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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

みな、…読み聞かせた

2015年07月27日 | 列王記第二

列王記第二 23章1−24節

 家には二つの「ぬか床」があります。一つは我が家のもの、もう一つは一時預かっているもの。その匂いというか、香りというかがやはり違うのです。それぞれの家のぬか床というものがあるのですね。

 ヨシヤ王は8歳で王になり、16歳で神に求め、20歳でユダとエルサレムをきよめ始めました。そしてきよめる中で、26歳の時に見つかった律法の書を読み、神の前に悔い改めて、さらに民を巻き込んで改革をさらに推し進めていきました。怒濤の勢いです。この時すでに、北王国イスラエルはアッシリヤに滅ぼされましたが、北王国の歴代の王が取り除かないままにしていたヤロブアムの造った高き所をさえ、ヨシヤ王は壊すのです。「怒濤の勢いで…」というのは、この時のヨシヤにふさわしいのかもしれません。

 心にとめたのは、発見された律法の書(契約の書)をヨシヤが読み、罪を示されて悔い改めた後で、それを今度は民に読み聞かせたということです。王として、この国が履行すべき契約を長い間反故にしていたことの重大さに気づき、彼は国を挙げての改革を先導しました。

 ユダももう終わりが近いのだから、何も今更になって…ということではなく、今自分がなさなければならないことをするという姿勢をヨシヤから学びます。ともに罪を悔い改め、一緒に立ち上がる……


民衆は…

2015年07月25日 | 列王記第二

列王記第二 21章

 購入した自動車を引き取りに行く日。一通りの説明を受け、キーを受け取り自宅に向かいました。途中のサービスエリヤで一旦停止。手続などをしてくださった方が、「ウィンドウ・ウォッシャーのチェックをしましょう」と言うので、チェックをしましたら、リアガラスのウォッシャー液の出がよくありません。ディーラーに戻ってチェックしてもらい、いざ乗ろうとしたら、タイヤにねじのようなものが刺さっているのを発見。タイヤの補修をしてもらうことになり、納車は月曜日以降になりました。願ったとおりにスムーズに物事が進まないことを、いろいろ体験できます。

 列王記や歴代誌を読んで不思議に思うのは、善王の後に悪い王がというのがよく見られるということ。ヒゼキヤの子どものマナセ王は、散々な評価を受けています。「みことばの光」が書くように、ここでの王の評価は、政治的外交的なものではなくて主に対する態度の評価。確かに、在位が55年間であったということは、一定の民の支持を得ることができたものと考えられます。

 心に留めたのは、アモン王を謀反で殺した家来たちを打ち殺した民衆の存在。家来たちはもしかしたら、アモンを殺すことでダビデの家系を絶やそうと謀ったのかもしれません。その家来たちを斥けた「民衆」と呼ばれていた人々は、それを食い止めたのではなかったでしょうか。

 王の名前が中心になる列王記ですが、主はその中に名もない民衆をちりばめて、あわれみのみわざを彼らによってしておられるのだと考えられます。


「あなたは死ぬ」

2015年07月24日 | 列王記第二

列王記第二 20章

 妻が良いアイディアを実行に移しました。こちらに来て一ヶ月。備えられていたもののうち、使う物と使わない物がわかったので、整理するのだそうです。そして、空っぽになった棚一個が本棚になってしまったという次第です。本当にすっきりしました。

 ヒゼキヤの場合は、すっきりとはほど遠いところにいました。病気になって死にかかっていたのです。そのとき、主のことばを預言者イザヤが携えてきました。死の病に冒されている人を訪ねるのだとしたら、決して言わないことば、また、言ってはならないことばをイザヤはヒゼキヤに届けます。「あなたは死ぬ。直らない。」病の床にある人に追い討ちをかけることばです。場合によっては、そのことばが引き金になって死を早めるなどということもあるかもしれません。

 けれども、よくよく考えますと、すべてのいのちあるものの生と死とを支配しておら得る神だから、いや、神にしか言えないことばなのです。この後の展開は、主がヒゼキヤのたましいの叫びをお聞きになって、いのちを永らえさせてくださるというように進みます。

 もう一つ心に留めたのは、「わたしはあなたの涙を見た」との主のおことば。3節に「ヒゼキヤは大声で泣いた」とあります。神さまはそのようなヒゼキヤのすべてをご覧になっておられたのです。

 私たちのことに適用すると、何かとても勇気が湧いてくるようです。今もこのお方は、私の涙を、私の喜びを、怒りを…そのすべてをご覧になっておられるということになります。嬉しいというか、神が近くにおられることを強くおぼえる一言です。


わたしは聞いた

2015年07月23日 | 列王記第二

列王記第二 19章20−37節

 今年、当地の夏は暑いのだそうです。確かに、電車やバスの冷房が気持ちよく感じることがあります。けれども、家にはエアコンがなくても何とかしのげます。梅雨明け直後の日本の、あのカアーッとした暑さとは比べものになりません(比べても意味はないですね)。写真はきのうの夕方の空。

 主は預言者イザヤによって、アッシリヤ王セナケリブに対して、そしてユダの王ヒゼキヤに対してことばをお届けになりました。セナケリブには高慢ゆえのさばきを、ヒゼキヤには救いと希望を約束なさったのです。そして、そのことば通りのことが起こりました。

 心に留めたのは、20節の「わたしは聞いた」という主のことば。ヒゼキヤの祈りを神がお聞きになったとおっしゃるのです。きのうはこちらの教会の祈祷会。「みことばの光」のその日の聖書箇所を読み、「みことばの光」を読み、そしてそこから得たことを分かち合い、課題を出し合って祈ります。きのうはいつもよりも多くの方が出席しました。いっしょに祈る者が増えるのは嬉しいことですね。

 祈りは自己満足でも、悩みのはけ口でもありません。神が聞いてくださると信じて、そして神が祈りに答えてみこころを為してくださると信じて祈ります。

 「わたしは聞いた」という主のおことばは、祈る者への何よりの励ましです。


主の前に広げる

2015年07月22日 | 列王記第二

列王記第二 19章1−19節

 ブログを書いている(打っている)机の上に天窓が空いています。時々お客様が来ます。蜂です。でも、こちらの蜂は優しそう。遠慮がちに天窓のガラスのところでブンブンしていたかと思うと、また空に飛んで行ってしまいます。時々「出られないよ」と言っているような蜂がいますが、そんな時には「旅立ち」の手伝いをさせてもらっています。

 アッシリヤの恫喝に瀕して、ヒゼキヤは荒布をまとって主の宮に入りました。事が起こったならば、真っ先に主の前に出ることが肝要だということを教えられます。それから預言者イザヤに祈りを要請します。イザヤによって主は、ご自分がアッシリヤ王を倒すとのことばを得ますが、目の前の時代は一層悪くなっているように思えます。

 アッシリヤの使者からの脅しの手紙を受け取ったヒゼキヤは、今度も主の宮に入り、手紙を主の前に広げます。何事かが起こったら主の前に出る、問題を主の前に広げるのだということを、改めて教えられます。

 こちらに来てからの、いろいろな手続が続いています。その一つ一つを、主は「わたしの前にそれを広げよ」と招いておられるのだということを知って、主に信頼して前に向かって行こうと教えられています。

 祈ってもらえる信仰の友がいること、問題を洗いざらい広げることのできる主がおられること、こんなしあわせはありません。


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