魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

カバー曲

2011年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム

カバー曲を、自分で選んでアルバムにする歌手の多くが、自分の生まれた前後の曲を歌うことが多い。
そして、多くが、元歌より良かったりする。

そうでない場合、青春時代の歌などもあるが、どうも、あまり上手いような気がしない。
大人になってからの歌というのは、自分が憧れていた歌だったりして、どうしても、元歌を壊せないのではなかろうか。つまり、元歌には勝てない。

ところが、生まれた頃の歌は、極端な話、胎内から聴いているし、物心つく頃の、言語の先生でもある。音もリズムも言葉のように聴いていたから、歌手の物まねではなく、言語として発音できる。
人間の言葉は、大人のマネで始まるが、モノマネではない。

人が自分の話し方をするように、幼児期に聴いた歌は、自分の言葉として歌えるようになるのではあるまいか。
もちろん、歌手としての技量も加わるから、さらに、いい歌になる。

この理屈で行けば、カバーアルバムを出すような歌手は30才以上だから、カバーヒットが出るのは、だいたい30年後ぐらいになる。
実際、ビートルズにしても、60年代生まれが自分達の歌のように思っているぐらいで、90年頃にブームが再来した。

しかし、赤ん坊も20年経てば、立派な歌手だから、先輩やプロデューサーなどの理解があれば、カバー曲の一発ヒットもある。

カバー曲のヒットには、もう一つの理由として、
「流行歌ロンダリング」とでも言うものがある。
30年も経てば、「古い」ということさえ忘れられる。
そこに、突然、今風のアレンジを加えた歌が聞こえてくると、大人には懐かしく、若者には新鮮に聞こえる。

これを占いで考えれば、当然、古さの価値を意味する土星が、同じ星座に帰ってくる周期と言うことになる。
30年前に流行った物に目が向けられる。(その星座の表す事柄で)

カバー曲は、30年物がヒットする。


覚悟しろ

2011年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、「覚悟」という言葉が流行っているようだ。
これぞ「土星現象」だ。
このブログを書き始めてすぐ、歴史を変える力が「覚悟」であることを、信長の言葉「是非に及ばず」に込められた覚悟として話した。

天秤座に土星が来れば、日本には歴史的決断が迫られる。
東日本大震災は、逃れられない天運であり、覚悟の時なのだ。
その空気が「覚悟」という言葉を流行らせているのだろう。
仏の顔も三度

今頃、「平時」の、政争やイチャモンの視点で、政治を語るような、マスコミ、政治家、官僚は、信長がいれば「焼き討ち皆殺し」にされるだろう。

歴史的視点で、「今、日本人は何をすべきなのか」を語る時だ。
昨日まで食べていたものが食べられない、出来ていたことが出来ない・・・ではなく、厳しい現実を見据え、これから何が出来るのか、どうすれば、厳しい未来で生き延びることが出来るのか。
それを語る時だ。

全く新しい方針を立てるには、既存の論理は、ひとまず引っ込める。
リニューアルのためには、先ず新規に置く物のレイアウトから考え、それから既存のものを調和させる。

ところが、年寄りというものは、もう使えなくなった、家具や鞄を捨てようとしない。いつまで経っても、新しく出来ないうちに、結局、全部まとめて捨てるしかなくなる。

日本人全員が、頭を切り換えなければならない。年寄りを助けようとして、若者が死んではいけないのだ。
若者は身体一つあれば生きていける。電気がなくても、石油がなくても気にすることはない。小さな可能性を本気で育てれば、次の時代に大きく育つ。
日本の再生は、日本人が初心に返り、若者として出直すことだ。

戦後の再来
今は、本当に戦後によく似ている。
町を失い、経済が傷つき、放射能に汚染され、仕事も無く、土地を失った人々が新しい入植先を求める。(引き揚げ者の開拓)
国の信用を失い、弱体化した日本に、韓国・ロシアが領海で敵対し、中国は周囲と国境を争い。アメリカが日本に肩入れする。

