魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

世間様々(1)

2011年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム

連休は意外にも、大変な人出となった。
「自粛してはいけない」と、日本中が出かけた。

強制でも、興奮でもない。
政府の働きかけや、観光業界の努力もあったとは言え、
大局を理解して、日本のために行楽に出かける。
日本人は素晴らしい・・・思わず涙が出る

しかし、これはもともと、「自粛」という日本独特の、世間をおもんばかる現象の、裏返しでもある。
悲劇にショックを受けて落ち込むのは、どの国でもあるだろうが、
仮に「元気になろう」と言うことになれば、「そうだ」と、元気になれば良いだけだ。

日本の場合は、他人の目を気にする「自粛」から、元気にならなければならないという「大義名分」を必要とし、それから、元気になる。

考えようによっては、日本人の思考は、それだけ複雑で高度と言うことになるかも知れないが、実は、これが日本の「誰も責任を取らない社会」の仕組みだ。

他人にどう思われようが、自分の思想や感情に基づいて、行動する他国と違い、日本は「世間様」に基づいて生きている。
自粛するのも世間様への気遣いなら、ガンバって「元気になる」のも、世間様のコンセンサスに基づいてだ。

だから、世間様の威を借りて、「不謹慎だ」と言うのはとても気楽に言えるから、個人攻撃がすぐ始まる。
逆に、世間様に逆らって、「自粛反対」を唱えようと思えば、天に向かって独り言のように「私は自粛反対です」と言わなければならない。
または、隣の人に耳打ちをする。

多くの人が「自粛反対」と天に叫んでいるうちに、世間様も「自粛はいけません」と言うことになる。
ある意味、とても民主的な風土だが、リーダーは現れない。

つまり、リーダーが自分の責任において引っ張ろうとしても、世間様がそれを許さない。リーダーたる者は、突出した意見を言うから、もみつぶされる。
その結果、世間様による意志決定で、集団が動くから、責任者がいないことになる。

外国の長は、責任者としてのリーダーだが、日本の長は、天之御中主神のように黙って座っている、長老や稚児のような存在だ。

日本では、外国のリーダーのように、責任者として行動しようとすれば一斉に、こき下ろしが始まる。