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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

何を誇るか

2020年02月05日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 3章1−11節

 昨日から掲載している写真は、近くの公園に咲き始めた花々です。昨日までの数日は暖かく、そのためか花がちょっと顔をのぞかせたかのようです。写真を撮りながら、去年もここで春を発見した…と思い出しました。

 ピリピ人への手紙3章前半の主題は、「誇り」ということばがふさわしいと思いました。パウロがまず注意を促しているのは、悪い働き人に対してです。この者たちは肉体だけの割礼の者とも言われ、「犬ども」と厳しいことばでも呼ばれています。彼らは、ピリピの教会の人々に、イエスを信じるだけでは救われない、律法を守らなければならないと説いて回ったのです。

 パウロは、自分もかつてはその一人だったけれども、今はもう、そんなものは何の価値もないということが分かったと証ししています。彼にとっての大きな人生の転換であり、価値観の転換です。なぜ彼はこれまで大切にしてきたものを「ちりあくた」だと考えるようになったのでしょう。それは、キリストを知ったからです。

 彼は、自分の育ちや行いではなくて、キリストお一人を誇る者となったのです。

 10節の「キリストの苦難にもあずかって」ということばが心に留まります。この手紙は獄中から書かれています。しかし、そのような体験は、キリストを知るようになった、キリストとの結びつきを賜った彼にとっては、むしろたいへん有り難いことなのだとさえ言うのです。信仰を自分の願望の実現のためだと考えるようなこととは全く異なっています。

 キリストお一人が彼の誇りだからです。


こういうわけですから

2020年02月04日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 2章12−30節

 ウォーキングの行き先をお店と定めて出発しました。ところが半分ほど歩いた所で財布を忘れたことに気づきました。途中でUターンして、今度はもう少し近くのお店での買物に出かけました。そのこともあって、一万歩という目標は達成できました。

 パウロがピリピ人への手紙を書き送ったのは、ピリピの教会の中に人間関係の問題があったことが理由の一つです。昨日読んだ2章1−4節の勧めからも教会の課題が浮かび上がっています。そこでパウロが指し示したのは、教会の主であるイエス・キリストのお姿でした。特に、神であられるキリストが人間になったこと、しかも十字架の死に至るまでしもべとして神に従われたと伝えたのです。裏返すとピリピの教会には、キリストのお姿とは反対の生き方をする人々がいて、それが教会を混乱に陥れ、教会の在り方を大きく歪めることになっていたことが分かるのです。

 12節の「こういうわけですから」というつなぎのことばは、キリストがこのようにへりくだられたのだから、神に従順であられたのだからという意味で用いられています。そして、パウロがピリピの教会に願うのは、いや命じるのは、キリストの従順に倣って、あなたがたも従順でありなさいということです。

 「自分の救いを達成するよう努めなさい」とはどのような意味で用いられているのでしょう。パウロは、イエス・キリストを信じて救われた者たちの、つまりそのようにして生まれた教会の成長を促しているのです。前後の関係で考えれば、この13節の勧めは、個人にではなくピリピの教会に宛てられています。「神が…事を行わせてくださる」のだから、「神に従いなさい」と勧めています。

 それによって教会は、この曲がった邪悪な世にあって世の光として輝くのです。パウロは、ピリピの教会がそのようになるのであれば、自分が命を落とすことになったとしても喜ぶとさえ言っています。

 キリストのお姿を日々見させていただくなら、「こういうわけですから」というつなぎのことばの先に、どのような歩みがあるだろうかと考えるのです。


神の熱心を知る

2020年02月03日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 2章1−11節

 ドイツを旅行中の方が滞在先のニュルンベルグから列車で来て礼拝に参加し、終わると列車で戻って行かれました。片道200キロ以上の距離。この時期の教会にさわやかな風を運んでくれたようでした。よいご旅行を!

