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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

何に拠り頼んでいるのか

2015年07月21日 | 列王記第二

列王記第二 18章13—37節

 わが家に大きなテーブルが届きました。帰国されるご家庭から譲ってもらいました。10人ほどの人がこれを囲んですわることができるほどのもの。このテーブルの上に聖書が置かれ、そこでみことばを学び合う交わりが始まることを願いつつ、神さまに祈っています。

 アッシリヤは北王国イスラエルを滅ぼした勢いで、今度は南王国ユダを攻略しようとしました。隣国というか兄弟国の最期を見て恐れを為したのか、ヒゼキヤは初めはアッシリヤ王に金や銀を差し出して、引き揚げてほしいと願います。ヒゼキヤのことばのなんと力のないものか…。しかし、そんなことで引き下がるようなアッシリヤではありません。「みことばの光」が書くように、悪の要求に屈するのは決して解決にならないことの実例を見せられているようなものです。

 アッシリヤは大軍をつけてエルサレムに攻め上ります。ラブ・シャケの恫喝(どうかつ)のことばには非常な説得力があります。「これはやはりダメだ。アッシリヤに降参するしかない」と、聞いた者に思わせるような力を持っています。

 「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか」というラブ・シャケのことばを、私はこれまでの信仰者としての歩みの中で何度も自問してきました。自分は神を信じているのだから、神に拠り頼むのだというのを理屈としてはわかっています。ところが、いざ! という時に、神ではない他の何か、誰かを頼りにしている自分がいるのです。何かの時に頼りにできる人を持つのは大切なことですし、そのようにできるのはしあわせなこと。けれども、人を頼りにするのに慣れてしまうと、神に信頼することがどこかに行ってしまいます。

 民の沈黙には「そうではない。神はわれらの避け所。また、力なのだ」とのことばが込められているのではと思いました。

 「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」(イザヤ書2章2節)。

 


堅くすがって離れることなく

2015年07月20日 | 列王記第二

列王記第二 18章1−12節

 

 きょうの写真は「もぐらケーキ」。先週金曜日に伺ったお家の方が作ってくれました。見た目は重い感じがしますが、食べると思ったよりもふんわりとしています。とてもおいしかったです。ごちそうさまでした。さて、中はどうなっていると思いますか。

 ユダの王ヒゼキヤの時代は、北王国イスラエルがアッシリヤに滅ぼされた頃です。彼は、北隣の兄弟国で何が起こっているのかをしかと見、自国に忍びつつある脅威に身をすくめながらも、主に信頼して危機的事態を乗り越えようとしました。久しぶりに列王記の王紹介では、減点のない評価を得ているヒゼキヤ。読んでいてホッとします。もちろん、ここにある評価はヒゼキヤの王としての総括。個々の出来事では神に信頼せずに失敗してしまうこともありました。それにしても、一貫して主を恐れ、主に信頼する王だったのだという印象が伝わってきます。

 心に留めたのは6節の「彼は主に堅くすがって離れることなく…」ということば。「すがる」というと、子どもがお父さんやお母さんにすがっているという姿を連想します。何か周りに恐ろしいことがあるのでしょうか。それを見ないで、お父さんにしっかりすがって離れないのです。するとお父さんは子どもをすがらせながら歩き、危ない所から脱出するような情景を思い浮かべます。

 「主にすがるわれに、なやみはなし」で始まる、「歌いつつ歩まん」という賛美歌を思い起こしました。


もう一つの選択肢こそ

2015年07月18日 | 列王記第二

列王記第二 17章1−23節

 

 写真は、きょうお訪ねした方の町にあるお城の庭に植えてあったレバノン杉。立派です!