違うのは、中国の経済力だが、飛行機は急上昇すれば尻から墜ちる。
世界経済のためには、中国に頑張ってもらわなければ困るが、軍事国家中国に頑張られるのも困りものだ。

土星が天秤座に来るたびに、日本は再軍備への道を曲がってきた。
今回は、周辺国との領土問題と、災害出動による自衛隊の市民権獲得という辻を曲がった。(昭和古道、 大転換3

新しい時代に向かって出発する日本。戦後65年を参考に、同じ過ちは繰り返さないように、成長して欲しい。特に、昭和20年代は重要だ。


つぶやき

2011年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム

菅総理はようやくエネルギー政策の転換を、つぶやいた。

これに先立って、浜岡原発停止をなんとか中部電力に承諾させた。
原発反対には、当然、良いニュースだが、
経済界やマスコミなど、世の「分別のある」勢力からは、さまざまな理由を挙げて、反発、抵抗が試みられている。

抵抗勢力の言い分は、菅総理の態度に集中している。
「なぜ浜岡だけか」「唐突で密室政治だ」「電力不足をどうするのか」
「地元の経済をどうするつもりなのか」・・・
一見、もっともな言い分だが、圧倒的な福島の状況の前では、何の説得力もない。要するに、菅政権に対する感情的な反発にすぎない。

原発政策の張本人である、財界が不満を言うのは当然だとしても、
マスコミを中心とする、菅叩きは、いまだに「平時論」で騒いでいる。
言うまでもない、電気が足りなくなったら困るのは当然だ。
だから、手っ取り早い原発を、財界の金勘定だけで、国策として政治屋に推進させてきた。その結果がこれではないのか。

マスコミの仕事は、次の電気(時代)への問題提起だろう。
終戦の時もそうだったが、国策が破れた時の御用マスコミの醜態は、滑稽だ。何を言うべきか全くわからなくなっている。

三千世界のカラス
マスコミはいつの時代も、時流の最先端にとりついて、あたかも国民をリードする八咫烏を気取っているが、むしろ、行き先を誤らせることの方が多い。

原発事故の勃発時、「これは30キロ離れた映像です」のテロップには笑ってしまった。「私たちは無責任です」と言っているのだ。
そんなマスコミが、どの面下げて、菅叩きをできるのか。

この2ヶ月を見て、いまだにマスコミを信用する国民も少ないだろうが、マスコミが、芸能ゴシップレベルの仕事しかできなくなって以来。
そんなマスコミへの志望者自体が劣化した。

気分だけは、世の中の最先端だが、哲学にもとづく報道精神が全く無い。単なる上から目線の誹謗中傷が仕事だと思っている。
たとえば、早稲田閥だったNHKアナウンサーに東大卒が増えたこと一つとっても、マスコミ報道が、政官同様の機関になっている。

財界に動かされる政官と同じ体質なら、マスコミの話は逆に聞いても良いぐらいだ。こういう体質に、情報そのものを信用しない人もいるが、詐欺師や強盗からでも、情報は得られるものだ。

国策が破れたとは言え、終戦当時のように、公職追放をする権力がないから、軍閥、財閥、御用報道に囲まれた中で、違う方針を出すことは極めて難しい。不可能に近い。
そういう点で、菅政権には同情する。

しかし、震災後初の会見で「日本は必ず立ち直れる」と言いながら、声を詰まらせた情熱を信じて、一言だけ言いたい。

新エネルギー政策の意図はよく解るし、空宣言できないリアリストだと言うことも知っているが、

たとえ、難しくても、声高らかに、夢を語り、国民を鼓舞し、実現に向かわせるのも、リーダーの仕事というものではないでしょうか
つぶやき直人さん


禁止解放

2011年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム

今日もまた、小学生の登校の列に車が突っ込んだ。
先日の病気持ちのクレーン運転手は特殊としても、朝の登校の列に車が突っ込むことは、年中行事のようにある。

朝の運転は危険きわまりない。
寝起き3時間ぐらいは、脳がまともに機能していないから、受験生は3時間前には起きろ。と、昔は定説だったが、今はどうだろう。

受験生でなくても、寝起きにトンチンカンなことをして、自分で吹き出した経験のある人は少なくないと思う。
そんな状態で、時間に追われて、飛び出したのが朝の車だ。そして、多くの運転手は遅刻を気にして焦っている。
その上、近頃は、連絡のために携帯をかけたり、メールを打ったりする。運転中の通話でも危険が証明されているのに、メールとなれば、論外だ。

