列王記第二 1章
「それゆえ、主はこう言われる。」1章4節
雲一つない晴天の火曜日、湿度が低いからか蒸し暑さは感じません。主にある友との交わりの中で、「神がビジョンを与えてくださる」という思いを新たにしました。
「みことばの光」はイエスの時代から850年ほど遡(さかのぼ)るイスラエルへと私たちを連れて行きます。きょうから列王記の後半を読むのです。「列王記第二を読む前に」の中に、「一見厳しく見えるさばきの中にも私たちに対する神の愛が隠されている」とのことばがあります。
1章は北王国の悪王アハブの子アハズヤ王の最期を記します。王宮の屋上から転落したアハズヤは瀕死の重傷を負います。この時こそまことの神に立ち返って罪を悔い改める機会でしたが、アハズヤはバアル・ゼブブというペリシテ人の神に頼ります。一節によると「ゼブブ」というのはハエが飛ぶ音と関係があると言われています。
この時アハズヤは、「この病が治るかどうか伺いを立てよ」と命じるのです。「この病を治してくれるように」願ったのではありません。アハズヤにとってペリシテの神は自分の運命、行き先を知るための手段にすぎないということでしょうか。「治してください」と願うほど自分は弱くはないというのかもしれません。
しかし、アハズヤの死をはっきり告げる人物がいました。預言者エリヤです。エリヤのことばは主の使いが、つまり神がエリヤに授けたもの。全く確かなことばです。アハズヤは愚かにも、エリヤに、いやエリヤを遣わした神に盾つこうとしているのです。
この期(ご)に及んで、人の生きると死ぬとを定めておられる神に背を向けるとは、全く愚かな挑戦です。