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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

自分自身を吟味して

2023年07月21日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 11章17−34節

 当地の子どもたちも夏休み、というよりも学年末の休みです。久しぶりに訪ねたスーパーのレジに、子どもが座っていました。「ちょっと待って」と言われて待っていますと、バーコードをスキャンしてくれました。しかし金額は0。お兄ちゃんがおじいちゃんに助けを求めに行って、一件落着。お手伝いの風景でした。

 11章2節にパウロの「私はあなたがたをほめたいと思います」ということばがありましたが、17節で彼は「私はあなたがたをほめるわけにはいきません」と言います。パウロはここで、コリント教会の集まりに問題あり! と書くのです。具体的には食事風景のひどさです。食事風景といってもここで取り上げられているのは、主の晩餐つまり聖餐式です。

 初めの頃の教会では、聖餐式はキリスト者がともに食事をする愛餐と併せて行われていました。聖餐式と愛餐は一つのこととして行われていたのです。ところが、そこにはひどい光景が広がっていました。それゆえに、主の晩餐が汚されるような事態になっていたのです。

 23節から29節は、教会の聖餐式の折りに読まれることが多いと思います。「ふさわしい仕方でパンを食べ、主の杯を飲む」また、「みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになる」という勧めを、どのような思いで聞いているのだろうかと考えることがあります。

 聖餐が単なる飲み食いにならないために、また愛餐が主にある者たちにとってふさわしい時であるために、自分を省みる時があるのはありがたいことだと思います。

 「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」という10章31節が心に迫ります。


かぶり物

2023年07月20日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 11章1−16節

 日本でも当地でも、夏休みにはいろうとしています。子どもの頃は梅雨明けと夏休みの始まりはセットになっていたように感じていましたが、梅雨時の雨も、梅雨明けの陽射しも今よりは柔らかかったように思います。

 11章は2節からが新しい段落です。ここでパウロは、礼拝での秩序の無さを指摘し、あるべきかたちに導こうとしています。

 具体的には、公の礼拝の場でかぶり物をしない女性たちがいたことが、コリント教会の問題になっていました。当時の社会では、女性が公の場に出る時には頭にかぶり物をしていました。しかし、コリント教会の一部の女性たちが頭にかぶり物をしないのは、礼儀に反する行為だったのです。

 パウロは何に基づいて礼拝での女性のあり方を教えようとしているのでしょうか。3節では「かしら」ということばが並んでいます。「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」「かしら」は、源、起源という意味で用いられています。「女のかしらは男であり……」の意味は、8節から導き出すことができるでしょう。「男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。」ここから言えることは、その関係は優劣や上下ではなくて、対等なのです。

 この箇所は、場所や時、習慣を超えて何を教えているのだろうかと考えるとき、10章23節のことばが心に浮かびます。「『すべてのことが許されている』と言いますが、すべてのことが益となるわけではありません。『すべてのことが許されている』と言いますが、すべてのことが人を育てるとは限りません。」

 「自由だ」「外側よりも心だ」と思うときに、礼拝について自分たちのことばかりを思ってはいないだろうかと問うてみる必要があるのでは……と考えました。


あなた自身の良心でなく……

2023年07月19日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 10章14−33節

 公園や道端で何度もばったり会ったことがきっかけで友だちになった方が帰国することになり、訪ねて来られました。日本に送る荷物は段ボールに4つと聞いてびっくり。「断捨離(だんしゃり)」をしたとのことでした。

 ここを読んで、「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」との8章1節のことばを思いました。

 すでにパウロは8章で、偶像に献げた肉について語っています。コリント教会の「知識ある人々」は、偶像などは元々はない、だから偶像に献げた肉を食べても汚れることはないと考え、それを実行していました。けれども、教会にはそのような「知識ある人々」の行動を見て心を痛める「弱い人々」がいたのです。

 ここでパウロは、一歩踏み込んで「偶像礼拝を避けなさい」と命じています。その理由は、彼らの知識の危うさにあります。パウロは偶像礼拝の背後には悪霊の働きがある、しかし「知識ある人々」はそのことに気づいていないと指摘しています。彼らは「すべてのことが許されている」と言います。だから、偶像に献げる肉を食べても平気だという理屈です。

 「自由」ということばはいつの時代も、誰にとっても大切な人間のあり方です。しかし、その自由が誤用されるとき、ある人の心は痛むのです。神への愛、隣人への愛が、自由とは何かを考えるときの、自由をどのように用いるかの鍵となるのだと、ここから考えます。「神の栄光を現すためにする」とはどのようなことなのかを……。


だいじょうぶだと思っている人はだいじょうぶか?

