魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

禁止解放

2011年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム

今日もまた、小学生の登校の列に車が突っ込んだ。
先日の病気持ちのクレーン運転手は特殊としても、朝の登校の列に車が突っ込むことは、年中行事のようにある。

朝の運転は危険きわまりない。
寝起き3時間ぐらいは、脳がまともに機能していないから、受験生は3時間前には起きろ。と、昔は定説だったが、今はどうだろう。

受験生でなくても、寝起きにトンチンカンなことをして、自分で吹き出した経験のある人は少なくないと思う。
そんな状態で、時間に追われて、飛び出したのが朝の車だ。そして、多くの運転手は遅刻を気にして焦っている。
その上、近頃は、連絡のために携帯をかけたり、メールを打ったりする。運転中の通話でも危険が証明されているのに、メールとなれば、論外だ。

禁止論
こういう状況に、世の中にはすぐ「禁止」論が出て来る。
どんなことでもそうだが、「禁止」を考えるのは、日頃、抑圧された不満の憂さ晴らしだ。「自分は我慢しているのにけしからん」と、他人を抑圧したい願望が「禁止」論になる。

ところが、意外にも、「禁止」論を主張する人が起こす反則は多い。
つまり、もともと、横暴に生きたい人だから、我慢することに不満を感じる。だから、チャンスがあれば人を押さえつけたいのだ。
同じ心理は、ネット上の炎上で、自分をコントロールできない心の貧困が引き起こす。

世間で、「禁止」論を出す人は、警察や教師など、取り締まる職業に多い。職業柄そういう不満がたまるのか、始めから、抑圧心理を抱えた人だから、そういう職業に就きたがるのか、ニワトリと卵だ。

占いでもそうだが、相談を受けていると、
「何を我慢したらいいでしょう」と言う人が少なくない。
確かに、昔の人生相談は「業だからあきらめなさい」とか、「親の因縁だから償いなさい」とか、「あなたの前世の行いが悪いからだ」とか、封建社会の維持を前提とした、抑圧論だった。

解放論
しかし、人間解放を目指す現代では、全く通用しない話だ。
解放された人間による、調和した社会は、各々が自分を知り、社会を認識しながら、最も自分に適した生き方を探ることで、自他共に活かすことが望ましい。

問題の「封印」ではなく、適切で有効な方向に、「発散」させる事が、個人にも社会にも有益だ。誰でも同じ事をしようとするから問題が起こる。朝型の人は朝の仕事を、夜型の人は夜の仕事をすればいい。
速く走るだけがヒーローではない。立ち止まってじっくり観察するのに長けた人もいる。

登校児童に突っ込む車の事故を避けるには、スクールバスや、通学路の通行止めもあろうが、出勤、登校の時刻をずらしてはどうだろう。
わずか30分早ければ、朝の道はガラガラだ。子供の方が真面目だから、すぐ慣れる。それに、子供の頃は早出で、大人になったらゆっくり出勤は、大人になる楽しみが増える。

でも、子供の列に突っ込むのが、先生の車ではどうしようもない。