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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

そして彼は赦される

2020年01月20日 | レビ記

レビ記 4章22−35節

 使用しているスマホに万歩計アプリを入れてあります。それによると、日本でほとんど歩数を重ねることがありませんでした。一番の理由は自動車での移動がほとんどだったからです。さあ! 歩くぞ…と意気込んでいますが、ちょっとばかり疲れ気味です。

 昨日は礼拝のための場所を借りている教会も含めて、近隣4教会が一つの教会としてスタートする記念の礼拝がありました。大きな礼拝堂が満席。いつも通っている道の奥に、こんなに大きな会堂があったのです。

 「罪のきよめのささげ物」について、神がモーセによって語ってくださったことの続きです。ここでは、族長(指導者)と民衆の一人が罪を犯し、後になってとがめを覚えたときのささげ物についての規定が示されています。前の段落では、祭司と全会衆が罪を犯してとがめを覚えたときのささげ物についての規定が明らかにされていることを考えてみますと、祭司(大祭司)、全会衆、族長、そして民衆の一人というのですから、イスラエルのすべての人への戒め、規定だということがわかります。それは、罪を犯さない人は一人もいないということを伝えています。また、

 それはまた、すべての人が神がお定めになった道を通って神の御許に近づくことができるということも意味しています。

 「そして彼は赦される」とのことばが目に留まりました。罪を犯したけれども回復した彼のことを短い一言で述べています。罪が赦されるのは、人が考え出す方策によってではなくて、神が与えてくださった道だけなのだと改めて思わせることばです。


美味しい部分は神へ

2020年01月18日 | レビ記

レビ記 3章

 金曜日夜(当地時刻)帰宅しました。きょうからは日常が始まります。「働きのために」ということですが、「戻って来た」という気持ちのほうが強いかもしれないと、着陸直前の機中で思いました。荷物のほとんどは日本の食材。荷ほどきをしながら「食べることへの執着を物語っている」とも思いました。節目に当たる日にはいろいろなことを思うものですね。

 レビ記3章には「交わりのいけにえ」について、主がモーセに告げられたことが記されています。以前の翻訳では「和解のいけにえ」、また「和解の献げ物」と訳されていました。聖書協会共同訳は「会食のいけにえ」と訳されます。以前の訳は「和解のための…」と受け取られる可能性もありましたが、新しい訳は「神との交わり」「神といっしょに食事をする」意味を前に出しているように読むことができます。

 牛や羊、小羊、やぎをそのために主にささげるのですが、そのどれもが脂肪と腎臓を焼いてささげるということが共通しています。脂肪は動物の最良の部分だと考えられ、小羊のあぶら尾はたいへん美味なのだそうです。最も良い部分、美味しい部分はわたしにささげよと、神が言っておられるのです。もちろん、神はそれを「もぐもぐと」食べることはないのですが、献げる者の神への思いがどうなのかが試みられるようです。

 また、「みことばの光」が書いているように、腎臓や小葉などは人間の感情の座を表していました。ですから、献げる側が腹の底から神を愛しているという、自分の思いを献げるということなのです。思いのない贈り物なんてあるのか…? と問うてみますと、あるのですね。相手のことを思うのではなくて、この贈り物が自分にどのような利益につながるのかを計算するようなこともありますね。

 「最も良い部分、最も美味しい部分は神へ!」と迫られると、もったいないと思うならば、注意信号が灯っているのです。


覚えの分

2020年01月17日 | レビ記

レビ記 2章

 休みを終え、働きの地に戻ります。

 レビ記2章には「穀物のささげ物」についての規定が示されます。1章の「全焼のささげ物」が神がご自分の民を近くに招いておられるものだとしたら、穀物のささげ物は、神の招きに感謝するご自分の民の神への贈り物のようです。贈り物ですから、いやいやではなく進んで喜んでなされるべきものです。

 ここでは、2、9、16節に出てくる「覚えの分」ということばに目が留まります。このことばは新改訳聖書第三版では「記念の部分」、新共同訳では「しるし」と訳されていました。これは、「穀物のささげ物」のうち祭壇で焼く物のことです。すべてではなくて、一部なのです。残りの部分は祭司の食べ物となりました。それゆえに「覚えの分」と呼ばれているのです。また、ささげ物としなかった収穫物のほとんどは献げる人が自由に使うことができました。

