コリント人への手紙第一 15章20−34節
ある方から頂戴したメールの書き出しにある、「いよいよ避けて通られない冬の訪れ…」という一言が心に留まりました。先週はじめまでは紅葉が美しく映える秋晴れが続きましたが、ここのところ曇天が続いています。
きょうまでは夏時間ですので、朝7時になっても外はまだ暗やみ。明日からは1時間遅くなりますので、しばらくの間は「改善」(?)しますが、夜の長い季節の到来が間近です。
この部分は二つに分けることができるでしょうか。まずは、キリストが復活したことによって死者の復活の約束がどのように実現していくのかをパウロは明らかにしています。
20節の「しかし」という接続詞には力強さを覚えます。もしもキリストが復活しなかったならば、イエスを救い主だと信じている私たちはどんなにみじめで哀れなのだろうと、パウロは問いかけていますが、「しかし」ということばには、そんな懸念を吹き飛ばしてしまう力があります。キリストは死者の中からよみがえられたのです!
そして、ここから未来についての約束が間違いなく起こるのだとして、パウロは終わりの時までのことを説いているのです。「最後の敵として滅ぼされるのは、死です」ということばにも目が留まります。信仰者は、イエスの復活の事実の上に自分たちもまた、復活させていただくという希望を抱いていますが、それはつまり、死が滅ぼされて無力になる時が来るということです。
病を得たり思わぬ事故に遭ったしりして、人は愛する者の死を嘆き悲しみ自分も死を恐れます。しかし、キリストの復活によって死は全く無力なものとなるのです。
パウロは、キリストの復活がなかったとしたらクリスチャンが行なっていることには意味がなくなると続けています。一つは「死者のためのバプテスマ」であり、もう一つは「信仰の戦い」です。キリストの復活は私たちの日々の生活を励まし、良い意味での緊張を与えていることを覚えます。