 ついにヤロブアム以来の北王国イスラエルは滅ぼされてしまう、というのがきょうの箇所。イスラエル最後の王ホセアについては、これまでの多くのイスラエル王にかぶせられていた「ヤロブアムの罪から離れず」ということばがついていません。「少しはマシだった」ということなのかもしれません。しかし、このようなホセアの姿勢もすでに遅し。アッシリヤによって北王国は終ります。

 ホセアはアッシリヤの攻略にさらされて、当時のもう一つの超大国エジプトに助けを求めようとしました。けれども、その動きをアッシリヤ王に察知され、彼は投獄されてしまいます。

 もう一つの選択肢を彼は考えなかったのだろうかと考えさせられます。こんなふうになったのだから、もはや手遅れだと思ったのでしょうか。彼が主に頼ったとの記事はありません。こんなふうにまでなったのを主はお怒りになっているからとても頼めないとでも思ったのかも知れません。もともと彼には、主に頼るという選択肢はなかったとしたら、悲しいことです。

 当地での生活のために、手続がまだ残っています。あの人に、この人に、具体的にお願いして助けてもらえるのは感謝なこと。しかし、きのうお伺いした方のお話を聞いて、いつもどのような場合にも、信頼すべきただ一人のお方は主であるとの思いを新たにしました。


頼る相手を間違えて

2015年07月17日 | 列王記第二

列王記第二 16章

 きょうは、当地からおよそ70キロほど北にお住まいの方を訪ねました。夏空の下、車窓には麦畑が…。おいしいお昼、主にある会話、そしてみことばをいっしょに読むという、充実した一日でした。

 ユダの王アハズについて、列王記は「…父祖ダビデとは違って、主の目にかなうことを行わず、イスラエルの王たちの道に歩み…」と記します。ユダの王についての記述にしては特異です。

 アハズが王であった頃、この辺りにはアッシリヤの脅威が及んでいました。アラム王レツィンとイスラエル王ペカがともにエルサレムに攻め上ったのは、アラムとイスラエルが連携してアッシリヤに立ち向かおうとし、その連携にユダも加わってほしいと圧力をかけたからのです。しかし、アハズは連携を拒み、なんとアッシリヤに貢ぎ物をして、アラムとイスラエルからユダを救ってほしいと頼みます。

 この時、アハズは頼る相手を間違えたのです。「私は主おひとりに信頼するから連繋をしない」と答えずに、アッシリヤに頼りました。たくさんの貢ぎ物を得たアッシリヤはアラムを撃破してくれました。しかし、これに味を占めてユダをたびたび脅かすことになります。

 こっちがダメなら、あっちに頼もう。そうでなければ…と、自分の目線にある人の名前ばかりが浮かぶ場合があります。しかし、真に頼るべきは神さまなのだということを、これまでも何度わからされてきたことか…。それでもなお、頼る相手を間違いやすいのです。


主の目にかなうことを

2015年07月16日 | 列王記第二

列王記第二 15章23−38節

  きのうは、夏の暑さが戻って来たような一日。ウォーキングで訪れる近くの公園では多くの人が「夜遊び」をしています。と言っても、ランニング、ウォーキング、テニス、サッカーなど様々。夏至が過ぎ少しずつよるが長くなってきていると言っても、きょうの日没時刻は21時30分ですから、まだまだ「夜遊び」は続きます。

 きょうの箇所にも、次々に王が取って代わる北王国イスラエルと、比較的安定な王制が続く南王国ユダの姿が比べられているかのようです。北王国とはイスラエル民族の諸部族を束ねて成り立つのですから、部族間の利害の対立もあったことでしょう。ペカがペカフヤを殺した時に50人のギルアデ人が加わったというのも、そのような複雑な背景を表わしているのかもしれません。そのようにしている間にも、北王国の滅亡がひたひたと迫っていることが、アッシリヤの侵入によってわかります。

 一方のユダでは、その間アザルヤ(ウジヤ)による長期政権の後で、息子ヨタムが王位を継ぎます。彼は主の目にかなうことを行ったと記されます。それとともに、主はヨタム治政下のユダをアラムとイスラエルによって攻め始めておられたともあります。

 国と国との力関係がどうだから、これまでとは違う法律が必要だというようにして、大きな混乱の中で法案が委員会を通過しました。昔も今も、どの国と組みどの国に立ち向かうかと、政治や経済、そして社会は分析に懸命です。しかし、表向きの事象の底に主の御手がどのように働いているのかを見ることの肝要さを列王記が伝えていると思うのです。


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