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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

そこにいた人

2016年03月25日 | 受難と復活

マタイの福音書 27章45−56節

 当地では、きょうから連休になります。きょうはKarfreitag(聖金曜日)という祝日で主イエスが十字架で死なれた日をおぼえます。日曜日はOstersonntag、つまりイースターの日曜日。そしてさらに、月曜日はOstermontag(復活祭月曜日)の祝日と続くのです。春到来という時でもあり、多くの人はどこかに出かけます。きのうは、連休前に買い物をしようという人たちでスーパーが混んでいました。休日、祝日にはお店は休みだからです。さて、教会へは…?

 今年「みことばの光」は、マタイの福音書27章後半から28章を読みます。三日間読む聖書箇所には、それぞれ女性たちが描かれています。十字架にお架かりになり息を引き取られる様子を見ていたのは、ガリラヤからついて来た女性であり、その中にマグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフの母マリヤ、そしてゼベダイの子らの母がいました。

 さらに、女性たちはイエスの埋葬の場面でも描かれ、日曜日早朝の墓の前にも立ちます。十字架と復活という重要な場面で、そこにいたのは弟子たちではなくて彼女たちだったということが、印象に残ります。

 私は彼女たちとは違って、主の十字架、埋葬、墓という「そこ」にいることはできません。しかし、そこにいたら何を思うのだろうか考え黙想する時を、この受難とイースターに持ちたいと思います。


確かに…

2015年04月04日 | 受難と復活

ヨハネの福音書 19章31−42節

 初めて「上野東京ライン」を体験しました。所用が済み、銀座の本屋さんで何冊かを買い求めてから東京駅まで歩きました。新幹線の上を走る区間もあり、車窓からの眺めがとてもよかったです。東京と上野の間は距離にしたらわずか3.6キロ。時間にしたら数分ですが、この変化は大きいなと思いました。

 受難日と復活日の間の土曜日。きょうは一日早めに、教会で「イースター子ども集会」があります。近所のスーパーのレジの辺りに、「イースター」ということばのポスターが貼ってあってびっくり。床屋さんで流れていたFMラジオのパーソナリティもイースターに触れていました。商魂がイースターにも…というところなのでしょうか。「イースター」の意味を子どもたちにお届けできたらと思っています。

 ヨハネの福音書は、二つの出来事によって主イエスが確かにお亡くなりになったことを証言します。一つはイエスのからだのすねを折らなかったこと、もう一つは隠れ弟子たちによって遺体に施すべきことがなされて墓に葬られたということです。のちに教会には、主イエスは神であるのだから実際には肉体を持たなかったのだとか、神が死ぬなどということはありえないので「眠っていた」などという誤った教えが入り込むのですが、ヨハネは、聖書(旧約聖書)の示すとおりに、主イエスは確かに死んだのだと伝えています。そうでなければ、私たちの信仰はむなしいのです。


完了した

2015年04月03日 | 受難と復活

ヨハネの福音書 19章23−30節

 

 きょうは主イエスの受難の日です。イエスを主と信じる者たちにとっての出発地点は十字架、新しい歩みのすべてはここから始まりました。妻の祈りには常に、主の十字架の感謝があります。いっしょに頭を垂れつつ、忘れてはならないのは主の十字架だとの思いを新たにします。

 母マリヤに「そこに、あなたの息子がいます」、愛する弟子(ヨハネ)に「そこに、あなたの母がいます」と主イエスは十字架の上から言いました。きょうの「みことばの光」には、「黙想 …教会の一人ひとりを思い浮かべよう。私の母を、私の息子を…」とあります。しばらく静まっていると、共に礼拝し、仕えてきた人々が主の十字架がつないでくださった神の家族なのだという思いがわき起こってきます。

 感謝に堪えません。


押し出された人々

2013年03月30日 | 受難と復活
ルカの福音書23章44-55節


 昨日の受難日、日本では官庁や多くの企業が年度末の金曜日ということで、田舎町でも金融機関や道路はいつもより混んでいました。そして「桜渋滞」。今朝のウォーキングでは、公園の歩道に桜の花びらのじゅうたんが敷かれていました。

 イエスの十字架はそばにいた人々に様々な変化をもたらしました。きょうの箇所には、イエスを埋葬した人々の名も記されています。そのひとりがヨセフです。ヨセフについては、4つの福音書とも記しています。

 マタイの福音書は、ヨセフを金持ちで、イエスの弟子になっていたと紹介し、イエスのからだを自分が作った新しい墓に埋葬したと記します。
 マルコの福音書は、自ら神の国を待ち望んでいた有力な議員のヨセフが、思い切ってピラトにイエスのからだの下げ渡しを願ったと書きます。
 ルカの福音書では、議員のひとりで、りっぱな正しい人であり、議員たちの(イエスを殺害しようという)計画や行動には同意しなかったと記されています。
 ヨハネの福音書は、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れて自分が弟子であることを隠していたと紹介し、ニコデモとともにイエスのからだを埋葬したと書いています。

 十字架がヨセフを、そしてニコデモを押し出して、「ああ、あの人もイエスとともにいたのね」と指さされる者となったのです。
 
 みんなが一つの方向に流れていこうとする中で、しかもその方向が自分が大切にしているものとは正反対だとしたら、その中にいる自分はどのように考え行動するのだろうかと、ヨセフの姿を通して考えます。

    


思い出してください

2013年03月29日 | 受難と復活
ルカの福音書23章32ー43節


 受難日。「寒くないね」と目ざめました。教会の庭に一本だけあるひょろひょろしたアーモンドの花が満開。隣の桃の花に比べるとちょっぴり淡いピンク色です。 Img_0564

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
 「みことばの光」に、「この祈りによって、これまでどれほど多くの罪人がイエスを信じて救いを賜ったことだろうか」とあります。
 私もその一人です。

 1971年、大学三年の秋、日曜日の夜に近くの教会を訪ねました。
 教会で行われていた伝道会で、その晩牧師が語っていたのがこの箇所。「赦し」と言うことがいつも心にかかっていた私は、イエス・キリストの祈りに魅入られました。
 痛めつけられ苦しみの極みにある人が、痛めつけている人々のために「お赦しください」と祈る姿に驚き、違和感さえ覚えました。イエスは自分とは全く違う、と思ったのです。

 聖書もほとんど読まず、教会で何がなされるのかを調べもしない、はじめての私が、伝道会のあとに牧師の勧めでイエス・キリストを救い主として心に迎えました。「おめでとう」と言われても、何がおめでたいのかがよくわからずにアパートに戻りましたが、心には喜びがありました。

 イエスと共に十字架につけられた強盗の一人は、間近にイエスの態度を見、「彼らをお赦しください」とのことばを聞いて、イエスがどなたであるかを教えられ、自らの罪の大きさを思います。わずかの時間しかそばにいなかった彼が、どうしてイエスの真の姿を知ったのかは驚くべきことです。

 さらに、彼は「私を思い出してください」とのことばを口にします。イエスは、彼のことばにご自分への信仰を見て、救いを約束されました。
 これぞ福音!

  


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