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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

汚れから離れさせよ

2020年02月14日 | レビ記

レビ記 15章

 「みことばの光」は5月号を制作中。スイス在住のM氏が快く提供してくださった花々、風景の中から、その月にふさわしいものを選ぶことにしているのですが、概ね花の名前が分からないので、その都度M氏に尋ねることにしています。花も人も、名前を覚えると親しみが湧いてきますね。

 15章には、男も女も身体から漏れるものによって聖なる神の前に立つことができない、つまり汚れることについての規定が記されています。31節の「汚れから離れさせよ」ということばを心に留めました。

 この章も含めて、「神を礼拝する者の資格」としてレビ記後半に規定されている一つ一つのことは、聖なる神がお選びになったイスラエルの民が他の民と分けられるということです。

 聖と訳されていることばは、「分離」とつながりが深いといわれています。イスラエルが「聖なる者」だというのは、神が彼らを他から分離するということです。彼らが目指す約束の地カナンにはすでに生活している多くの民がいます。そしてその民は神ならぬ神を拝み慕う者たちです。イスラエルは彼らの中に生きるのです。その中でイスラエルは、魅力的に映る先住の人々の姿をではなくて、神のみおしえ、みことばによって生きるのです。


衣食住

2020年02月13日 | レビ記

レビ記 14章33−57節

 ともに礼拝しているのは小さな群れですが、昨年から今年にかけていろいろなことが起こります。大波にもてあそばれる小舟のような…、と思うこともあります。けれども、大波さえも御手の内に治めておられる方が所有しておられる群れなのですから、安心して身をゆだねることができます。でも時々、いやしばしば、「私たちが死んでも、かまわないのですか」と嵐の湖でイエスさまを起こして叫ぶ弟子たちのようになこともあります。

 ここは、家にツァラアトができた場合の規定が記されています。ツァラアトは人だけでなく、衣服にも家にも生じます。34節では、ここでの規定はイスラエルの民が約束の地であるカナンに定住するようになり、家々に住むようになったときのことだと分かります。

 聖なる神は、ご自分の民が身にまとう衣服にも住まいとする家にも、きよさと汚れとの規定を設けられました。それは、神の民の生活のすべてにおいて、神のみこころがなされていくべきことを象徴しているのだと考えました。すでに11章では、「食べてよい生き物と食べてならない生き物」についての規定が示されました。

 私たちが生活していく基礎について、「衣食住」ということばで表わされます。どれもが生活に必要なものです。レビ記に登場する順番で言うならば、食べること、衣服をまとうこと、住むことにおいても、「聖でなければならない」と神からの召しを受けたイスラエルの民は、それにふさわしい生き方を求められていました。

 信仰が観念に陥らないように促しているかのようです。


手に入れることのできた

2020年02月12日 | レビ記

レビ記 14章21−32節

 レビ記を読み続けるのはたいへんだ、と言う方も少なくありません。この辺りが半分ほど読み進めたところでしょうか。聖霊に教えていただき、読み進めていきたいと思います。

 この箇所には、ツァラアトがきよめられる人が貧しい場合に何を献げるのか、どのようにするのかについて、神が規定されたことが記されています。

 21節を10節と比較しますと、貧しい人は傷のない雄の子羊二匹と傷のない雌の子羊一匹でなく、雄の子羊一匹を献げます。また、油を混ぜた小麦粉十分の三エパでなく油を混ぜた小麦粉十分の一エパを献げるという違いがあります。貧しい人についての規定があるということは、ツァラアトに冒された人々の中には、長期にわたる隔離によって貧しくなってしまった人が少なくなかったとではないかと考える人もいます。

 「手に入れることのできる」「手に入れることのできた」ということばを心に留めました。神は人をご存じであること、すべての人をきよめたいと望んでおられることをこのことばから思い巡らしました。そして、ここ数日繰り返し書いていますが、ツァラアトをきよめることができるのは、その人自身ではなく、祭司ではなく、ただお一人「きよくなれ」とことばをかけてくださるお方なのだということを、改めて思うのです。


飛び立つ小鳥

2020年02月11日 | レビ記

レビ記 14章1−20節

 日曜日深夜から襲った爆弾低気圧Sabine。強い風が雨戸に吹きつける音で、何度も目覚めてしまいました。昨日はちょっと寝不足気味。新型コロナウィルスの影響がさまざまな分野に広がっていると報じられています。拡大防止の最前線にいる人々を神が守り支え、支援者が与えられるようにとお祈りしています。

 14章前半には、ツァラアトがきよめられた際の儀式について、神の指示が記されています。

 きよめの最初の儀式には、二羽の小鳥が用いられます。一羽は新鮮な水を入れた土の器の上で殺されます。もう一羽とヒソプ、杉の枝、緋色の撚り糸は殺された小鳥の血の中に浸され、きよめられる人に浸された血が七度振りかけられるのです。そして小鳥は放たれます。

 聖書を読んでいると、記されている情景が頭に浮かぶことがありますが、この箇所はカラーの映像で迫ってきます。青空の中に、血を散らしながら飛び立っていく小鳥の姿は、ツァラアトからの解放を象徴しているかのようです。さらに八日待って、その人は規定のものを献げてのち、きよい者として神の前に、そして人々の間にいることが許されます。

 心に留めたのは、20節の「彼はきよくなる」ということば。このことばは、前日に引用したイエス・キリストの「わたしの心だ。きよくなれ」とのことばと響き合っています。

 解き放たれた者として、神を礼拝できる幸いに感謝です。


きよくなれ

2020年02月10日 | レビ記

レビ記 13章29ー59節

 これをお読みの方の中には、Sabineという爆弾低気圧が西ヨーロッパを通過したために、強い風や雨を経験する方もおられましょう。私がこれを書き始めたちょうどその時から、風で木や建物が音を出し始めています。お大事になさってください。

 13章後半もツァラアトについての規定が続きます。29−37節は頭やひげに疾患がある場合、38−39節は皮膚に白い斑点がある場合、40−44節ははげの場合、45―46節ではツァラアトに冒された人を隔離すること、そして47節以降には衣服がツァラアトに冒された場合のことが規定されています。

 「あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖であるから」とのことばは11章45節を初めこの書の何箇所かに出てきます。これはレビ紀の主題とも言えるものです。体が、衣服が、家の壁が通常とは違う症状や状態を呈しているのを、ツァラアトと総称しているのですが、「その場合に…せよ」というのは、神の前に聖なる者とはどのようなことを言うのかを、人ではなく神が規定しておられるのです。

 言い方を変えれば、神は民を礼拝に招いておられる、そのために何をどう備えればよいのかを示しておられるのです。イエス・キリストの公生涯の中、ツァラアトに冒された人をお癒やしになる出来事を三つの福音書が記しています。マルコの福音書1章40−41節には、イエスがこの人を深くあわれみ(直訳するとはらわたがちぎれるほどの痛みを覚え)、この人に触れて、「わたしの心だ。きよくなれ」と言って、この人を癒やされたと書かれています。

 「きよくなれ」が神のみこころであり、主イエスはきよくしてくださるお方なのだということを、ありがたいと思います。


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