

 29節の「みからだをわきまえないで」ということばと、31節の「自分をわきまえるなら」ということばに目が留まります。キリストが自分のために肉を裂かれ血を流されたことを、信者は聖餐のたびにおぼえます。目の前に置かれたパンと杯にどのような意味があるのか、そこに、私の罪の贖いとなって十字架にかかられた神のひとり子イエス・キリストを見るのでなければ、意味がないのです。

 そして、みからだをわきまえることができて始めて、本当の意味で自分をわきまえ知ることができるのだということを思うのです。


権威をかぶる

2018年10月18日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 11章2−16節

 「みことばの光」の編集の合間にちょっと机を離れて外を見たら、美しい夕焼け。写真におさめましたが、技術的なことからも目で見た美しさを充分に表現することができませんでした。

 箴言は12章でひとまず終えて、きょうからはコリント人への手紙11章から読むことになります。数日は切り替えに時間がかかりそうです。

 きょうの「みことばの光」のはじめにあるように、ここからはコリント教会にあった混乱の問題を取り上げています。これまでも読んできたように、コリントの教会はギリシアの文化、異教の影響を受けやすい環境にあり、教会の礼拝にも及んでいました。一部の女性がかぶり物をつけないで礼拝をしていたのです。

 パウロは、男性が自分の頭をおおっていたら神の栄光をおおうことになるので、頭をおおってはならないと書きます。一方女性は、礼拝においてかぶり物をつけるべきだと説きます。5節に、「女は誰でも祈りや預言をするとき」とあります。当時から教会では、女性が礼拝において祈りや預言をしていたということを確認できることばです。

 女性が礼拝においてかぶり物をつけるというのは、慎ましくするべきだとか、男性の下にあるからだという理由ではありません。10節に「女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです」とあります。これは、女性がかぶり物をつけるのは、礼拝で祈りや預言をするときに権威が必要だからです。ですから、女性はかぶり物をつけることによって、神から権威を付与されていることを明らかにしているとみることができます。

 世界各国の競争力に関する調査結果が公表されました。日本は総合で5位と評価された一方で、女性の社会進出という点では相変わらず低い評価にとどまっていると報じられていました。また複数の大学医学部の入試では女性に厳しい採点がなされていたという報道もありました。深いところになお男性優位の風潮があることが、このようなところに現れているのです。


試練とともに脱出の道が…

2018年09月29日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 10章1−13節

 9月も終わろうとしています。夏の服をしまって冬の服を出しました。「こんな服があった」と思い出すことも…。アップルパイを焼くためにうってつけの林檎も売っています。秋ですね。

 自分自身が失格者にならないようにと書いたパウロは、出エジプトを経験しながらも偶像にすがったために荒野で滅ぼされたイスラエルの民のようにならないようにと警告しています。「みことばの光」には、それは、イエス・キリストを信じて救われたコリントのクリスチャンたちが「真のイスラエル」とされた者だからだと書いています。

 「偶像に献げた肉を食べることについて」という質問を受けたパウロは、コリントの教会を揺さぶっていた偶像礼拝(神でないものを神として拝むこと)を憂えています。イエス・キリストを信じてまことの神との生きた結びつきを得たコリントの信者たちが、神ならぬ神々に心を寄せていく様子に、しかもことば巧みに、知識を持つ者は何をしても自由だからとけしかけるいかがわしい教師のことばに乗せられてしまう様子に、大きな危機感をもっていたのです。

 信じて救われたのだから、何をしても神は守ってくれるという甘い考えでいてはならないと厳しく警告しています。旧約の民のように偶像礼拝によって倒れないようにと…。

 13節のことばは多くの人々に親しまれています。しかし、元々は偶像を慕うという試練に直面しての励ましのことばとして届けられたことばです。コリントの教会が直面している試練は、他でも経験されていること、されたこと。そのようなとき、クリスチャンは神に頼り、神の助けをあてにしてもよいのです。確かに神はその試練から脱出させてくださるのだから、神に信頼して「偶像礼拝を避けなさい」(14節)とパウロは話を進めます。

 「どうしよう!」というときにこそ、神を頼りにして神に願うならば、必ずどこかに脱出の道が用意されている、ありがたい約束です。


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