禁止論
こういう状況に、世の中にはすぐ「禁止」論が出て来る。
どんなことでもそうだが、「禁止」を考えるのは、日頃、抑圧された不満の憂さ晴らしだ。「自分は我慢しているのにけしからん」と、他人を抑圧したい願望が「禁止」論になる。

ところが、意外にも、「禁止」論を主張する人が起こす反則は多い。
つまり、もともと、横暴に生きたい人だから、我慢することに不満を感じる。だから、チャンスがあれば人を押さえつけたいのだ。
同じ心理は、ネット上の炎上で、自分をコントロールできない心の貧困が引き起こす。

世間で、「禁止」論を出す人は、警察や教師など、取り締まる職業に多い。職業柄そういう不満がたまるのか、始めから、抑圧心理を抱えた人だから、そういう職業に就きたがるのか、ニワトリと卵だ。

占いでもそうだが、相談を受けていると、
「何を我慢したらいいでしょう」と言う人が少なくない。
確かに、昔の人生相談は「業だからあきらめなさい」とか、「親の因縁だから償いなさい」とか、「あなたの前世の行いが悪いからだ」とか、封建社会の維持を前提とした、抑圧論だった。

解放論
しかし、人間解放を目指す現代では、全く通用しない話だ。
解放された人間による、調和した社会は、各々が自分を知り、社会を認識しながら、最も自分に適した生き方を探ることで、自他共に活かすことが望ましい。

問題の「封印」ではなく、適切で有効な方向に、「発散」させる事が、個人にも社会にも有益だ。誰でも同じ事をしようとするから問題が起こる。朝型の人は朝の仕事を、夜型の人は夜の仕事をすればいい。
速く走るだけがヒーローではない。立ち止まってじっくり観察するのに長けた人もいる。

登校児童に突っ込む車の事故を避けるには、スクールバスや、通学路の通行止めもあろうが、出勤、登校の時刻をずらしてはどうだろう。
わずか30分早ければ、朝の道はガラガラだ。子供の方が真面目だから、すぐ慣れる。それに、子供の頃は早出で、大人になったらゆっくり出勤は、大人になる楽しみが増える。

でも、子供の列に突っ込むのが、先生の車ではどうしようもない。


異国の風

2011年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム

かねがね思うことだが、このところ、つくずく思う。
閣僚や、少なくとも総理大臣には、絶対的に海外体験が必要だ。
明治の日本を導いたのは、長期の海外視察や海外留学で、異国の空気を吸った連中だった。

もちろん、吉田茂も田中角栄も、異国を知っていた。戦後の成長期は復員兵や駐留外人兵も含めて、いやでも異邦人に接し、良いところも悪いところも見たし、疲弊した国内から、海外に目を向けることが希望の道だった。

ところが、日本が経済大国になると、海外に対する意識が逆転した。
海外は、ゆとりを持って遊びに行くところであり、経済進出は消費や労働力の対象で、相手から学ぶところではなくなった。

しかも、逆に海外から関心を持たれる対象になると、不都合な相手や文化の違う相手を、見下げて受け入れなくなり、都合の良い相手だけを受け入れるようになった。

昔と比べ情報や交通は発達し、異邦人、異文化と接する機会はむしろ増えてはいるが、異文化に対する、恐れも尊敬もなくなり、本当に相手を知ろうとはしなくなった。

アニメ、日本食、クールジャパンなど、耳障りの良いことだけを聞きたがり、海外には、援助や協力などと、気分の良いことだけで出かけようとはするが、海外から「何か得てこよう」とする意識が無くなった。

日本全体が、金持ちの斜陽、「唐様で書く三代目」に陥っている。
原発事故の大事件で、海外の目に対する配慮がない一方で、海外の風評に踊らされる。
これは、日本人が自分は人気者のはずだと、高をくくっている反面、お体裁だけは気にして、他人の言動に右往左往する、プライドだけのいい子チャンになっているからだ。