 パウロがピリピの教会に手紙を書いたのは、教会の人間関係、教会内でよく用いることばを用いるならば交わりに問題があったためでした。すでにパウロは1章の終りの部分で、「あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦って…」と書いていることからも、この教会には一つになれないという致命的な課題が横たわっていたことが想像できます。

 さらにパウロは、同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして…と勧めます。その前の2章1節には、そのための土台のようなもの四つを置いています。それは、「キリストにあって励ましがあり」「愛の慰めがあり」、「御霊の交わりがあり」、そして「愛情とあわれみがあるなら」ということです。それは、「みんな違いを抑えて、仲良くしようよ」という表面的なことではありません。

 教会が何によって成り立っているのかということを考えるようにということです。この四つのことからは三位一体の神が教会を守ろう、保とうとしていることが伝わってきます。教会が一つの思いを持つということは、キリストが父なる神と一つであることから来ます。教会を構成する一人ひとりはみな違います。そうであるのに同じ心、思いを持つようにというのは、人間の知恵や力を超えています。

 神の愛に基づく励まし、豊かな交わりがあってこそ、違った者たちのうちに同じ心や思いを形作られていくことを教えられます。


キリストの日に備えて

2020年02月01日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 1章1−11節

 2月を迎えました。課題山積みで新しい月を私たちの世界は迎えたのだという思いです。中国で発生した新型コロナウイルスの勢いはなお衰えることがありません。発生地と目されるところでは、十分な治療を受けられないままでいるとも報じられています。神を恐れる者たちは、とりなし続けていきたいと願います。

 きょうから「ピリピ人への手紙」を読みます。ピリピの教会は、パウロの二度目の伝道の旅の折に誕生しました。使徒の働き16章にはその時の様子が記されています。リディアとその家族が最初のクリスチャンとなったということ、投獄されたパウロたちによって看守とその家族が救われたのはこの町においてでした。この手紙でパウロが自分のことに触れているのは、彼とピリピの教会の人々との間の深い結びつきを感じさせます。

 手紙の初めには、あいさつと感謝、そしてパウロがピリピの教会に願っていることがあります。ここからも、彼とピリピの教会の親しさを垣間見ることができます。心に留めたのは、ここでパウロが時、日について言及していることです。5節に「最初の日から今日まで」、6節に「キリスト・イエスの日」、そして10節には「キリストの日」とあります。

 彼の視線は、「キリストの日」にありました。ピリピの人々がキリストの日、つまりキリストが再びおいでになる日に信仰に立っていることができるようにと願い、神にとりなしているのです。目先のことに捕らわれやすい中で、信仰者の視線は常に「キリストの日」にあるのだと教えられます。そうであれば、きょうをどのように歩むだろうか…と。


主は近いのです

2015年02月07日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 4章1−9節

 電車に乗ろうと駅まで来たら、各駅停車が目的駅まで早く着くとのアナウンス。いつもは「急行」を利用するので、ずいぶん時間がかかるのでは…と思いましたが、そんなに変わらないのですね。「速ければそちらを」というのは私が普段持っている価値観ですが、時にそればかりではないと思わせるようなことが起こります。ゆっくり進むこと、遠回りをすることが大切だということを学ぶときもあります。

 ピリピの教会には、内にも外にもいろいろな課題が横たわっていました。この章の初めに取り上げられている二人の女性は個人的な問題ではなくて、教会についての考えの違いで仲たがいをしていたようです。パウロは二人に「主にあって一致」するよう勧め、そのために「真の協力者」(相棒)に彼女たちを助けてほしいと願います。

 また、外には激しい迫害という問題もありました。そのような中で、パウロは乗り越えるいくつかのポイントを示します。いつも主にあって喜ぶこと、寛容なこころをすべての人に知らせること、何も思い煩わずに祈ることなのです。そして、「主は近いのです」と言います。これは、主がすぐ近くにおられるという意味とも、もうすぐおいでになるとも取れます。どちらであっても大切なこと。

 きょうという一日の中で「主が近い」という事実は、目の前の問題とどのように向かうかを大切な鍵になるように思えます。


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