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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神を加える?

2020年07月17日 | 列王記第二

列王記第二 17章24−41節

「あなたがたの神、主だけを恐れなければならない。」17章39節

 東京を中心とする日本の感染者数の増加が報じられていますので、久しぶりに当地はどうなのかを調べてみました。グラフを見ると、確実に増加数が逓減しています。どの国でも、規制と経済活動とのかじ取りに難しさがあるようですね。

 17章後半には、アッシリアからサマリアに移住してきた人々の宗教が描かれています。アッシリアは、イスラエルから人々をアッシリアに人々を強制的に移住させる一方で、アッシリア各地から人々をサマリアに移り住まわせました。そしてその人々は、それぞれの神々を持って来たのです。

 その彼らの中に獅子を送り込まれたという25節のことばに目が留まります。なぜ主は獅子を送り込まれたのでしょう。ご自分がイスラエルに与えられた約束の地を守ろうとなさったのかもしれません。

 ところがアッシリア王に届けられたのは、「この土地の神についての慣わしを知らないので、(この土地の)神が獅子を送った」という報告でした。このような報告の前提には、それぞれの土地にはそれぞれの神がいるという考えがあります。天地の創造主である主を、「その土地の神」として閉じ込めようとしているのです。

 アッシリア王は報告を受けて、「その土地の神についての慣わし」を教えさせるために、一旦はアッシリアに捕え移した祭司の一人をサマリアに連れ戻すのです。祖国に帰ることができるようになった祭司がどのようにその命令を聞いたかは知ることができませんが、ベテルでの働きを読むと、彼は自分の務めを忠実に行ったようです。

 彼らはその結果、自分たちの神々の他に、主なる神への礼拝を加えます。それで災いが減じれば良いことだと考えたのでしょうか。しかしそれを、神は喜ばれません。優先順位の問題でもありません。

 神は、「主だけを…」「神お一人を…」求めるお方なのです。


空しいものとなって

2020年07月16日 | 列王記第二

列王記第二 17章1−23節

「空しい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨て去ります。」ヨナ書2章8節

 火曜日の夜、自宅で「ミニ・シアター」を開催しました。観客は二人(私たち)、上映作品は「名もなき生涯」です。三時間にも及ぶ長編でしたが、あっという間の感がありました。ヒトラーへの忠誠を誓う署名を拒み続けたことで最後には死刑に処せられたフランツ・イェーガーシュテッターの生涯を描いた作品。私たちは☆☆☆☆☆をつけます。

 17章前半にあるのは、☆5つなどとんでもないような、北王国イスラエル滅亡の記事。最後の王ホセアは、自分の頼るはエジプトだとして、アッシリアへの貢ぎ物を怠ったのが発覚し、アッシリア王に捕えられ、サマリアは包囲され、そしてイスラエルの人々はアッシリアに捕え移されてしまいます。

 7−23節には、なぜこのようなことが起こったのかがまとめて語られています。それは、イスラエルの神である主に背き、偶像に心を寄せ続けたことへの当然の結果なのだというのです。神はこれまで、イスラエルに多くの預言者を遣わして何度も悔い改めを迫りましたが、王を初め、彼らは聞き入れることがなかったのです。

 15節のことばを覚えました。空しいものである偶像は、姿を変えて今も人々をとりこにします。映画に描かれた時代にも偶像が魅力的に人々の心を捉えました。しかし、それについていった結果は敗北、破滅でした。そして今も…。それらを追い求めることの結果は「むなしいもの」となる、なのです。


頼るべきは…

2020年07月15日 | 列王記第二

列王記第二 16章

「あなたの神、主に、しるしを求めよ。よみの深みでも、天の高みにでも。」 イザヤ書7章11節

 待ちに待った日本からの郵便物が届きました。「みことばの光」です。すでに7月も半ばですが、8月号と合わせて皆さんにお届けできます。

 本章には南王国ユダの危機的な状況が描かれます。それは、アラム(シリア)と北王国イスラエルがユダを脅かすということです。

 特に5節を背景にして、イザヤ書7章の預言が語られていますので、イザヤ書も一緒にお読みください。この時の様子をイザヤは、「王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように揺らいだ」と書いています(イザヤ書7章2節)。

 そしてこの時にイザヤは、アハブに、恐れずに主に信頼するようにとの、主のことばを届けます。神はこの国家の危急に際してアハブを、ユダを助けようとして手を伸ばされたのです。しかし、アハブはこの大いなる機会を逃しました。

