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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

自立した信仰

2015年07月15日 | 列王記第二

列王記第二 15章1−22節

 きのう紹介した木苺(ブラックベリー)。まだはしりだそうで本格的に色づくのはこれからとのことです。種や皮を濾(こ)して瓶詰めにすると、とても豊かな気持ちになりました。

 きょうの箇所に登場するのは、52年もの間ユダの王位に就いていたアザルヤ(ウジヤ)王と、対照的にその間めまぐるしく取って代わられる北王国イスラエルの王たちです。「みことばの光」が書くように、アザルヤ(ウジヤ)については、歴代誌第二26章も併せてお読みになるのをお勧めします。

 アザルヤ(ウジヤ)の治政下のユダは国力が増し、繁栄しました。しかし、晩年はツァラアトに冒され、主の宮から絶たれて隔ての家に住まなければならなかったとあります。歴代誌第二26章16節以下には、なぜ彼がツァラアトに冒されることになったのかの経緯が記されています。心が高ぶり、香を焚いてしまったからです。それは本来祭司が為すべき務めでした。高慢が破滅に先立つとのみことばを覚えます。

 さらにアザルヤ(ウジヤ)は、助言者であったゼカリヤの存命中は神を求めたと、歴代誌第二26章5節にあります。よい指導者に恵まれたアザルヤ(ウジヤ)でしたが、指導者がいなくなった途端、心は主から離れてしまいました。信仰の成長のために、神は私たちに信仰の先輩、指導者を与えておられます。けれども、それはやがて一人一人が信仰の自立をはかるまで。「私には指導者は必要ない」などというのもまた高慢な心の現れですが、いつまでも指導者に頼ることで、神への信頼が難しい場合もある、のです。


繁栄の陰にあること

2015年07月14日 | 列王記第二

列王記第二 14章17—29節

 きのう夕方買い物の帰りに、近くの川沿いを歩いていると…木苺がどっさり! 色づいたものを二人で摘み、早速ソースにしてケーキを飾りました。目の覚めるような色、甘酸っぱくておいしい木苺ソースでした。

 きょうの箇所には、南王国ユダのアマツヤ王とアザルヤ王、そして北王国イスラエルのヤロブアム王(ヤロブアム2世)のことが記されています。特にヤロブアム王の王位期間は41年と、北王国では最も長く、それだけ彼の治世下でイスラエルは最も栄えました。25—27節には、主がヤロブアムが王をした理由が記されています。なんとその頃のイスラエルは消し飛んでしまうほどの有り様だったようです。

 なぜヤロブアムは奪われていた南方の領土を回復することができたのか、それは、「主がイスラエルの悩みが非常に激しいのを見られたから」なのです。主は誰も助けを指し伸ばすことのないイスラエルをご覧になり、天の下から消し去ろうとはおっしゃらずに、ヤロブアムをお立てになって繁栄を与えられたのです。

 繁栄の陰にあるのは、悩みの深いのをご覧になって心を痛められた主のご愛があったのです。ところがイスラエルはこの繁栄の時代に、さらに心が主から離れ、富む者は貧しい者から搾取し、不正がまかり通り、金が財産がすべてだというようになってしまったと、同時代の預言者ホセアやアモスは語っています。

 自分が有能だから繁栄した、うまくいっていると錯覚することが多いのですが、繁栄の陰に主のご愛があることを忘れてはならないと、探られました。


ダビデのようではなく

2015年07月13日 | 列王記第二

列王記第二 14章1−16節

 きのうは誕生日。礼拝の後の愛餐(あいさん)会で、教会の方がこんなすてきなケーキを焼いてくださいました。とってもおいしいケーキを20個に切り分けてみんなでいただきました。ところで、ドイツでは誕生日を迎える人がケーキを焼いたりして皆さんをもてなすのだそうです。来年は…ムムム!!