過去の実績の名誉だけにすがり、自立心と生意気さを取り違えて、鼻持ちならない国民になろうとしている。
災害対応で世界中を驚かせた美点は、一歩間違えば、侮蔑になりかねないことを、どれだけの日本人が心得ているだろう。

少なくとも、際だって世界と違う点があることは、そこが非難の対象になりやすいと言うことだ。

日本人が、異文化を、あるがままに直視する姿勢と、何事にも動じない信念を持てるかは、一人一人の、好奇心と謙虚さ、自立心にかかっているが、
何よりも大切なことは、リーダーの国際感覚だ。
異文化と付き合うには、仲よくなるための喧嘩ができなければならない。いい人だけでは決してモテない。

しかし、海外体験さえあれば良いかと言えば、そうではない。
何と言っても、個人の資質が大前提だ。長い海外留学で物事をハッキリ言うパフォーマンスだけ憶えても、肝心な、仲直りの方法を知らなければ単なるトラブルメーカーだ。

内向き指向の若者は、強制的にでも海外体験をさせる必要がある。就職条件や履修単位に入れるなど、嫌でも外国に接するきっかけがあれば、若さでむしろ、勝手に溶け込んでいく。
人間力を磨くには、徴兵制で鍛えるより、よほど効果的だ。しかも、真の愛国心が育つ。

「かわいい子には旅をさせよ」


食即是色

2011年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム

焼き肉と言えば、昔懲りて以来、韓国料理と名のつくものは一切口にしない。
だいたい、食に関しては至って淡泊で、美味い不味いは分からなくもないが、名物や旬には一切こだわらない。ましてや、グルメがどうのと、行列に並んだり、大枚をはたく気にはならない。

美味いと言われるものを食べて、悶絶する人などいるのだろうか。
何事も、一定の水準以上は、付加価値であり、それを食べることで、脳に味とは別の満足感が生じるのではあるまいか。
食のブームとは、「こんなの初めて~」と歓喜したい、亡者の夢にすぎない。早い話、味などどうでも良いのだ。

商売上手のことを、「エスキモーにアイスクリームを売りつける」と言う。アイスクリームは、ただの氷ではないから、エスキモーが食べても不思議ではない。それなりの価値がある。
しかし、本来捨てていた物を、高級品に変えて売りつけるのは、無駄を無くす創意工夫ではあるが、一面、悪魔のごとき商魂でもある。

佃煮や漬け物が、何であんなに高いのか。毒で食べられなかったふぐや、誰も食べなかったトロを、何で皆が食べたがるのか・・・
深海魚や、ワケのわからない下手物が、いつの間にか高級料理になる。

うがって考えれば、すえた酒をありがたがって飲むのも、誰か口のおごった偉い人の猟奇趣味をまねて、「こういう味が美味いのだ」と、思い込んでいるだけかも知れない。
王様が裸で歩けば、それがニューファッションになるように。

日本料理の道
食やファッションは、文化そのものだ。
文化という舞台装置の、光や音に惑わされて、喜怒哀楽をかき立てられ、美味しいと思い、素敵と騒ぐ、色即是空の最たるものだ。

それはそれで、人の営みの価値だから、楽しめばよいと思うが、のめり込むようなものではない。ファンタジーを楽しんでも、本来の立ち位置を忘れては、楽しみは、むしろ苦しみに変わる。酒に飲まれては不味くなる。

楽しみは、控えめでバランスが取れてこそ楽しめる。ビビッドで分かりやすい刺激は、飽きが来る。
日本料理の価値は、シンプルで薄味であり、素朴に見えて、飽きが来ないところに、奥の深さがある。

それは、日本の美意識であり、粗野で荒くれな文化からは、理解しがたいものだろう。
外国人の多くが、初めて本当の日本料理を食べた時「何じゃコリャ、ちんけで、味も量もない」と思うそうだ。信長も京料理に腹を立てたという。

「食は胃を満たすもの」と考えればスカのよう見えるが、日本料理は総合文化だ。あらゆる要素が、相互に主張しないバランスがあってこそ成り立つ。
したがって、饒舌な評価もまた、バランスを傷つけるものであり、グルメブームなどの喧噪は、その時点で、すでに道を踏み外している。

