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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

途上にある者

2015年02月06日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 3章12−21節

 積雪の予報は空振りに終りました。でもホッとしています。きのう予定していた会議も一週間後に延期。「みことばの光」5月号の編集もきょうに延ばしました。「一日延ばします」と連絡したあとでスケジュールを確認したら、きょうの午後4時からの予定があったことをすっかり忘れていました。どうしたものかしらと思案していると…、相手の方から電話があり、土曜日に延期してほしいとのことです。神さまの細やかのご配慮を見るようなことでした。

 今朝の早朝の祈祷会、道がガチガチに凍ってノロノロ運転で教会に向かい、無事に着いてホッとしました。考えてみますと、私たちはその日その日に、あそこに行ってここに行って、あれをしてこれをしてという目標や目的地を持っています。実際の行動でないにしても、あれをこれを…と思い描くゴールがあります。何かを到達したとか、来るべき所に着いたと安心していると、というよりも慢心していますと、がたんと落とされるようなことがよくあります。

 きょうの「みことばの光」には、神の栄冠を得るという目標を目指す生き方として、四つのことが示されています。1)不完全な自分を認めること、2)過去に誇りであったものを手放して歩むこと、3)イエス・キリストから目を離さないこと、4)互いに比べ合わないこと。

 長く生きていると、持ち物が増えます。こだわるものも出て来ます。体重も増えるかもしれません。「あなたは途上にあるのだよ」と教えてくださるために、時にそれらをそぎ落とすという経験を神さまは私に与えてくださるのだなぁ、と思わされるこの頃です。


キリストのゆえに

2015年02月05日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 3章1−11節

 今にも降り出しそうな曇り空。きょうはこれから雪が降るとのこと。予定していた会議も延期となりました。

 本日の箇所は「最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい」から始まります。そのすぐ後に「前と同じように書きますが」とありますので、彼が投獄されているのを「主にあって」喜ぶようにということなのですね。辛い目に遭っているのになぜ喜べるのだろうか、なぜ喜ぶようにと言えるのでしょうか。

 「得」「損」ということばを思い巡らしてみます。

 パウロにとっては、生い立ち、経歴のすべてが人間的なものを頼みとするという考えに基づけば「得」でした。けれども、今彼はそれらを「損」だと思うようになったというのです。「みことばの光」はそれを、キリストを信じたことで失ったものと書いています。

 7−11節にはキリストということばがたくさん出ています。

「キリストのゆえに」「キリストのために」「キリストの中にある者」「キリストを信じる信仰による義」「キリストとその復活の力を知り」「キリストの苦しみにあずかることも知って」「キリストの死と同じ状態になり」。

 パウロは、キリストのゆえに人間的に頼りとしていたものを失いましたが、比較にならないほどの宝を手にしました。その宝があまりにも素晴らしいので、これまで大切だと思っていたもののすべてが色あせて見えるということを体験したのです。


いっしょに喜んで

2015年02月04日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 2章12−30節

 きょうは立春。とはいえ、まだまだ寒い日々が続くようです。明日は雪が降るとの予報が出ていますし…。

 12−18節は、クリスチャン個人の信仰の成長として受け取られることの多いことばですが、ピリピ人への手紙全体とのつながりを覚えて読み直してみるとどうでしょうか。特に2章1−4節で取り上げた、教会内での仲違いや不一致という問題を踏まえて、パウロは教会がそのような問題を解決していくようにとの勧めだと受け止められます。

 「自分の救いを達成する」とは教会の健全な成長を遂げるということ。ぶつぶつ互いにつぶやいたり、疑いを差し挟むことなく、キリストをあおぎながら世の光として輝く…パウロはそのようなピリピの教会の姿を思い描くのです。

 


キリストにあって

2015年02月03日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 2章1−11節

 掲げるならこれと思いつつ、自分にあてはめるのは…という聖書のことばの一つがきょうの箇所。

 初めの日から、パウロたちの働きを支えてきたピリピの教会は、始まりがルデヤや看守の家族だったということから想像して、家族的な教会だったと考えられます。人と人とのつながりが強ければそれだけ、けんかもします。きょうの箇所の2−4節にある勧めからは、この教会には人間関係でのいろいろなトラブルがあったことを思わせます。さらに4章2、3節にはそのような問題の渦中にいた人の名前まで登場します。

 キリストとを主、かしらとあおぐ人々から成り立つ教会には、それぞれに思い描く教会の在り方、クリスチャンの在り方があります。自分の理想を物差しにして人を見れば、気になることの一つ二つはすぐに見つかります。互いにそれをぶつけ合ったらどんなことになるでしょう。自分を基準に人を見るのではなくて、キリストに目を留めるようにパウロは促しています。

 なぜ、へりくだって互いに人を自分よりもすぐれたものと思うのが肝要なのかを、きょうの「みことばの光」によってまとめることができます。「キリストの謙遜を模範として生きるように教会に命じられていることには、明確な理由がある。すべての人が救われるためである。」教会は、このお方を世界に証しする務めを賜っていることに、改めて気づくのです。


何を喜ぶか

2015年02月02日 | ピリピ人への手紙

ピリピ人への手紙 1章12−30節

 ピリピ人への手紙は「獄中書簡」の一つ。パウロがおそらくローマの獄中から愛するピリピの教会へと書き送ったものです。パウロのピリピでの伝道の様子が使徒の働き16章12—40節に記されています。パウロたちがここにいたのは「幾日か」でしたが、この間にルデヤとその家族、パウロがたちが投獄された牢の看守とその家族が福音を信じてバプテスマを受けました。ピリピの教会は二つの家族から始まったといってもよいと思います。そして、この手紙全体から伝わるのはパウロとピリピの教会との親密さ。ピリピの教会は「最初の日から今日まで福音を広めることにあずかって来た」(1章5節)とあります。祈りによって経済的にパウロたちの働きを支え続けたという意味です。

 パウロは今投獄されています。たいへんに厳しい中にいます。しかし彼は、これをかえって福音を前進させるようになったことだと受け止めています。パウロは身の危険を感じていました。そのような中で、自分が死んでキリストとともにいるいることを願うが、ピリピの教会の信仰の進歩と喜びのためには、生きながらえることのほうがもっと必要だというのです。

 このように物事を受け止めることの鍵は「キリストがあがめられること」。彼にとっては、どんなところに置かれても、追いやられても、それによってキリストがあがめられるならば喜びであり、感謝なのです。

 後藤健二兄のご家族や関わりのあるすべての人々に、天父の慰めをと祈ります。


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