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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

選り分けた

2020年02月20日 | レビ記

レビ記 20章

 礼拝や祈祷会をする場所は、自宅から北に4キロほどの教会。周辺には木組みの家が残っています。きれいな小川も流れていて、来るたびに「田舎だなぁ」と…(お住まいになっている方々、ごめんなさい)。とても良い所だと来るたびに思うのです。

 本章に記されているのは、18章と重なる部分が少なくありません。しかし、違いもあります。本章には厳しい罰が下されるということばが繰り返されています。

 これまでも書きましたが、レビ記では特に性的な事柄について、神の基準が明示されています。それらの中には、現代では「常識」だとされ、公然と行われていることと、かけ離れていることもあります。けれども、改めて考えてみますと、ここで神が厳しく戒めている一つ一つのことは、イスラエルの民がこれから辿っていく荒野の旅の道筋に、そして神が与えると約束しておられる「乳と蜜の流れる地」で、彼らを待ち構えているものでもありました。

 ここで神が倣(なら)ってはならないと言っておられるのは、神ならぬものを神としてあがめる人々の生き様です。イスラエルの民も、自覚がなければ容易にその生き方に引きずられてしまいます。ですから神は、「わたしは、あなたがたを諸民族の中から選り分けた、あなたがたの神、主である」と言われるのです。

 神によって選り分けられたというのは、「聖くされた」ということばの意味です。選り分けられた者だから、彼らは自分たちが食べる動物や鳥ををきよいものと汚れたものとより分けるのです。そのようにして、食べることにおいてもイスラエルの民は自分たちが神によって選り分けられたものであるとの自覚を持ち続けるのです。

 「選り分けた」ということばは、キリスト者が時代の中でどのように歩むのかについて、何を語っているのだろうかと、思い巡らしています。


ブレーキ

2020年02月19日 | レビ記

レビ記 19章19−37節

 フルーツケーキを作ることになり、いざ! と思ったらクルミがありません。買いに行こうとしましたが面倒くさい…。その時、以前たくさんのクルミ(殻付)をいただいたことを思い出しました。でも、クルミ割り器がありません。その時さらに浮かんだのは、ハンマーでクルミの殻を割ること。厚手の木の台の上で殻を割ってみました。思いのほか、上手に割ることができるではありませんか。割ってみると、どれも立派な実。これを書き終える頃には、美味しく焼き上がっていることでしょうか。

 「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という18節をほぼ中央に置いて後半でも、具体的にどのようなことなのか、どのように考えどのように行動するのかについての、神のことばが続きます。

 ここに示されている神からのおきては、現代に通じると思われるものと、そうでないものとがあるように思われます。老人を敬うことには、私がそうであるからということでなくて、そのとおり! とうなずくことができます。また、寄留者を自分の国で生まれた一人のようにしなければならないという教えも、祖国を離れて寄留者として生活する身にとっては、たいへんありがたいことばです。また、不正なさばきをするなとの戒めもどの時代も守るべきことです。

 一方で、混紡は多くの衣服で普通に見られますし、果樹が実って5年目にならなければ食べることができないというのはもったいないと思うかもしれません。

 これらのことばを自分の物差しで測るならば、「おや」と思うことであっても、立ち止まって考えてみますと、私たちが陥りやすいどん欲、自己中心性などにブレーキをかけていることに気づくのです。

 自己中心性にブレーキがかからなくなった今、といっても大げさではありません。


あなたの隣人を愛せよ

2020年02月18日 | レビ記

レビ記 19章1−18節

 新型コロナウィルスの感染を予防するため、外出は控えて人ごみは避けてと繰り返し報じられると、何となく気持ちが縮んでしまうようですが、こんな時こそ、聖書に聴いて歩みたい、と考えています。

 本章は、レビ記が何を目的に記されたのかを明らかにしています。聖なる神の前に聖なる者として立つために何が必要なのかを、神は本書の前半で語ってこられました。しかし、それで終りではありません。聖なる者としてどのように歩むかについて、神は本書の後半でお語りになります。その中心が19章です。