淡々と生活を楽しむ、たしなみのバランスが、日本的食通のありようなのだろう。

門外漢にはわからない


渡来海峡

2011年05月07日 | 星の流れに

生肉食中毒は、ビンラディン殺害と同じ、魚座の終焉現象だろう。
イスラム・テロが過去10年、世界を席巻したように、魚座関連は絶好調だった。

サソリ座の韓国も、当然、絶好調で、経済は日本をしのぎ、韓流ブームで、日本にも韓国料理が席巻していた。郊外を走ると、ここは何処の国なんだと思うほど、ハングルがあふれ、焼き肉や韓国料理の店が乱立している。

行ったことがないから、何が食べられているのか知らなかったが、肉の生食もブームになっていたらしい。
今回の焼き肉チェーン店は、本社も経営者も「」の魚座。
名前も「えびす」で魚座。サソリ座との相性はいいから、絶好調だったのだろう。
ところが、これまでの絶好調が、一転、どん底に陥った。

しかし、これは単に、焼き肉屋だけの問題ではない。
ネットビジネスの、行き過ぎが大きく関わっている。
ビジネスがサイバー化することによって、肝心な人間の持つ技術の部分が忘れられてしまう。「人間力」の欠落がおこっている。

情報のつじつまさえ合えば、人間の行為が機械的に行われるはずだという、油断が起こる。
絶好調の焼き肉チェーンは、ネット売買による肉の卸し購入を行い、人と人が対面で、調理の現場を想定した交渉をしていなかったと思われる。

飲食店の基本は調理場だが、強引なチェーン展開のつじつま合わせのしわ寄せが調理場に行っていたようだ。
本来、生肉メニューのようなきわどい食品を提供する店は、調理人のプライドにかけて、厳しい管理技術で見極めて調理することを前提としている。

ところが、チェーン展開を容易にするために、安全管理を肉の卸業者に依存するような「合理的」な経営をして、飲食業の基本を失念させていたし、また、ネット売買という新時代のツールがそれを可能にした。

時代環境が変わる中で、必ず行き過ぎの調整が必要になる。
肉の生食提供に関する規制や罰則が新しく設けられることになるが、
これは終戦後に始まった、フグ調理資格の条例に匹敵する。

キワモノ食いが、一般化すれば、それに基準を作らなければならないと言うことだが、フグにせよ、生肉にせよ、またも玄界灘のあたりから広がってきた。
日光東照宮の権現様のように、西をにらんでいなければいけない。


世間様々(2)

2011年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の「世間様」はいつ頃現れたのだろう。
世間様の代表である、「長老」は、モンゴリアン特有のものではないだろうか。

映画などで見ると、アメリカ先住民の意志決定は、車座になって煙草を吹かしながら、酋長より、長老やシャーマンの意志が強く働くような印象がある。実際はどうか知らないが、白人から見ると奇異な印象があったから、そういう場面が多く撮られのだろう。

モンゴリアンの「長」は、決断実行のリーダーではなく、皆の思いを代行する存在と言える。だから、決断に責任が無く、かつその決断を誰も止められない。

インカ帝国滅亡も、中華王朝のような、形式主義的な王朝の衰退期に、ヨーロッパ式の合理的な戦術と武器にかかって、簡単にやられた。
アヘン戦争も、似たような理由だが、大陸続きの清は、インカより世間を知っていた。

ジェロニモなど、白人に抵抗したアメリカ先住民の英雄も、「長」ではなく、戦士のリーダーだ。
戦士のリーダーが「長」になる欧米社会と比べれば、アメリカ先住民は、やはり、アジアのモンゴリアンに通じる。

インドは白人系だから、仏教は釈迦個人の説得力に皆が従ったが、東アジアに入ると、仏を個人とは見ない大乗仏教に変わる。
大乗経典の仏は、黙って存在している。
アジア的な「長」は、皆の思いを受け止める、仏像のような存在でなければならない。

しかし、中国は、周辺のアジアと違い、「長」は「道理」に従って行動する「長老原理主義」のような儒教が栄えた。

干支術でもそうだが、中国は、西洋星占術の様な科学的?なモノを、「要するに・・・」と、合理化してしまう。
儒教も、モンゴロイドの情緒的な自然観を、合理化、形式化して、「道理」としたものだ。

