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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

生きるにしても死ぬにしても

2024年10月12日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 1章12−30節

 久しぶりにある散歩道を歩いたら、そこはすっかり秋が深まる景色でした。カボチャを購入。さて「Hokkaido」というブランドのこのカボチャ。ホクホクでしょうか?

 ピリピ人への手紙は、パウロがローマで投獄されている間に書き送ったものであるので、「獄中書簡」と呼ばれています。投獄というと、パウロが最初にピリピを訪ねて福音を伝えた時のことを、ピリピの人々は振り返ったのではないかと想像します。

 その様子は使徒の働き16章16節以降に書かれているのですが、パウロと同行者シラスはピリピで投獄されます。しかし、投獄されて彼らの働きはしぼんでしまうことはありませんでした。かえって、彼らが投獄されたことによって牢獄の看守とその家族が福音を信じたのです。

 そして、ローマにおいてもパウロの投獄は福音の前進を妨げず、かえって人々は大胆に福音を宣べ伝えるようになったと書いています。

 福音のために働く者が、福音のゆえに辛い目にあったとしたら、それは福音の前進のために意味があるということを、パウロはここで書いています。20節に目を留めましょう。「わたしの願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられること」だとパウロは証しします。

 「生きるにしても、死ぬにしても…」とあります。パウロのことばは、生きることは良いことで死ぬことは悪いことだという考えを排除しています。キリストを信じ、キリストの福音を証しする者たちにとって大切なのは、生きるか死ぬかではなくて、どちらであっても福音が証しされ、キリストがあがめられる……。

 キリストを信じるというのが、こんなにも素敵な生と死とをいただいているということなのです。それはパウロだけが独り占めするものではないのですね。


ともに携わる

2024年10月11日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 1章1−11節

 イースト菌などが予めはいっている粉でパンを焼きました。パン焼き器にお任せでしたが、でき上がりはびっくりするほどきめ細やかでした。こんなに美味しく簡単にできるのなら、もっと早くから使いたかったと思ったことです。

 今日から数日、「みことばの光」ではピリピ人への手紙を読みます。ピリピの町に福音がパウロたちによって届けられたのは、パウロの二度目の伝道の旅の折でした。「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」というマケドニア人の叫びを聞いたパウロは、トロアスからエーゲ海を渡り、そしてピリピで福音を宣べ伝えたのです。

 5節で「あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたこと」に感謝しているとパウロは書いています。ピリピで最初に福音に心を開いたのは、リディアという女性でした。彼女は自分が福音を聞いただけでなくて、家族に早速福音を伝えました。そして、パウロたちを自分の家に無理やりに泊めたと、使徒の働き16章14−15節に記されています。

 リディアは、まさに最初の日からパウロの福音宣教をともに担ったのです。

 7節には「私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しようとしているときも、私とともに恵みにあずかった人々」だと書かれています。これは、パウロと同行者シラスが投獄された出来事を思い起こさせます。使徒の働き16章19−40節には、彼らが投獄された一部始終が書かれています。そしてこのとき、看守とその家族が主のことばを聞いて、全員バプテスマを受けたのです。「ともに恵みにあずかった」とはそのことを指しているのではないでしょうか。

 リディアにしても、看守にしても、福音を聞いて自分が受けた神の祝福を家族にも届けることに努めました。ここに、ピリピ教会の特徴があるように考えたのです。

 自分のみに神の恵みをとどめることなく……。


霊的口座

2020年02月08日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 4章10−23節

 市内の博物館、美術館などの年間パスを持っているので、昨日用事の帰りに利用しました。二箇所訪問したのですが、もちろんどちらも無料。初めの所は、私たちにはちょっとよく分からない展示だったのですが、二箇所目は興味深かったです。けれども、とても一回では無理。ついでの折に、何回かに分けて訪ねることにしました。

 ピリピ人への手紙の終りの部分。ここには、パウロを支援してきたピリピの教会への感謝と願い、そしてあいさつが述べられています。

 ここから分かるのは、最初の頃ピリピの教会はパウロの働きを支えようと、たくさんの贈り物を届けてくれていました。パウロはそのことを感謝しています。けれども10節を読むと、ここしばらくはそのようなことが途絶えていたことが伝わってきます。そして、今もう一度自分を支えようとの思いがピリピの人々の間によみがえってきたことを喜び、感謝しています。

