日本の司法や行政の枠組みは「国民の権利保護」のための制度としてほぼ完璧に近い形で
整備されている。
残念ながら、それを現場第一線で運用する公務員の一部に「独占の上に胡坐」をかき、真摯に
使命を果たそうとしない輩も居て、落胆させられることが少なくない。
それは裁判官や検事も例外では無いようだ。

(矢車草は勝手に種を落とし、勝手に花を咲かせる。そんな手のかからない花が観光客の来ない
産直で健闘している)
しかし、「検察庁法改正案」に反対し、元検事総長ら検察OBが提出した意見書を読んで、
その認識を少し改めた。
なかなかの名文なので全文を紹介したいところだが、長文なので特に興味深かった3項と5項のみ
を紹介したい。

(最後に田植えをした田圃の水が無くなった。一ヶ月も雨が降らないとこんな状態になる)
「ロックは『法が終わるところ、暴政が始まる』と警告。心すべき言葉」
3 本年2月13日衆議院本会議で、安倍晋三総理大臣は「検察官にも国家公務員法の適用があると
従来の解釈を変更することにした」旨述べた。
これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を
変更したという宣言であって、フランスの絶対王政を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えら
れる「朕は国家である」との中世の亡霊のような言葉を彷彿とさせるような姿勢であり、近代国家
の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。
時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「政治二論」(加藤節訳、
岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。
ロッキード事件訴追可能にしたのは「捜査への政治的介入に抑制的な政治家たちの存在」
5 かつてロッキード世代と呼ばれる世代があったように思われる。ロッキード事件の捜査、公判に関与
した検察官や検察事務官ばかりでなく、捜査、公判の推移に一喜一憂しつつ見守っていた多くの関係者、
広くは国民大多数であった。
振り返ると、昭和51年(1976年)2月5日、某紙夕刊1面トップに「ロッキード社がワイロ商法 エアバス
にからみ48億円 児玉誉士夫氏に21億円 日本政府にも流れる」との記事が掲載され、翌日から新聞も
テレビもロッキード関連の報道一色に塗りつぶされて日本列島は興奮の渦に巻き込まれた。
当時特捜部にいた若手検事の間では、この降って湧いたような事件に対して、特捜部として必ず捜査に
着手するという積極派や、着手すると言っても贈賄の被疑者は国外在住のロッキード社の幹部が中心だし、
証拠もほとんど海外にある、いくら特捜部でも手が届かないではないかという懐疑派、苦労して捜査して
も造船疑獄事件のように指揮権発動でおしまいだという悲観派が入り乱れていた。
事件の第一報が掲載されてから13日目の2月18日検察首脳会議が開かれ、席上、東京高検検事長の神谷尚男氏が
「いまこの事件の疑惑解明に着手しなければ検察は今後20年間国民の信頼を失う」と発言したことが報道される
やロッキード世代は歓喜した。
後日談だが事件終了後しばらくして若手検事何名かで神谷氏のご自宅におじゃましたときにこの発言をされた時
の神谷氏の心境を聞いた。
「(八方ふさがりの中で)進むも地獄、退くも地獄なら、進むしかないではないか」という答えであった。
この神谷検事長の国民信頼発言でロッキード事件の方針が決定し、あとは田中角栄氏ら政財界の大物逮捕に至る
ご存じの展開となった。
時の検事総長は布施健氏、法務大臣は稲葉修氏、法務事務次官は塩野宜慶氏(後に最高裁判事)、内閣総理大臣
は三木武夫氏であった。
特捜部が造船疑獄事件の時のように指揮権発動におびえることなくのびのびと事件の解明に全力を傾注できたのは
検察上層部の不退転の姿勢。それに国民の熱い支持と、捜査への政治的介入に抑制的な政治家たちの存在であった。
国会で捜査の進展状況や疑惑を持たれている政治家の名前を明らかにせよと迫る国会議員に対して捜査の秘密を盾に
断固拒否し続けた安原美穂刑事局長の姿が思い出される。