最近、古代の中国人のDNA調査によると、古代中国人は白人系だったという説があった。確かに、周辺の言語と比べ、中国語は英語的だ。
モンゴロイドの「長」の感覚を持たないで、専制的なリーダーが、天の道理に従うなど、東西の折衷的な位置にある。

中国には「世間様」のような、曖昧な意志決定は無いが、中間の朝鮮半島は、「世間様」と「長老原理主義」が混乱しているので、「長」でなければ犯罪者になる。だから、金正日も簡単には辞められない。

こう見てくると、日本の「世間様」は、むしろ、モンゴロイド本来の姿であり、大乗仏教と天皇の確立によって、より、安定的に根付いたのではあるまいか。

大乗仏教の、人が仏になる可能性の追求は、人間を肯定するとともに、意志決定の無意味を認識させる。天皇という、責任を取らない最終責任者である「長」の存在によって、日本人は安心して「世間様」に身をゆだねてきたのかも知れない。


世間様々(1)

2011年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム

連休は意外にも、大変な人出となった。
「自粛してはいけない」と、日本中が出かけた。

強制でも、興奮でもない。
政府の働きかけや、観光業界の努力もあったとは言え、
大局を理解して、日本のために行楽に出かける。
日本人は素晴らしい・・・思わず涙が出る

しかし、これはもともと、「自粛」という日本独特の、世間をおもんばかる現象の、裏返しでもある。
悲劇にショックを受けて落ち込むのは、どの国でもあるだろうが、
仮に「元気になろう」と言うことになれば、「そうだ」と、元気になれば良いだけだ。

日本の場合は、他人の目を気にする「自粛」から、元気にならなければならないという「大義名分」を必要とし、それから、元気になる。

考えようによっては、日本人の思考は、それだけ複雑で高度と言うことになるかも知れないが、実は、これが日本の「誰も責任を取らない社会」の仕組みだ。

他人にどう思われようが、自分の思想や感情に基づいて、行動する他国と違い、日本は「世間様」に基づいて生きている。
自粛するのも世間様への気遣いなら、ガンバって「元気になる」のも、世間様のコンセンサスに基づいてだ。

だから、世間様の威を借りて、「不謹慎だ」と言うのはとても気楽に言えるから、個人攻撃がすぐ始まる。
逆に、世間様に逆らって、「自粛反対」を唱えようと思えば、天に向かって独り言のように「私は自粛反対です」と言わなければならない。
または、隣の人に耳打ちをする。

多くの人が「自粛反対」と天に叫んでいるうちに、世間様も「自粛はいけません」と言うことになる。
ある意味、とても民主的な風土だが、リーダーは現れない。

つまり、リーダーが自分の責任において引っ張ろうとしても、世間様がそれを許さない。リーダーたる者は、突出した意見を言うから、もみつぶされる。
その結果、世間様による意志決定で、集団が動くから、責任者がいないことになる。

外国の長は、責任者としてのリーダーだが、日本の長は、天之御中主神のように黙って座っている、長老や稚児のような存在だ。

日本では、外国のリーダーのように、責任者として行動しようとすれば一斉に、こき下ろしが始まる。


詐欺恐喝

2011年05月04日 | 日記・エッセイ・コラム

ソニーが情報漏れ。
だから、「集めるな」と言ってきた。
情報を集めることを当然と思うな、と言ってきた。
セキュリティー云々と言うが、人間のすることに絶対はない。
始めから、情報は漏れることを前提で、ビジネスモデルを考えるべきだ。

これは、原発と全く同じだ。
便利さという目的のために、手段を軽んじ、しかも手段の巧妙さに酔って、人間の基本的な常識、五感の認識を忘れる。
ちょっと普通に考えれば、分かる損得が、分からなくなる。

将棋の対局ばかりを考えていると、将棋盤をひっくり返せば成り立たない世界であることを忘れる。

原発は文字通り、津波にひっくり返されたし、ソニーは裏から侵入された。
原発は原発でなければならない理由はなかったが、原発の便利さで発電して、オール電化を仕掛けて売るほど、悪ノリしていた。
ソニーは本当に必要でもない情報を集め、クレジット課金などに依存していた。

