ピリピ人への手紙 1章12−30節
久しぶりにある散歩道を歩いたら、そこはすっかり秋が深まる景色でした。カボチャを購入。さて「Hokkaido」というブランドのこのカボチャ。ホクホクでしょうか?
ピリピ人への手紙は、パウロがローマで投獄されている間に書き送ったものであるので、「獄中書簡」と呼ばれています。投獄というと、パウロが最初にピリピを訪ねて福音を伝えた時のことを、ピリピの人々は振り返ったのではないかと想像します。
その様子は使徒の働き16章16節以降に書かれているのですが、パウロと同行者シラスはピリピで投獄されます。しかし、投獄されて彼らの働きはしぼんでしまうことはありませんでした。かえって、彼らが投獄されたことによって牢獄の看守とその家族が福音を信じたのです。
そして、ローマにおいてもパウロの投獄は福音の前進を妨げず、かえって人々は大胆に福音を宣べ伝えるようになったと書いています。
福音のために働く者が、福音のゆえに辛い目にあったとしたら、それは福音の前進のために意味があるということを、パウロはここで書いています。20節に目を留めましょう。「わたしの願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられること」だとパウロは証しします。
「生きるにしても、死ぬにしても…」とあります。パウロのことばは、生きることは良いことで死ぬことは悪いことだという考えを排除しています。キリストを信じ、キリストの福音を証しする者たちにとって大切なのは、生きるか死ぬかではなくて、どちらであっても福音が証しされ、キリストがあがめられる……。
キリストを信じるというのが、こんなにも素敵な生と死とをいただいているということなのです。それはパウロだけが独り占めするものではないのですね。