 しかし、パウロは経済的な支援を受けることだけを求めているのではありません。彼は与えられるもので満ち足りる生活をすること学んでいると書いています。それは、裏を返すと経済的にはたいへんだけれども、大切なのは経済的な必要がふんだんに与えられることではなく、どのような境遇に対処する秘訣を心得ていることだと言っています。

 心に殘るのは17節の「霊的口座に加えられていく実」ということば。以前の翻訳では、「あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福」とありました。霊的口座があるのだ…、神の働きをする者のために支援するというのは、霊的口座に実が加えられていくことなのだというのです。パウロはここで、自分の働きのためのささげものについて遠慮していません。むしろ、積極的にささげるように勧めます。それは、その富は自分のためのものではなくて、教会のかしらなるお方にささげられるものだからです。 

 人間的な遠慮が神のダイナミックな働きを妨げることになるではないかと、思うのです。

 


主にあって

2020年02月07日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 4章1−9節

 聖書を読むために来た方が、手作りのタルトを持ってこられました。読み終えた後、コーヒーといっしょにいただきました。その美味しいこと! さくさくとしっとり、バランスの良い甘さを楽しめます。アーモンド・プードルの風味も…。「食レポ」のようになってしまいましたが…。

 4章2節から3節に、二人の女性の名前が出てきます。二人の間には「同じ思いになれない」人間関係の課題があったようです。パウロがこの手紙を書いた理由の一つには、二人の間に和解が訪れるように…という強い願いがあったのかもしれません。いや、パウロは二人の問題はピリピ教会全体の課題を象徴しているとして、この問題の解決を図っているのです。

 パウロはここで、二人がなぜ一致できなかったかとか、どちらが悪いとかいうことには触れていません。ただ、「主にあって同じ思いになってください」と勧めています。「同じ思い」ということばは、すでに2章2節や5節にも出てきました。考えてみますと、人はそれぞれ姿形も心に思うことも違います。そのような者がいっしょに歩む、生きるのは簡単なことではありません。自分の思いを通そうとするとたちまち違いが、仲たがいが生じます。

 教会の人たちはみんな思いを一つにしているように思われるし、自分たちもそのはずだと考えているようですので、「理想」と「現実」の差に驚くようなことも多いのではないでしょうか。

 「主にあって同じ思い」ということばを心に留めました。この手紙でパウロは、危機の中にあった教会にキリストを知るように、キリストを見上げるようにと勧めてきました。ここでも「主にあって」、「キリスト・イエスにあって」を繰り返します。そのように見ると、4節の喜べとの勧めは、人と人との不一致の解決と無関係ではないように思えてきます。

 互いに相手を見て責め合うのではなくて、視線を上に…と促されているようです。


待っているものを見据えて

2020年02月06日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 3章12−21節

 当地では林檎を安く買い求めることができます。10個以上入った林檎が日本円で200円弱で売られていたので買い求めました。帰宅して食べてみると、大当たり! 立派な形はしていませんが、甘みと酸味が程よく調和し、食感も好みでした。

 3章後半でパウロは、自分の証しを交えて、ピリピの人々に先に待ち構えているものをしっかり見据えて歩むようにと勧めています。ピリピの人々にとって、パウロは自分たち教会の生みの親のような存在であり、信仰者の模範のような存在でした。ここでも「私に倣う者になってください」とパウロはピリピの教会に勧めています。

 それでは、彼らはパウロの何を倣うのでしょう。神が上に召してくださるという賞をいただくために、目標を目指して走っている姿です。彼は現状に安住し、過去を回顧して満足してはいませんでした。11節には、「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と書いています。

 この勧めは、ピリピの教会が割礼を強いる偽りの教師たちによって後戻りする危険に瀕していたという事情を考慮したものです。後戻りしてはならない、うしろのものを忘れて、前のものに向かって身を伸ばしと書いています。

 きょうは「前のものに向かって身を伸ばし」ということばが心に留まりました。以前の翻訳では「ひたむきに前のものに向かって進み」とありました。今回の訳は動きが鮮明に伝わってきます。身を伸ばして何を求めようとしているのだろうかと、自分に問うのです。


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