ソニーだけではない。情報収集する企業は、自分の企業のために情報収集している。しかも、サービスや使用許諾というユーザーの弱みを形にとって、問答無用で情報を「収奪」する。

この個人情報収集は、原発が詐欺なら収集は恐喝だ。長年、何で世間の人は何の疑いもなく応じるのか、腹は立たないのか、不思議でならなかった。

日本企業とはいえ、トヨタとは違い、ソニーはアメリカかぶれしている。グローバル企業の当然みたいに情報収集する企業は、グローバル企業として大きな代価を支払うべきだ。

原発と同じで、計り知れないダメージになるだろう。
現在、安易に情報収集している企業は、これを他山の石として、
最低限の情報収集で済む、ビジネスモデルに転換すべきだろう。

そんな方法はないと、本気で思うなら、相談に乗りますが・・・


ビンラディン

2011年05月03日 | 星の流れに

月末の土曜日から、月が牡羊座で、水・金・火・木と、
5惑星が牡羊座で、天秤座の土星と180゜山羊座の冥王星が加われば、90゜×90゜の、「T」スクエアになる。

いかにも、地震でも起こりそうだが、意外に、絵に描いたような角度では、天変地異は起こらない。起こるとすれば、むしろその前後だ。(今回は太陽も加わってない)

絵に描いたような角度(座相)で起こるのは、人間の起こす事件だ。
土曜日以来、韓国でバスの衝突事故が起こったが、他には大した事件がないなと思っていたら、「オサマビンラディン殺害」のニュースが飛び込んだ。これぞ、まさに人間の起こした事件だ。

この決断は、オバマ大統領が下したのだろう。
牡羊座に惑星が集中すれば、獅子座のオバマ大統領には大吉になる。
さらに太陽が牡牛座だから、手柄を急ぐ。
情報にしたがって決断をしても、歴代の大統領が、成功ばかりだったとは限らない。むしろ、失敗の方が多かった。だから、オバマ大統領にとっては、会心の大成功と言える。

しかし、世相史観でこの意味を考えると、ある種の当然だ。
天王星が魚座に入って、911の宗教戦争が始まり、
天王星が牡羊座に入って、311から世界に新時代の模索が始まった。

311東日本大震災は、911に続いて、世界を動かす大事件だ。
一方、北アフリカで起こった革命は、むしろ、イスラムの宗教改革につながっていくだろう。

過去10年が天王星によるイスラムショックだったのに対し、海王星魚座入りの影響が、宗教自体の改革につながるものと考えられる。
これから、牡羊座の天王星とも相まって、世界的にも「生きる」ということが考えられるようになり、哲学や信仰心が高まるだろう。

ところで、同じ日、天皇賞はヒルノダムールだった。
天秤座の土星が上昇で、金星と180゜。
ヒルノは冠名だが、英語なら「丘」で土星。アムールは「愛」で金星。
単勝なら当たったが、組み合わせは外れた。買わなくて良かった。
商才がないから、また、連勝を買っていたにちがいない。


大人目線

2011年05月02日 | 大転換

中国が裕福になると、中国でブランド物が飛ぶように売れる。
日本でもそういう時代があったし、いまだに買いたがる人は少なくない。

ブランドとは、産業革命パラダイムに生まれた、大量生産製品の品質保証であって、芸術家や名工の一品ではない。
しかし、何はともあれ、産革パラダイムは、社会に平等をもたらし、誰もが高度な品々を享受できる王侯貴族のようになった。

天王星・牡羊座時代には、そのブランド志向が消える。
実際、一頃の様に、高ければ良いと言うだけで買われなくなったし、アウトレットなどの、反ブランドの流れが起こり、世界的なブランド会社も離合集散している。

牡羊座は、裸(ゼロ)からの出発だから、既成の価値観が捨てられ、新しい価値の創造が始まる時だ。
ブランドの消滅は、次のブランドの生成という場合もあるが、今回の牡羊座の天王星は、産革パラダイム250年の大転換と絡んでいる。

