列王記第二 18章13—37節
わが家に大きなテーブルが届きました。帰国されるご家庭から譲ってもらいました。10人ほどの人がこれを囲んですわることができるほどのもの。このテーブルの上に聖書が置かれ、そこでみことばを学び合う交わりが始まることを願いつつ、神さまに祈っています。
アッシリヤは北王国イスラエルを滅ぼした勢いで、今度は南王国ユダを攻略しようとしました。隣国というか兄弟国の最期を見て恐れを為したのか、ヒゼキヤは初めはアッシリヤ王に金や銀を差し出して、引き揚げてほしいと願います。ヒゼキヤのことばのなんと力のないものか…。しかし、そんなことで引き下がるようなアッシリヤではありません。「みことばの光」が書くように、悪の要求に屈するのは決して解決にならないことの実例を見せられているようなものです。
アッシリヤは大軍をつけてエルサレムに攻め上ります。ラブ・シャケの恫喝(どうかつ)のことばには非常な説得力があります。「これはやはりダメだ。アッシリヤに降参するしかない」と、聞いた者に思わせるような力を持っています。
「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか」というラブ・シャケのことばを、私はこれまでの信仰者としての歩みの中で何度も自問してきました。自分は神を信じているのだから、神に拠り頼むのだというのを理屈としてはわかっています。ところが、いざ! という時に、神ではない他の何か、誰かを頼りにしている自分がいるのです。何かの時に頼りにできる人を持つのは大切なことですし、そのようにできるのはしあわせなこと。けれども、人を頼りにするのに慣れてしまうと、神に信頼することがどこかに行ってしまいます。
民の沈黙には「そうではない。神はわれらの避け所。また、力なのだ」とのことばが込められているのではと思いました。
「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」(イザヤ書2章2節)。