周防教会・牧会ジャーナル

教会週報の裏面の記事を掲載しています。

5月26—29日

2021年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム

77kg近くあった体重が三週間で70kgを割っていた。ダイエットをした訳ではない。どうしても病院食が食べられなかった。何を食べても消毒薬の匂いがする。もしかしてICUに居る時、あまりの渇きでほんまに消毒薬を飲んだんかな?ああ早く吉野家の牛丼をおいしく食べられる日が来ますように。

 

5/26(水) 教会の玄関に点滅する緑色の光。ホタルや。もし僕が死んでいたとしたらこのホタルを見た人は「牧師が帰って来た」などと感動的なことを言うかもな。だがゴキブリを見てそう思う人はなぜかおらん。そこでや、もしも僕が帰って来るならばアシダカグモになって、皆をキャーキャー怖がらせたい。

 

27(木) 何故か自分のブログにアクセスできなくなっていたが大阪の智光君の助けで修復。突然ブログ更新が途絶えたので膨大な読者(推定では10人近くいるらしい)の間で「村田死んだ説」「村田失踪説」「村田ブログ書くのに飽きた説」が飛び交っていたのが解消。無事「村田死にぞこない説」が配信された。

 

28(金) 後から家族より聞いた話をつなげてみると僕の記憶が大きく違っていたことが分かる。倒れる前日、役員会を終えた頃から僕は体調不良を訴え早々と床についたらしいが、僕の記憶では日曜の夜遅くまで仕事をしていたと思い込んでいた。アイスも食べていたというが記憶には無い。そう言えば、カバン

 

29(土) に入っていたうちの来月分の生活費が消えている!明日からどうやって暮らせば・・・シクシク。どさくさに紛れてこう書いておきゃどなたか憐れんでくれるかも。実に低レベルなジョークやで。まあ、まだ心身ともに完全復活していないのでご勘弁を。しかしこの曲がった心が正常に戻ることは無いやろ。


臨時ジャーナル(闘病編)

2021年05月26日 | 日記・エッセイ・コラム

自分で見てもキショイ光景。左足から取った血管は今僕の心臓で活躍している。突然『牧会ジャーナル』を途絶えさせてしまってすみません。ちゅうか、謝ってもこれだけは仕方がない。以下のようなことがありました。

 

 

5/3(月) それは日曜の夜、床に入った時のこと。急に胸が痛み出し、息が出来なくなった。そのうち全身から発汗(まさかコロナ?)。異変に気付いた娘が「救急車呼ぼうか?」と声をかけてきた。しばし悩む。なぜなら頭に浮かんだのは恥ずかしながら銭の心配と近所を騒がせる不安。しかしこの痛みは尋常ではない「よ・・・呼んで」。近くの消防署からすぐにサイレンが近づいてきた。亀の里の住人たちが起きませんように。二階から担ぎ降ろされ、午前3時頃岩国医療センターに到着。けれどここでは対応できない旨の話が聞こえてきた。広島まで再搬送されるらしい。山陽高速道路を走り、到着したのは広島市民病院。オペ室まで続く天井を眺めていた。どうやらまだ生きている。病名は急性心筋梗塞。左心室が破裂。緊急開胸手術が始まったという。

 

8(土) それから6日間、呼吸器で生かされ続け、ICUで目覚めるまでの記憶はない。ただ、妙な断片記憶だけが残っている。俗に言う臨死体験てやつかも知れん。丸い真っ白な大扉の向こうに白い花畑が広がる。この大きな扉をくぐればあちらの世界やな・・・などと考えていた。それはそうと、先に死んだ婆ちゃんが「まだこっちに来たらあかん」とか言って追い返しに来るはずやが、婆ちゃんも爺ちゃんも親父の姿も無い。お前が決めなさいということか。扉には二度遭遇したが、三度目に現れたら入って行ったような気もする。「死ぬってこういうことか」と思うと、ちっとも怖くなかった。それよりも噂に聞く三途の川とやらを一度見てみたかったがどこを探しても見当たらない。ただ握っていたスマホで妻に詫びと別れのメールを何度も送信したのを覚えている。もちろん実際にそんなことできる筈がない。錯乱した脳の記憶に他ならない。

 