前回の大正から昭和にかけての頃のように、鉄道とデパートによる、大量消費を背景とした価値の生成ではなく、
「情報と認識」「ネットワークと多様性」のような、脱大量消費と知的な憧憬が、新しい価値観になっていくのではあるまいか。

ギリシャ時代の美意識や、ルネッサンスのように、物が飽和状態になった後は、知的な追求が始まる。

ブランド志向とは、渇望感や欠乏感に囚われていた人達が、突然物に取り囲まれた時、何を求めていたのか分からなくなり、満腹にもかかわらず、何かを食べようとする行為。つまり、フォアグラ症候群、飽食症候群とも言える、一つの病気だ。

不景気や大災害で熱が冷めると、ハシカが治ったように、一つの文化が大人に成長する。

先進国は、工業生産、好景気、大量消費の産革パラダイムのハシカから目覚めて、次のステージに成長し始めているが、新興国と言われる地域は、ハシカの熱にうなされている。

先進国が大人になり始めているのを、衰退していると見て得意になっているが、彼らに説いて聞かせても、聞く耳は持たない。
殊に中国などは、いつ事件を起こすか、危なっかしくて見ていられない図体のでかい若者だ。

こんな若者相手に、ムキになっては怪我をする。うまく交わすのが大人の智恵というものだ。

大人には大人の生き方がある。次の時代の価値観創造に向けて、いつまでも、大きさや力自慢をしていないで、美しく賢明な、一歩先を行く大人の価値の創造に向かいたい。


新しき酒

2011年05月01日 | 日記・エッセイ・コラム

阪神大震災は復旧に10年かかった。
今回は「震災」ではない。
天災、人災、外寇が、まとまって来た「国難」だ。

「国難」は、その後の国のあり方を変える。
「白村江」「元寇」「黒船」「敗戦」・・・
いずれも、その後の、日本の社会体制を抜本的に変えた。
何十年とか、歳月で計れるような、問題ではない。
もう、ここが新しい時代の出発点と、心得なければならない。

そして、おそらく、これは日本だけに収まらない。
満を持していた、産業革命パラダイム、大転換の引き金が引かれた。
ドミノの一枚目が カタリ と、倒れたのだ。

冥王星の周期、過去250年は、資源の垂れ流しの時代だった。
燃焼エネルギーを前提とするパラダイムが、地球の隅々まで行き渡り、そこからの脱却など、誰も想像さえできなかった。

小さなほ乳類が現れても、巨大恐竜は、気にもとめなかった。
隕石衝突後に生き残るのは、ほ乳類であるとは、ほ乳類さえ知らなかった。
「日本の国難」は、人類の晴天の空に現れた、ほんの小さな異変だ。これが徐々に広がり、隕石の全貌が見えた時は、もう手遅れだ。

自然エネルギー、再生可能エネルギー、呼び方などどうでも良い。
生き残るのは、巨大恐竜ではない、弱小ほ乳類の戦略だ。
今はバカにされている、さまざまな技術や発想が、今後大きく進化する。巨大恐竜は、隕石が来なくても、滅ぶ運命にある。

資源消費である限り、原発もメタンハイドレードも、滅びる恐竜だ。
次の時代は、弱小戦略から身を起こした者だけが生き残る。

日本の幸運
日本を表す天秤座は、「何となく幸運」な星座だ。いま、星の配置は天秤に最悪で、どこにも救いがない。どうなることかと思う。
ところが、これが日本の幸運につながる。

天王星が牡羊座。新しい時代の始まりだ。
「新しき酒は新しき革袋に盛れ」と言う。
新時代は、過去の勝者より、ゼロから始める者が成功する時代だ。
第二次大戦で、ゼロになったドイツと日本が、戦後、最も成功したのも、それまでの旧弊を一掃できたからだ。

日本がこれで本当に目覚め、荒野から出直すつもりになれば、
衰退を待つだけだった過去の勝者が、白紙のチャレンジャーになって再出発できる。
半世紀後には、新エネルギーと、新しい価値のリーダーになっているかも知れない。

ただし、あくまで、本当に目覚めればの話だが、
過去を夢見る原発推進論者が60%もいるようでは、いまだ、白紙とは言えないのかも知れない。