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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

パウロの意見

2023年07月14日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 7章25−40節

 久しぶりの涼風の中、歩いていて気持ちよい木曜日でした。

 結婚に関するパウロの話が続きます。おそらく、コリント教会からパウロに「未婚の人たちについて」、つまり未婚の人たちは結婚すべきなのかそうでないのかとの質問があったのでしょう。

 彼はここで、「差し迫っている危機」「時は短くなっています」「世の有り様は過ぎ去る」と言います。だから、結婚している者はそのままで、未婚の者はそのままでと彼は勧めます。しかし、これは主の命令ではなく自分の意見だと断わったうえでの考えです。

 29−31節に目が留まります。ここにあるいくつかのことはこの世において人が大切だと考えている行為であり出来事です。しかしパウロは、「そうでないかのように」勧めているのです。「そうでないかのように」というのは、実際にはそうなのだけれども…という意味です。

 ここを読むと、キリストにある者とこの世との関わりについて考えます。つまり、キリストを信じる者はあまりにも深くこの世界のさまざまな出来事にのめり込まないようにということを思うのです。しかし、それはこの世をいい加減に過ごせということを意味しているのではありません。

 与えられた機会と賜物を十分に用いて、この世で生きていくのがキリスト者。それとともに、過ぎ去ってしまうこの世にしがみつかないように、そのようなメッセージが届けられます。


召されたときの状態に

2023年07月13日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 7章17−24節

 チューリッヒから飛行機で来られた方を迎えましたが、預け入れ手荷物がなかなか流れて出て来なくて、結局お迎えできたのは着陸して2時間後でした。飛行時間は1時間弱でしたが…。

 この箇所では、「召された」ということばが繰り返し用いられています。この場合、「召された」とはイエスを信じて神のものとされたという意味で用いられています。

 コリント教会の一部の人々は、自分たちは神によって「召された」のだから、何かが変わらなければならないという思いを持っていました。召されたのだから割礼の跡をなくさなければ、いや召されたのだから割礼を受けなければならない、召されたのだから奴隷であり続けるべきではないというようにです。

 「奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません」は、もしかしたら抵抗を抱くことばかもしれません、パウロは奴隷であり続けよと考えていると…。

 私たちはキリストを信じて自由をいただいた、神のものであって主人のものではない、それなのに「奴隷の状態を気にしてはいけない」とは何事か! との抵抗、反論です。しかし22節を読むと、パウロはそのようには考えていないことに気づきます。奴隷の立場にいるものは主にあって自由人であることを知るように、自由人は主にあって奴隷であることを知るようにというのです。

 自分が社会的にどのような立場でいるかということでなく、主の前にどのようなものかが大切だと、ここから知らされます。


平和を得させようとして

2023年07月12日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 7章1−16節

 日曜日に続き、火曜日も気温がぐんぐん上がりました。35度を記録したようです。予報では明日から少しの間は最高気温が27度ほどに落ちつくようです。予報どおりであってほしいと、期待しています。

 性的に淫(みだ)らな行いをする者がいる一方で、コリント教会には禁欲的な生き方をする人もいました。性的な乱れを憂えるあまりの考え方なのかもしれません。それに対してパウロは、結婚があるべき姿を保つ必要を書いています。性ついての罪を犯さないようにするための一つとして、結婚した者は、互いのための責任を果たすようにと言うのです。

 2−4節に目が留まります。「同じように」ということばを用いて、パウロは結婚において夫と妻が対等だということを繰り返します。キリスト教の結婚式の際に、新郎と新婦がそれぞれ神とそこに集まる人々の前でする誓約のことばを思いました。

 この部分でパウロは、「譲歩」と「命令」を使い分けています。主のことばを自分のことばを慎重に届けているのです。結婚するかしないについては人それぞれの生き方だと語る一方で、結婚した者は互いに別れてはならないとパウロは命じます。いや、パウロは主の命令を届けているのです。

 この箇所の終わりの部分で、信者と信者ではない人同士の結婚についてパウロは触れています。ここでの鍵のことばは15節の終わりのように思います。「神は、平和を得させようとして、あなたがたを召された」です。結婚によって互いに平和が得られるのか、保たれるのかは大切なことなのですね。


すべてのことが許されている?

2023年07月11日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 6章12−20節

 広い公園には、サクランボやリンゴ、胡桃など、何種類かの食べられる木の実があります。多くは鳥たちのものですが、昨日は一つだけ……と分けてもらいました。

 ここでパウロは、自由とはどのようなことなのかへと話を進めます。

 コリント教会の中には、私たちは罪赦されて救われた、自由の身になった、律法を行うことによってではなく、イエスをキリストだと信じることによって自由なのだから、何をしてもよいと考える者もいました。このような考えは、迷っている人に「勇気」を与えます。「そうなのだ! 私たちは自由だ。だから何をしてもいいのだ……」という勇気ですね。

 もう一つは、私たちはキリストによって霊がきよめられているので、肉体が何をしても、何を食べてもそれは肉体のことであり、きよめられたれ意図は何の関係もないという理屈です。

 霊とからだを分離する考えに対して、パウロはキリストを信じる者のからだは、キリストのからだの一部なのだと反論しています。さらに、キリスト者のからだには聖霊が宿っているという事実にも目を開かせています。

 物事を「霊と肉」、「理想と現実」、「建て前と本音」というように分けて考えるのは、自分が悪を行うことや好き勝手に生きたいからではないか、とここから気づかされます。神は私の表も裏もすべてをご存じだという事実は、都合の良い二元論に陥る誘惑から私たちを守っているのではないでしょうか。

 


知らないのですか

2023年07月10日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 6章1−11節

 猛暑到来の当地、コンクリート造りの礼拝堂は天井も高く、汗もかかずに礼拝ができました。

 6章前半でパウロは、教会メンバーが互いに訴え合っているというコリント教会の現状に切り込みます。前章の後半から「さばく」ということばが多く用いられていることに気づきます。

 教会で何かの原因で仲違いが起こり、自分たちだけでは解決できない場合に、当事者は「聖徒たち」に訴えるべきだとパウロは言います。ところが、コリント教会のある人々は、「正しくない人たち」に訴えていました。4節では「教会の中で軽んじられている人たち」と書いています。なぜ、そのような人に訴えるのかというと、当事者それぞれが、自分有利に物事を進めたいという思いを持っているからではないでしょうか。公平にさばいてほしいとは考えていないのだと思います。

 7節に目が留まります。互いに自分の言い分を訴え合うことが間違いだとパウロは言います。その中の「不正な行いを甘んじて受けないのですか」「だまし取られるままでいないのですか」ということばに、衝撃を受けます。このように言うことによって、主にある兄弟が訴え合うようなことがあってはならない、とパウロは釘を刺しているのです。

 この部分で何度も用いられている「知らないのですか」は、自分たちには知識がある、知恵があると思い上がっているコリント教会への皮肉でもあります。これはまた、「イエスさま、あなたのことをもっともっと知りたい、教えてください」との祈りに通じることばだと思います。


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