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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

仮庵に住む

2015年02月25日 | レビ記

レビ記 23章23−44節

 日本では空き家が増えていて、5年ごとの住宅・土地統計調査によると、2013年の空き家率は全国で13.1%で、戸数はおよそ757万戸とのこと。10軒に一軒以上は空き家ということになりますね。人は生きていていろいろな物を買い求めます。食料のようにすぐに消費してしまうものもありますが、家となると「一生物」。借家暮らしから始まり、家族も増え経済にも見通しが立ったので自分の家を持つというようにという道筋をこれからも進むのでしょうか。

 きょうの箇所には、イスラエルの民が守るべき主の例祭のうちの「仮庵(かりいお)の祭り」のことが記されています。イスラエルの暦で第七月、太陽暦で言えば10月というのは収穫が終る時期です。主は七日間仮庵に住まなければならないと、彼らにお命じになります。この祭りが覚えられるのは、彼らが約束の地カナンに定住した後のこと。土地を分け与えられ、家を建てて生活をする彼らが、年に七日はしゅろ、柳、その他自生の木の枝で編んだ庵の中で過ごすのです。それは、「わたしが…彼らを仮庵に住ませたことを、あなたがたの後の世代が知るため」というのが理由です。

 考えてみれば、私たちにとってこの世とは、仮庵暮らしのようなもの。間近に引っ越しを控えている身としては、「旅人であり寄留者であるあなたがたは…」(ペテロの手紙第一2章11節)ということばがこころに響きます。


聖なる会合の日

2015年02月24日 | レビ記

レビ記 23章1−22節

 月曜日、近くの日帰り天然温泉(このように書いてありました)でゆったり。風呂上がりに初めてマッサージをしてもらいました。ここ数日首が痛いのでやってもらおうと思いたったのです。20分コースというものでしたが、施術してくださる方が「これはひどい!」「体が悲鳴を上げています」などと言うのです。そんなにも凝(こ)っていたのですね。

 23章は、聖なる会合の日についての記述。「安息日」に始まり、「過越の祭り」、「五旬節」そして「仮庵(かりいお)の祭りの、いわゆる三大祝祭のことが記されています。きょうの箇所では、「安息日」「過越の祭り」「五旬節」が取り上げられます。

 「わたしの例祭」ということばに目が留まります。民が話し合って定めたのではなくて、主がお決めになり、召集するのです。ですから、これらの特別な日を「聖なる会合」「主の例祭」「わたしの例祭」として覚えるのです。いや、覚えよと主が命じておられるのです。

 「安息日」は一切の仕事をしてはならない主の安息日、「過越の祭り」は出エジプトの際の罪の贖に感謝し、「五旬節」は初穂の刈り入れと収穫を祝います。そして、新しい約束の下に歩む教会にとっては、週の初めに覚える主の日が安息の日、そして主イエスの復活を覚えるイースター、さらに聖霊がおいでになった日として五旬節を覚えています。

 「わたしの例祭」をすり替えて自分たちによる、自分たちのためのものになっていないだろうかと、問いかけます。


傷のないものを

2015年02月23日 | レビ記

レビ記 22章

 愛用していた2008年製のMacBook Proというノートコンピュータの調子がおかしくなったのはしばらく前のこと。「まあいいか」と放っておきましたが、ふと思い立ち、余っていたハードディスクに交換してみたら…、ジャーンという起動音とともに再び使えるようになりました。「お帰りなさい!」と思わず語りかけてしまいました。これってヘンでしょうか。

 22章は、神に仕える者たちが神の聖さを汚してはならないこと、ささげ物の動物は傷のないものでなければならないという戒めが記されています。教えられるのは、ささげ物に、人間の恣意を優先させてはならない。主がお望みになるようにささげよということです。

 「つまらないものですが…」とか「お口に合わないでしょうが…」などといって贈り物をするときがあります。贈る側のへりくだりをこのようなことばで現しているので、実際につまらないものやまずいものを大切な人に贈るなどということはないでしょう。けれども、気づかないうちに「とりあえずささげておこう」などという思いが入り込みます。

 「みことばの光」には、神は私たちのために、「なんとご自分のひとり子をささげてくださったお方なのである」とあります。神は罪人である私たちのために、「この人たちにはこの程度で良い」「つまらないものだが…」などと考えてはおられなかったのです。最大、最上の御子を、傷のないいけにえとして罪人の贖いのためにささげられました。何ということでしょう。

 「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちるものにはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」ペテロの手紙第一 1章18、19節


えり分けられた者

2015年02月21日 | レビ記

レビ記 20章

 きょうの箇所は、18章の繰り返しのようです。けれども、この章には数々の戒めを破った者に対する厳しい刑罰が科せられるということばが加えられているのです。

 26節の「えり分けた」ということばに目が留まりました。買い物をするとき、瓶やパックに詰めてある同じメーカーのものを、どちらが良いかとずっと悩んだりはしません。けれども、野菜や肉、魚はあれこれとほかを比べ、色や形で鮮度を確かめてから買い物カゴに入れることでしょう。良いものをえり分けるということをしているのです。

 神はイスラエルを国々の民からえり分けてくださいました。なぜ彼らを…。

 「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」申命記7章6−8節

 聖いからえり分けられ、主の選びの民となったのではなくて、主がえり分けてくださったので、彼らは聖い民としての歩みをするという順序は大切なことだと思います。


あなたといっしょに

2015年02月20日 | レビ記

レビ記 19章19−37節

 先ほど、川越市にある高齢者施設から戻って来ました。特養ホームで朝のつどい(礼拝)をする部屋が増築され、明るく落ち着いた雰囲気になりました。隣には「光の部屋」と名づけられている看取り介護のための部屋。ここで、ベッドに横たわり、宣教を聞きつつ天に召されて行った方がおられたと伺いました。

 弱さを持つ人といっしょに生きるのが、主の民の生活。ここには、今からおよそ3500年ほど前に語られたとは思えないほど、現代に通じるおしえがあります。一つは周りの民の悪習と混じり合ってはならないということ。そして、今なら社会的弱者と呼ばれる人々を貶(おとし)めることなく、かえって敬って共に生きるようにと命じられています。

 知恵や力、富に任せて自分のやりたいことを進めていくことを生き甲斐と感じている人も少なくありません。それが正しいと信じる人にとっては、本心では弱い立場の人は無視できるかあるいは邪魔な存在ということになるかもしれません。

 しかし、実はなかなか前に進めずにマゴマゴとしていることの中に、神からのゆたかな恵みが注がれているのではないだろうかと、考えています。効率や能率ということばを重用するために置き忘れていることこそ、ほんとうのところは社会になくてならない大切なものであり、大切なことなのだということに気づきます。


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