2023年07月18日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 10章1−13節

 「だいじょうぶ」ということばは元々、危なげがなく安心だとか、強くしてしっかりしている渡河いう意味で用いられるものです。しかし、近ごろは、必要または不要の意味で使われるていますね。

 たとえば、「お水はいかがですか?」と問われて、「だいじょうぶです」は「いりません」「必要ありません」という意味ですね。「この席だいじょうぶですか」というのは、強くて壊れないかと質問しているのでなく、「この席に座ってもいいでしょうか」と許可を求めているのです。「はい、だいじょうぶです」は、「座ってもいいですよ」と承諾しているということです。

 いきなり、ややこしいことを書いてしまったのは、12節を読んで考えたことでした。

 「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」とパウロはコリント教会にことばを届けました。この教会の中には、「自分はだいじょうぶ」だと考えている人たちがいました。しかし、パウロはそのように考えている彼らに倒れる恐れがあるという警告を与えています。自分たちには知識がある、自由がある、豊かだ考えている人たちが陥りやすい穴を、パウロは並べています。それは、悪をむさぼること。具体的には偶像礼拝者になること、淫らなことを行うこと、キリストを試みること、不平を言うことです。

 自分に自信のある人は、もろく弱いのです。それに気づくことができるのが幸いなのです。

 13節は、このことばだけを抜き出して用いることもあるのですが、前後関係でいえば、9節と関わりがあるでしょう。 試みに、誘惑にさらされているとき(それ自体は誰もが体験することなのですが)、自信があると自分の力に立ち向かうことなく、神に信頼せよ、神に頼れとパウロは勧めるのです。それはパウロも、そして主イエスも通った道です。

 だいじょうぶだと思っている人こそだいじょうぶではない、のです。


めあてをめざして

2023年07月17日 | コリント人への手紙第一

コリント人への手紙第一 9章19−27節

 礼拝後にサプライズが! 私の誕生日お祝いをしてくださいました。さらにサプライズは続き、「岬めぐり」を歌ってくださったのです。この歌が好きだったと私が言ったのを覚えておられたとのこと。ビックリしました。ワーシップや讃美歌ではありませんが、青春のほろ苦い思い出が込められた歌詞を噛みしめながら、みんなで歌いました。覚えているものですね。

 「権利を用いない」と言うパウロのことばが続いています。

 ここからは、彼が人を(キリストの側に)獲得するためには、自分の権利や立場を脇に置くという姿勢が明らかにされています。福音を届けるために、パウロは相手の人のようになると言っています。それは今のことばで言えば、「上から目線」によるのではないということです。いや、それ以上のことでしょう。

 23節のことばに目が留まります。「福音のためにあらゆることをしています」とパウロは自分を語ります。パウロにとって福音は語っても語らなくてもどちらでもよいものではありませんでした。15節でパウロは、「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです」と言っています。

 頂戴した誕生日メッセージの中に、「一人でも多くの方に福音が伝わるように これからも共に働いていきたい」とありました。このような思いを持つ方と一緒に歩むことができる幸いを、神に感謝しました。

 26節に、「私は目標がはっきりしないような走り方はしません」とあります。以前の訳は、「決勝点がどこか分からないような走り方はしていません」でした。目標がはっきりしているから、決勝点があるから、自分自身を打ちたたいて服従させる今の姿があるのです。

 思い巡らしていると、「めあてをめざして」という、ずっと以前行った中学生のための夏のキャンプのテーマソングが浮かんできました。


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