 14章にはユダの王の行状が記録されます。ユダではヨアシュの次にアマツヤが王になります。父のヨアシュは1歳から7歳までかくまわれたあの人物。祭司エホヤダが存命の間は主の目にかなうことを行ったのに、亡くなってからは偶像礼拝に突き進み、揚げ句の果てには家臣たちに殺されてしまうのです。その子アマツヤは主の目にかなうことを行ったと紹介されますが、「父祖ダビデのようではなく、すべて父ヨアシュが行ったとおりを行った」とあります。

 ダビデはユダの王の記録の多くに、このように登場します。「ダビデのように」とは、どのような歩みを指すのかを考えてみました。ダビデは生涯にわたって主の前に忠実に歩んだかというとそうではありません。姦淫の罪を犯し、偽りを行い、他人のものを非合法に奪い、揚げ句の果てに姦淫相手の女性の夫を殺してしまいます。それなのになぜ、「ダビデのように」と言うのでしょうか。罪を犯したら罪を告白して悔い改めるというダビデの姿勢を見て、「ダビデのよう」だと言うのです。罪を犯さない者など誰もいないのです。肝心なのは罪を犯したらどのようにそれと向き合うかということ。そのような意味で、聖書は「父祖ダビデのように」と書いているのです。

 アマツヤはエドムへの勝利の余勢を駆って北王国イスラエルとも戦いを交えようとするのです。けれども勝機はユダにはないと、北王国イスラエルの王ヨアシュにいさめられます。けれども、勝つとは恐ろしいこと、彼は自分がよくわかっていないのです。そのまま突き進んで、北王国イスラエルに破れてしまったのです。

 自分を知るのは難しいこと、です。


最後まで忠実か

2015年07月11日 | 列王記第二

列王記第二 12章

 住まいはとんがり屋根の三階部分にあるのですが、実はさらにその上に屋根裏があります。きのうは、普段使わない物を入れられるようにと屋根裏を掃除し、きれいにしました。ずいぶんと広い空間で、なかなかのものです。さっそく、旅行かばんやら空き段ボールなどを収納。「ゲストルーム」がすっきりしました。でも、広いからといってモノを持たないように! というのが私たちの申し合わせ事項の一つ。

 主がお消しにならなかったともしびが、七歳で即位したヨアシュ王。この章には、ヨアシュ王の功績と晩年の汚点とも言える出来事が対比されています。「みことばの光」にあるように、歴代誌第二24章を併せてお読みになると、さらにヨアシュ王についての理解が深まると思います。

 ヨアシュ王は、彼をかくまった祭司エホヤダの存命中は主の目にかなうことを行いました。アタルヤがバアルを礼拝する場所として荒らしに荒らした主の宮の補修に、知恵を尽くして取り組んで成し遂げました。ところが、エホヤダが死ぬとヨアシュは変心します。主はこの時、ヨアシュたちを主に立ち返らそうとエホヤダの子ゼカリヤをお遣わしになりますが、ヨアシュはゼカリヤに耳を貸さないばかりか、殺してしまいます。

 エルサレムに攻め入ろうとしたアラム王ハザエルに、ヨアシュが主に聖別された物を渡さなければならなかったのは、ゼカリヤ殺害と無関係ではなかったでしょう。揚げ句の果てに、ヨアシュは家来の謀反にあって殺害されてしまいます。

 最後まで主に忠実でありたいと、ヨアシュの姿によって教えられます。けれども、そうさせないための落とし穴が、あちこちにぼこぼこと開いています。さて…?


ともしびは消えず

2015年07月10日 | 列王記第二

列王記第二 11章

 

 7月上旬なのに、当地はひんやりとした空気を肌に感じる晴れ渡った一日でした。暑かった日には冷房の効いた地下鉄車両にほっとしましたが、きのうは窓が開いた車両から入る風がとても心地よかったです。

 アタルヤは、我が子アハズヤ王が死んだと知ると、すぐに王家の子どもたちの皆殺しにかかりました。恐らく自分の王としての立場を強固にするためにしたことなのでしょう。しかし、たったひとりだけ、ユダ王家の子どもがかくまわれました。1歳のヨアシュです。ヨアシュは、乳母とともに神の宮の寝具をしまう部屋で6年間身を隠します。そして7年目に、祭司エホヤダによるクーデターによってアタルヤは倒れ、ヨアシュが7歳で王になるのです。

 8章19節に、「主は、そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫にいつまでもともしびを与えようと、彼に約束されたからである」とあります。そのともしびは確かに消えず、ダビデの子どもたちは絶えず、やがてこの子孫のひとりとして救い主イエス・キリストがお生まれになります。

 この箇所にある劇的な出来事は、真っ暗闇な中にあっても、主のともしびは消えず支えになるというのぞみを抱かせてくれます。


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