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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

絶えず…

2020年02月26日 | レビ記

レビ記 24章

 昨日午後には、近くの教会のドイツ語クラス(といっても昨日の生徒は私たちも含めて3名)に参加しました。久しぶりに参加した中国からの方としばし、新型コロナウィルスの話をしました。昨日のクラスでは、二つの名詞の後ろと前とに同じことばが入るのだが、何ということばか…という課題でした。日本語で例えると、「簡易包装」と「包装紙」というようなものです。つまり「簡易」と「紙」をつなぐことばを考えてみようということでした。それにしても、私たちのようなものを忍耐して教えてくださるのには、感謝でいっぱいです。

 24章前半には、幕屋における祭司の日常の務めのこと、神を冒瀆した者への厳しいさばきの事件のことが記されています。

 前半の日常の務めについては、繰り返されている「絶えず」ということばが目に留まりました。会見の天幕の聖所にある燭台のともしびを絶やしてはならないということ、同じく聖所にあるパンの台には、12個の輪形のパンを絶やしてはならないということを、主ご自身が語っておられます。

 毎日行われる仕事や作業のことを、最近では「ルーティーン」と言っています。スポーツ選手の場合は、このルーティーンを怠けず、だらけずに行うことが実力につながると言われます。キリスト者の生活にも「絶えず」行うことがあります。ここで「ともしびを絶やさない」というのは、光なるイエスのもとに毎日行くようにということを象徴しています。パンを絶やさないということは、毎日神に感謝するということととらえてもよいと思います。

 誰にも見られない、神との個人的な時と場を絶やさないことが、生活を支えるのですね。


新しい穀物のささげ物

2020年02月25日 | レビ記

レビ記 23章15―44節

 先週の水曜日に当地から東に50キロほどの町で9名のいのちが奪われるという銃撃事件が起こりましたが、昨日は州の北部でカーニバルのパレードに自動車が突入して十数人が負傷するという事件が起こりました。新型コロナウィルスの脅威が欧州にも…と報じられています。このような時に、不安や恐れの中にいる方々が神のことばによって支えられるようにと願い、祈ります。

 23章後半には、イスラエルの民が守るべき例祭のうちの、太陽暦では5―6月にもつ「七週の祭り」と、9―10月にもつ「ラッパの日」、「宥めの日(贖罪の日)」、「仮庵の祭り」についての定めが神によって示されています。

 「七週の祭り」は「過越の祭り」の安息日の翌日から七週を数えた日にもたれます。「過越の祭り」の安息日から50日目なので、ギリシア語で50を表す「ペンテコステ」と呼ばれます。新約聖書では、この日に聖霊がイエスの弟子たちの上に臨まれた日としておぼえられます。

 「七週の祭り」は、小麦の収穫の頃です。16節の「新しい穀物のささげものを主に献げる」ということばに目が留まります。秋に蒔いた種は、「初めの雨」によって芽を出します。収穫を前にしての春に降る「後(のち)の雨」によって豊かな実りがもたらされます。昔も今も作物は天候次第。イスラエルの民は、折に適って雨を降らせる神への感謝とともに、ささげ物を携えてきたことでしょう。

 すでに19章9節で命じられたことが22節にも記されます。収穫物は耕作者のものではなく神のものなのだからという姿勢を持つべきことがここからわかります。ルツ記の情景を、そしてミレーの「落ち穂拾い」を思い浮かべます。


聖なる会合の日

2020年02月24日 | レビ記

レビ記 23章1−14節

 日曜日、午前は50キロほど北にあるドイツ語教会の礼拝での宣教、午後はいつもの日本語教会の礼拝で宣教しました。ドイツ語教会では、赤ちゃん連れの若いご家族からお年寄りまで、さまざまな世代の方々が一緒に礼拝していました。

 23章には、主の例祭について神が教えられたことが記されています。最初は安息日。神が六日間で創造のわざをなさり、七日目に休まれたことに基づいています。神は七日目はいかなる仕事もしてはならないと命じておられます。なぜなら、その日は聖なる会合の日だからです。ですから、ここからわかるのは安息日は仕事を休んで好きなことをするためにではなくて、他とは区別して、聖なる会合の日として神のために用いる一日だというのです。