 イザヤは、アラムとそして北王国イスラエルは決してユダを倒すことはできない、「それは起こらない。それはあり得ない」と断言し、アハブを初めとするユダの指導者たちに、(主なる神を)信じなければ堅く立つことはできないと、信仰に立つことを促すのですが、こともあろうにアハブは、それを断るのです(イザヤ7章12節)。

 それでも預言者は神のことばをアハブに告げ、特になぜ北のイスラエルがユダを攻め落とすことができないのかについて、アッシリアの存在を挙げています。

 結局アハブは、貢ぎ物を携えてアッシリアに助けを乞い、窮地を脱することができたのですが、とんでもない土産をエルサレムに持ち帰ることになります。それがアッシリアの偶像の祭壇です。そのためにアハズはソロモン王による神の宮の品々を壊すのです。

 この時アハブは主なる神ではなく、アッシリアを頼りにしました。頼るべきでない相手を当てにしたのです。それは罪とは何かを伝えています。


罪から離れないことの結末

2020年07月14日 | 列王記第二

列王記第二 15章23−38節

「ヤロブアムの罪から離れなかった。」15章24、28節

 近所にトルコ系のスーパーがあり、鶏肉を買い求めました。新鮮で値段も安いので「お得感」があります。しかも親切。

 15章後半には、北王国イスラエル末期の王たちが登場します。列王記には北と南の王たちの話がほぼ交互に出てきて、しかも、北の王が即位した時には南の王の治世何年、南の王が即位した時には北の王の治世の何年と書かれているので、ややこしいと思うこともあります。しかし、シャルムーメナヘムーペカフヤーペカーホセアたちについては、語呂が良いのか、すらっと覚えられました。

 語呂は良いのですが、ペカフヤはペカに殺され、ペカはホセアに謀反を企てられ殺されます。そして、北王国はホセアの代でアッシリヤによって終焉を迎えるのです。

 謀反によって王が倒されるという出来事は、南王国ユダにもありますが、圧倒的に多いのが北王国です。王に謀反を企てようとする力はどこから来るのでしょう。王の悪政によって民が苦しめられ国が疲弊することに黙っておられずに立ち上がるということが考えられます。あるいは、権力を巡っての醜い争いにすぎないかもしれません。また、列王記では神がエフーのような人物を立てて王を倒すということもあります。

 王国末期のイスラエルにはアッシリアの脅威が迫っていました。今ならば、「国を挙げて問題に当たるべき」だと言うことになるのでしょうが、次々に立つ王にはそのような視点は見られません。狭く小さな権力争いに明け暮れているうちに、力が失せてしまったということなのでしょうか。

 主の目にかなうことのなかった者が国の上に立ち続けることの結末は滅び、です。


高ぶりの代価

2020年07月13日 | 列王記第二

列王記第二 15章1−22節

「主が王を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり…」15章5節 

 日曜日の礼拝では、久しぶりに聖餐式を行いました。これに預かることの恵みを覚えることができました。

 15章前半には、南王国ユダのアザルヤ王のこと、そして北王国イスラエルのゼカリヤ、シャルム、メナヘムという王たちのことが記されます。紀元前700年代前半頃の話です。

 アザルヤは歴代誌第二やイザヤ書ではウジヤという名で描かれています。彼の在位は52年と長期にわたっていました。列王記でアザルヤについての記述はそれほど詳しくはありませんが、歴代誌第二26章にはたとえば、農業を好み、エルサレムを堅固にし、周辺諸国との戦いに勝利するなど、賢王としてのアザルヤの姿が描かれています。

 そして彼は、自分が強くなって心が高ぶって、本来祭司にしか許されていない香を焚こうとしてツァラアトに冒されたと、経緯が明らかにされています。高ぶりの代価は、あまりにも大きかったのです。隔離されている間、アザルヤは日々何を考え、どのように生きたのでしょうか。

 一方の北王国は、「主の目に悪であることを行う」王たちが続きます。そして、在位年数はいずれも短く、謀反によって王が殺されるということもよく見られます。そのような中で、国は存亡の危機にまで至ります。この間も、神はイスラエルを顧み、預言者を送り、王たちを助けてこられました。けれども、彼らはそれでも「主の目に悪であること」から離れないのです。 


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