9(日)~17(月) 気が付くと ICU。ここでの日々が一番辛かった。大発汗の後、のどが渇いて仕方がない。二週間近く水分補給は禁止された。砂漠をさ迷う夢まで見た。そばにある消毒液まで飲みたくなる。それから毎日のように合法ドラッグによる幻覚を見る。映画よりリアル。病室の中も賑やかで、部屋の端と端ではサンダとガイラが兄弟ゲンカしており、隣ではチューバッカがハン・ソロを呼び、その向こうからは大屋政子のソプラノが聞こえる。レントゲン車が音痴な声でルイ・アームストロングの歌を歌いながら、焼き芋でも売りに来るかのように毎日やってくる。幻聴かも知れないが、とにかく僕は生きのびていた。

 

17(月)~25(火) 本来はICU(集中治療室)の次にHCU(高度治療室)を経由するらしいが回復が早いとかでいきなり一般病棟に移された。遮断されたICUに比べると病棟では外からひっきりなしに救急車のサイレンが聞こえてくる。それを聞くと自分が搬送された時のことが思い出され息が出来なくなる。裂けた心臓も潰れた肺も元に戻っているというのに苦しくなる。フラッシュバック。しかし教会のことはもちろん、高校のことも、保育園のことも、亀の里のことも、あらゆることがみんなの協力で対応されているという。今日退院となったが、この際やから、半年ほど軽井沢の別荘で療養生活を送らせてもらうことにしよう。いずれにせよ僕がいなくても教会はNo Problem.たくましい!

 

別荘?もしこれがジョークで無いとすれば、幻覚はまだ続いていることになるぞ。


4月25日—5月1日

2021年05月02日 | 日記・エッセイ・コラム

雲をかぶる高照寺山。500mほどのランチャー場からテイクオフする。一度だけ高度1350mを記録した。また飛びたいが20年以上放置しているハングのメンテをしなきゃいけない。それに今はパラが主流。ハングをやって飛行機が恐くなった。あんなでかい乗り物のメンテは大丈夫やろか?と考えてしまうのだ。

 

4/25(日) 大島の礼拝後、のあと世与(セト)にPayPayとやらをスマホにダウンロードしてもらった。二人が悩んだのは牧師という職業。登録する上での職業欄でどの職種に該当するかを悩んどる。僕もよく悩む。悩んだ上で選択したのは「専門職」(弁護士とか医師等)。それは違う。詐欺師という項目は無いのか?

 

26(月) 夕食時ほぼ毎回友佳とチャンネル争いをする。要はバラエティー番組が大好きな友佳と大嫌いな僕の仁義なき戦いである。その結果、いつも食卓は暗くて険悪な状態と化す。妻は「食事くらい楽しく食べたい」と嘆く。時には食欲が無くなるまでエスカレートする。食べ過ぎ防止の新ダイエット方法や。

 

27(火) 大阪で小料理屋をしている走野が帰省してきた。緊急事態宣言のもと店を休業して二年ぶりの里帰り。PCR検査も受けて来たらしいが、かと言って完全保証ではないので、滞在中は誰にも会えないし、会わないという覚悟の帰省。常にマスクをしたままでいる。まるで犯罪者をかくまっとるみたいや。

 

28(水) 久しぶりの岩徳線。二両編成の最後尾に座り景色を楽しもうと思ったが発車と同時に寝てしまう。気が付きゃ周りは高校生だらけ。ワンマンなので出口は先頭車両のみ。人をかき分け必死で降りようとしたら(何やこの親父)という目で見られた。「降りま~す!」と叫ばなくて良かった。ほぼ全員が下車。

 

29(木) 走野に会いに角田牧師一家が来会。最初は母親の啓ちゃんと中2で既に僕の身長を超した芽生(メイ)だけが来る予定やったが、走野が昼食を作ると聞いて、角ちゃんは仕事をほっぽり出し、昇平は大学のリモート授業をほっぽり出し、こぞってやって来た。ということはいつもの飯じゃ不満ちゅうことか。

 

30(金) 夕方走野を徳山駅に送る。アッと言う間の帰省やったがリフレッシュできたやろか。吉野家に寄って牛丼を買う。しかし店は一人で切り盛りしているらしく、兄ちゃんがてんやわんやの忙しさ。ここも人手不足か。そう言えば天語夫婦は今日石垣島を去り名古屋に転居する。名古屋の牛丼屋で働きなさい。

 

1(土) 今日は『茶摘み』の唱歌でも歌われる八十八夜。18で大阪を離れ、新幹線で東京に向かう途中、静岡を通過した時に見えた美しい茶畑を覚えている。思わず口ずさんだのは♪夏も近づく八十八夜♪。子供の頃「うちの婆さん八十八や」と歌った。「葬式も近づく白髪がはえる」こうして唱歌は歌い継がれる。