 他の日と区別して安息日を設けるというのは、神の民であることのしるしのようなもの。この日を他の日から分けて仕事を休み、聖なる会合、すなわち神を礼拝するのです。忙しくなったから礼拝できなくなるなどというのはありません。

 日曜日には礼拝の後で教会の総会が持たれました。その中で一人の方が、「今年はこれまで以上に忙しくなると思う。けれども、忙しいからといって神さまへの奉仕を減らすのは順番が違うのではないかと思う」と言っておられました。この一言を通して、神様に教えていただいたと感謝しました。


一線を画す

2020年02月22日 | レビ記

レビ記 22章1−16節

 夕方、近くを歩いて来ました。室内は一定の温度なのでわからないのですが、外はとても寒かったです。一時、春の到来を告げるような陽気が訪れたのですが、逆戻りです。でも、冬はこうでなければ…と納得しながら、冷たい空気の中を歩きました。

 22章前半は、祭司が食べる「聖なるもの」についての神からの規定が記されています。イスラエルの民は聖なる神によって聖でなければならないと繰り返し言われていますが、神の聖所で仕える祭司は、その務めのために聖別された者。神が与えるものを食べるということでも、民と区別されていました。6章には、祭司は、民のささげ物のうちの穀物のささげ物、罪のきよめのささげ物、そして代償のささげ物で神にささげなければならないものを除いた部分を食べることが許されていました。

 それらは「聖なるもの」と呼ばれています。それゆえに、身に汚れを帯びた祭司が食べることはできず、一般の人々も食べることは許されませんでした。祭司の関係者であったとしても、食べてよい者とならない者とが区別されていました。

 神の聖務に携わる者は、食べることにおいても他とは違うというのは、キリスト者にとってはどのような意味があるのだろうかと考えてみます。旧約聖書に示されている食物規定は、イエス・キリストによって取り除かれて、何を食べても汚れることはありません。何を…?ではなくて、どのように…?ということを問われているように思うのです。

 「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」というコリント人への手紙第一10章31節を思い浮かべました。


聖別する主

2020年02月21日 | レビ記

レビ記 21章

 木曜日午後、治療のために歯医者さんへ。いつもと違う先生が、「こんにちは!」と日本語で挨拶されたのでこちらがびっくり。いろいろと質問をするために、予め単語やことばを用意して受診したのですが、ちゃんと英語で説明してくださったので、これからの治療方針もよく分かって安心しました。日本語は、終わった時に、「さよなら」と二つだけでしたが…。

 異文化で生活をすると、時々差別されているのではないだろうかと思うような態度に接することがあります。前後の方とは挨拶するのに、自分の番がきた時には全く何も言わないなどというスーパーのレジの経験もあります。聖書には「寄留者」ということばがありますが、自国を離れてみると、そんな折に自分は寄留者なのだと納得させられるようなことがあります。水曜日深夜に近くの町で起こった銃撃事件の報道を見聞きしても、同じようなことを思います。

 イスラエルの民はやがて、神が約束されたカナンに定住することになるのですが、レビ記は、そのような彼らがその地に先に住む人々に染まってしまうことがないように、聖なる神の民として聖なる者であれという神のことばが続きます。21―22章は、神と民との間に立って務めを行う祭司はきよめられなければならないとの命令が記されています。

 死によって身を汚すことがあってはならない、結婚の相手によって身を汚すことがあってはならない、障害のある人は祭司の務めを行うことができない…、現代の私たちからは疑問の声が出るような一つ一つかもしれません。けれども、これらは今私たちが考える「差別」という考えに基づいているのではありません。

 「平等」が大切だと言われているのが現代。けれども、極端に走りやすいのも事実です。神は一人ひとりに異なったものを与えておられ、私たちの目から見たら不平等だと思われるようなことであるかもしれないと、考えるのです。 信仰とはそれを受け止め、受け入れることではないかと…。


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