 律法の中で一番大切な戒めは何かを問われた主イエス・キリストは、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という申命記6章5節を第一の戒め、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という本章18節を第二の戒めだとし、どちらも重要であり、この二つの戒めに聖書全体がかかっているとお答えになりました。⇒マタイ22章34−40節

 今日の箇所には多くの戒めがあります。十戒と重ねて読んだ方もいることでしょう。そのほとんどが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」に集約されます。一つ一つの戒めを読むごとに、人間がどれだけ自己中心かということを探られるとともに、相手を思い遣るということの大切さに気づかされます。

 「生きているのは税金の無駄遣い」として多くの知的障害者のいのちを奪った被告への求刑が行われたと報じられました。お嬢さんを殺されたお母さんの陳述を読みながら、14節の「耳の聞こえない人を軽んじてはならない…」ということばの意味をおぼえます。


わたしはあなたがたの神、主

2020年02月17日 | レビ記

レビ記 18章

 日曜日、寒さを感じない外気温でした。隣家の庭には紫や黄色、そして白い色の小さな花々が「もういいのかな」と遠慮気味に花を咲かせていました。暖冬が終わろうとしています。

 18章には、「わたしはあなたがたの神、主である」、「わたしが主である」ということばが繰り返し登場します。「あなたがたの」というのはイスラエルの民。神は彼らに、「(ほかのものではなくて)わたしが神、主なのだ」と畳みかけるようにおっしゃるのです。

 なぜなのでしょうか。3節に「あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない」とあります。エジプトもカナンも、イスラエルの民を魅了する要素を備えていました。つまり、彼らはうしろを振り返れば魅力的な場所が、これから進む先にも魅力的な場所が控えているのです。

 神はそんな彼らに、ご自分のもとに来るように、ご自分の声に耳を傾けるようにと呼びかけています。それが「わたしが主である」との宣言に込められているのだと考えます。

 ここで禁じられているのは、主に性的な事柄です。そのどれをも神は「忌み嫌うべきこと」としておられます。その中には、現代では「マイノリティへの配慮」という観点から権利として主張しているようなものもあります。けれども、時代がどう見るかではなくて、聖書が、いや神が、これらを忌み嫌うべきこととしていることを、聴く必要があります。流されていつの間にか、神の御思いから遠くにいることにならないように…。


新しい生ける道

2020年02月15日 | レビ記

レビ記 16章

 年に一度の自動車の定期点検。特に問題の箇所もなく、オイルの交換、オイルフィルタ、エアフィルタの交換、その他チェックをしてもらいました。新しく生まれ変わったとまではいきませんが、快調になったように思えました。

 本章では、年に一度の「宥(なだ)めの日」に、大祭司が何を行うのかについての神の命令が記されています。この日は、以前の翻訳では「贖罪の日」となっており、春に始まるユダヤ暦では第七の月、秋に始まるユダヤ暦では第一の月の十日に行われました。ちなみに、私たちが用いている暦では9―10月です。

 この日アロンは、自分と自分の家族のために、そしてイスラエルのすべての民の罪の贖いのために、罪のきよめの献げ物をささげるのですが、神は大祭司アロンにこの儀式について細かな指示を与えておられれます。この日アロンは、年に一度だけ神が臨在なさる至聖所に入るのです。

 神の臨在の前に人が居るというのはいのちがけなのだということを、ここにある一つ一つの事柄を読みながら、とくに「死ぬことのないようにするために」という神ご自身のことばによって思うのです。

 「ヘブル人への手紙」は、大祭司による罪のきよめの務めに言及します。大祭司による宥めには限界があったことを明らかにし、イエス・キリストがご自分の血によってまことの聖所に入られたこと、それによって人のすべてのの罪を儀式的にではなく完全にきよめられたと宣言しています。

 「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」ヘブル人への手紙10章20節


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