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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

しかし、今やキリストは

2018年10月27日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 15章20−34節

 ある方から頂戴したメールの書き出しにある、「いよいよ避けて通られない冬の訪れ…」という一言が心に留まりました。先週はじめまでは紅葉が美しく映える秋晴れが続きましたが、ここのところ曇天が続いています。

 きょうまでは夏時間ですので、朝7時になっても外はまだ暗やみ。明日からは1時間遅くなりますので、しばらくの間は「改善」(?)しますが、夜の長い季節の到来が間近です。

 この部分は二つに分けることができるでしょうか。まずは、キリストが復活したことによって死者の復活の約束がどのように実現していくのかをパウロは明らかにしています。

 20節の「しかし」という接続詞には力強さを覚えます。もしもキリストが復活しなかったならば、イエスを救い主だと信じている私たちはどんなにみじめで哀れなのだろうと、パウロは問いかけていますが、「しかし」ということばには、そんな懸念を吹き飛ばしてしまう力があります。キリストは死者の中からよみがえられたのです!

 そして、ここから未来についての約束が間違いなく起こるのだとして、パウロは終わりの時までのことを説いているのです。「最後の敵として滅ぼされるのは、死です」ということばにも目が留まります。信仰者は、イエスの復活の事実の上に自分たちもまた、復活させていただくという希望を抱いていますが、それはつまり、死が滅ぼされて無力になる時が来るということです。

 病を得たり思わぬ事故に遭ったしりして、人は愛する者の死を嘆き悲しみ自分も死を恐れます。しかし、キリストの復活によって死は全く無力なものとなるのです。

 パウロは、キリストの復活がなかったとしたらクリスチャンが行なっていることには意味がなくなると続けています。一つは「死者のためのバプテスマ」であり、もう一つは「信仰の戦い」です。キリストの復活は私たちの日々の生活を励まし、良い意味での緊張を与えていることを覚えます。


死者の復活がないのなら

2018年10月26日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 15章12−19節

 「ドイツ語でおしゃべり」の帰り道、落ち穂拾いならぬ「落ち胡桃拾い」をしました。多くの実はなくなっていましたが、15個程度を「収穫」しました。「ドイツ語でおしゃべり」には、私たちの他、イランの方が出席していましたので、ドイツ語のほかにペルシャ語が飛び交ってとてもおもしろい時間でした。導いてくださる方が私たちに、「二人は家での会話をドイツ語でするように」と命令(?)されたのですが、どうしましょう?

 ここでパウロは、コリント教会の中に死者の復活がないという者たちがいることを踏まえて、もしもそのように主張するのなら、キリストの復活されなかったことになり、それは自分たちの宣教が空しいものとなり、あなたがたの信仰も空しいものとなると論を進めていきます。

 パウロは、キリストの復活が歴史に起こった事実であることを踏まえて語ります。ですから、コリント教会のある者たちが語っているように死者の復活はないのだとしたら、その行き着くところはキリストも復活されなかったことになり、歴史的な事実を否定することになります。それが、「死者の復活がないとしたら、キリストのよみがえらなかったでしょう」ということばが表す意味です。さらにその行き着く先は、福音を宣教してきたパウロたちの働きが空しいということになり、それを信じたコリントの教会の人々の信仰も空しいということになります。

 19節に「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中でいちばん哀れな者です」ということばを心に留めます。私たちのすべてが、キリストの復活の上に成り立っているからです。私は哀れではないのだと、心を新たにしました。


このように信じた

2018年10月25日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 15章1−11節

 きのう書いたことで、いただいたものをもう一つ忘れていました。大きなかぼちゃ! こちらのかぼちゃはオレンジ色と黄土色が多く、大きなものが目立ちます。それでは、かぼちゃの煮物を…といきたいところですがそうはいきません。水分が多いので、ホクホクにはならないのです。そこでスープやケーキにします。さて、この大きなかぼちゃは何になるのでしょう?