 今ならば、私たちの金銭的な収入と言えるでしょう。自分で仕事をして得られたお金の一部を神への感謝を表すものとして献げます。そしてその残りは自分たちの必要のために使うのです。その場合忘れてならないのは、確かに「覚えの分」として一部を献げているのですが、残りも自分のものでなくて、実はすべてが神のものなのです。このような視点を失うと、「覚えの分」として献げる折に喜びが失せて、義務感が先に立ってしまうことでしょう。

 きょうの「みことばの光」の「考えよう」の中に、「すべては自分のものだと勘違いしていないだろうか」という問いかけがあります。すべては神のものなのです。


全焼のささげ物

2020年01月16日 | レビ記

レビ記 1章

 初めての場所に行くのに、カーナビは便利です。道を間違えてもすぐに代わりのルートを示してくれるのは助かります。ところが、目的地を解除する方法が分からずに、以前に設定した目的地をこの二日間は近づいたり遠くになったり。「いい加減に目的地に到着してください!」と、カーナビに叱られるようになるのかしら…などと考えながら、走っていました。

 きょうからレビ記を読みます。

 「レビ記、それは聖書通読挫折箇所ナンバーワンだろうか」との文章が「みことばの光」にありました。確かに、創世記や出エジプト記の途中までは次々と出来事が展開しますので、興味深く読み進めることができますが、出エジプト記の終わり頃には「幕屋」の制作についての指示が細々(こまごま)とありますし、レビ記ではささげ物についての規定が延々と続きますから、読むのが大変という方もおられることでしょう。

 しかし、「みことばの光」を傍らにして、レビ記を最後まで味わっていきましょう。興味深いのは、レビ記はほとんどが神ご自身のことばだということです。それは一見、「わたしに近づくのは大変なのだ」と言っているように考えやすいのですが、その反対です。「わたしに近づきなさい」と招いておられるのです。そのように考えてみると、少しばかり、レビ記を読んでみたいという気持ちになったでしょうか。

 レビ記はささげ物についての規定からさ始まります。1章は「全焼のささげ物」について。以前の翻訳では「全焼のいけにえ」となっていました。人が神に近づくには、身代わりのささげ物を携えるようにと神が招いておられます。牛、羊/やぎ、そして、山鳩/家鳩という三種類の全焼のささげ物には、富む者も貧しい者も誰もが神に近づくことができるように、という意味があります。

 キリスト者は、全焼のささげ物についての規定を読むことによって、十字架で贖いの代価としてご自分をささげられたイエス・キリストを覚え、感謝することでしょう。このお方がわたしの罪の身代わりになってくださったので、神のもとに近づくことができるのだと…。


ささげる

2015年03月04日 | レビ記

レビ記 27章16−34節

 

 雨音が時々聞こえる夜でした。関東地方、きょうは暖かくなりそうですね。

 1月の途中から読み進めてきたレビ記、きょうが最後の箇所になりました。終わりに、「以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である」とあります。「命令である」ということばを思い巡らしてみますと、レビ記は神の命令に貫かれているのだということを改めて覚えます。

 「あなたが何をしたいかが肝心」「あなたが望むように」などと、個人の意志が尊重され、主体的に自分で判断し、自分で決定して歩むのが当たり前で、良いことだとする世の中。何よりも神の命令にしたがって歩むようにと書き連ねているのを読み続けると、ときには反発したり、できっこないと思ったりします。もちろんレビ記は神とイスラエルとの旧い契約ですから、ここに命じられていたいけにえを今の私たちが言われたとおりにささげることはありません。しかし、そこにある「心」は今に至るまで生きています。

 きょうの箇所には誓願についての規定が示されていますが、新約聖書ではどのような誓いも義務づけてはいません。けれども、人生のいろいろな場面で神の前に約束することはあります。結婚における誓約、洗礼を受ける時の誓約など、人は前に向かって行く希望と喜びの中で、「はい、約束します」と言います。その重さを、誓願についての規定を初め、レビ記の一つ一つの命令は思い起こさせてくれます。

 あすからはペテロの手紙を読み進めます。


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