 コリント人への手紙第一の15章は、この手紙でもっとも分量が多い箇所です。パウロは1章を費やしてキリストの復活を信じて歩むようにと勧めています。この頃、コリントの教会の中には死者の復活はないと言う人たちがいました。

 人の死、葬儀に立ち会うという経験をするならば、冷たくなった遺体や骨壺に収められた遺骨を見て、これが人間誰もに待ち構えている現実なのかという思いを抱きます。コリント教会の信者の中にも、死という厳しい現実の前に復活の希望を捨ててしまった者がいたのかもしれません。しかしパウロは、キリストの復活を宣べ伝えている教会が同時に死者の復活を否定するのはありえないこと、信仰を台無しにしてしまうことだとして、筋道を立てて復活の事実、希望を説いていきます。

 福音とはキリストのことであり、キリストが聖書(旧約聖書)に書かれているとおりに、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、聖書に書いてあるとおりに三日目によみがえられたことであると、パウロは言います。そして、よみがえられたイエスは、多くの人々に姿を表され、最後には自分のような者にも復活のからだをもって臨んでくださったと書いています。

 自分たちが伝えていることを実は信じていないというのは、矛盾であり欺瞞(ぎまん)です。11節の「私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです」ということばを心に留めました。


混乱の神ではなく

2018年10月24日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 14章20−40節

 昨日、段ボールに入った林檎とトマト、そして栗の実を頂戴しました。農薬を使っていないそれらは、洗わないで食べてもだいじょうぶ(栗の実は別ですが…)ということで、さっそく帰宅していただきました。トマトの美味しいこと! トマトは収穫した時に独特の香りがしますが、そのトマトにも香りが残っていました。楽しみながらいただきます。ごちそうさまでした。

 きょうの箇所のテーマは、秩序ということでしょうか。どのような優れた賜物も、それを秩序正しく用いなければ、人を育てるどころか、つまずきさえ与えてしまうとパウロは言うのです。すでに12章でパウロは教会をキリストの身体にたとえました。からだは、ある部分が他の部分との調和を乱して突出してしまうと、健康ではないということになりかねません。

 コリントの教会では異言を語る賜物を持つ人々がもてはやされていました。人が理解できないことばを話すことができるというのは、周りの人々に注目され、あこがれさえ抱かれたのかもしれません。そのような事情を踏まえたパウロは、賜物を秩序立てて用いるようにと書くのです。

 34節の「女の人は教会では黙っていなさい」というのは、取り方によっては問題発言のように響きます。すでにパウロは、「女はだれでも祈りや預言をするとき…」(11章5節)で、女性が教会でこのような働きをすることを事実をして受け入れているのですから、一般化して女性は教会では話をしてはならないと命じているのではありません。恐らく、預言者や教師が語る時に、それを大声で妨げるような女性がコリントの教会にいて苦慮していたという背景があったのかもしれません。

 慎みや秩序が教会に与えられた賜物を活かすのだということを考えさせられます。


育てることば

2018年10月23日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 14章1−19節

 日曜日までは小春日和というようなすばらしい天候が続きましたが、昨日からはどんよりとした空に…。それとともに、冷たい風で近くの街路樹の葉の多くは落ちてしまいました。いよいよ晩秋から冬へと向かうようです。季節が変わり、折々にに咲く花も変わる中で、薔薇はずいぶんと長く花を咲かせています。

 パウロは、賜物を真に活かすためにどうしても必要な「愛の賛歌」を間に挟んで、御霊の賜物のうち、特に預言することを熱心に求めるように勧めています。きょうの箇所を読みますと、コリント教会では異言の賜物が人々の間で注目されていたことがわかります。パウロはそのような賜物を神が与えておられる(パウロ自身にも)のを認めた上で、異言を語ることよりも預言することを求めるようにと言うのです。

 理由の一つは4節にあります。異言で語る人は自分を成長させるけれども、預言する人は教会を成長させるからだというのです。パウロは異言を語ることについて、笛や竪琴という楽器、戦いの際に鳴らされるラッパ、外国語の例を挙げて、口から出ることばが誰かにわかるものでなければ意味がないのだと言います。

 自己満足のためにだけ使われるのでなく、人を育て教会を成長に導くものとなってこそ、神の賜物のあるべき用い方なのだということに気づかされます。それは異言の賜物だけではなく、すべてについて言えることなのです。


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