魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

浮世風呂

2011年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム

礼儀作法
銭湯が好きで、スーパー銭湯によく行く。だだっ広い開放感がいい。
人間を観るのも、動物園の猿山のようで面白い。
もちろん、自分もサルの一員なのだが・・・

昔の銭湯の作法、というか常識は、タオルで前を隠すことだったが、近頃、前を隠している人をあまり見かけなくなった。
外人も良く来ているが、当然、隠していない。

しかし、地域や年代によっては、隠している人が多い時もある。
以前、80代の女の人が、近頃の子は前を隠さないと、呆れているのを聞いたことがある。女風呂も似たような状況らしい。

誰も隠していないような洗い場で、一人だけ恥ずかしそうに前を隠して歩いていると、かえってみっともない。前を押さえて歩けば、どうしてもへっぴり腰になり、おかまスタイルになるからだ。

しかし、何時から昔のしきたりが薄れ、前を隠さなくなったのだろう。
一つ考えられることは、内風呂が普及して、修学旅行のお風呂も入れないぐらい、公衆浴場に疎遠になった。

そこに、銭湯ブームや温泉ブームが起こって、外人と同じように、初体験として銭湯に入るから、礼儀として前を押さえるようなことは知らない。みんなも隠してないから、隠さないのが当たり前になる。
・・・そういうことかも知れない。
しかし、もう一つの別の理由だとしたら、もっと大きな問題だ。

知識は解放
前を隠す。つまり性器を隠す事が常識であった時代。日本人はむしろ、肌の露出に羞恥心がなかった。男はフンドシ、女は腰巻きでもろチチが普通で、誰もおかしいと思わなかった。ほとんど露出しているから、股間だけが、重要な局所として特別視された。

これは、気候の変化の影響もあり、時代によっては、全体を隠している時代もあれば、露出が普通の時代もあった。また、古代日本の支配層の服装から見れば、やはり、寒い国から来たと考えられるが、基本的には日本人は温帯、亜熱帯の海洋民俗であり、肌の露出が当たり前で、それにともなう性器フェチになったと思われる。

だから、みんなが裸で入る風呂も、大切な所は恥ずかしいから隠し、それが礼儀となった。まして、混浴が普通だっただけに、それは必要な礼儀だったのだろう。

こうした、こだわりは、因習の常識として身につく。
因習に囚われるのは、社会が閉鎖的で、価値観が固定化されているからだが、原始的であるほど、世界が狭く、集団の価値観を絶対と信じ、「恥」や「畏れ」から逃れられない。

しかし、他の集団から見れば、全くどうでも良い問題だ。
また、教養が高くなると、多様な視点を知ることになり、こだわりが薄くなる。その結果、情報の多い現代の日本人は、前を隠す事の必然性を感じなくなり、「威風堂々の風呂マナー」になったのだろう。

日本文化が評価されると、風呂文化にも関心が持たれるようになり、欧米人は文化体験として憧れるが、中国人は混浴だけを妄想する。
この差は結局、知識や情報の、量と接し方の違いであり、教養レベルの差が思考に現れる。

日本人も、半世紀前まで(今でも)異文化にさまざまな妄想をしたし、終戦直後、日本に来た米兵は、温泉に入って、
「パンフレット写真の、女の人がいない!」と、怒ったそうだ。

人心の砂状化
羞恥心や礼儀作法のような、価値観の変化は、知識、情報、教養のレベルが高くなるほど曖昧になり、こだわりが無くなる。
礼儀作法を形でうるさく言うことは、因習であり、真の礼儀は思いやりが優先し、形にはこだわらない。形は文化背景で違うからだ。

民俗や国家という、概念や立前は、知れば知るほど、曖昧で、かりそめのものであることが解ってくる。
一面だけの情報で、概念ができあがっていると、その概念を前提に、さまざまな論理が成り立ってしまう。

その結果、「反国家的」「売国奴」「非国民」「民俗の恥」などの脅迫の言葉がすんなり有効になり、タオルで前を隠すのと同じように、あたかも当然の義務のように、個人の行動を縛り付ける。

大阪府は、国歌起立条例を採択するそうだ。職員の義務の履行を目的にしたものだそうだが、それなら別な形の条例もあり得るので、結果的にはやはり、国家主義の強制になる。

ここで論じたいのは、国家主義ではない。むしろ、この条例のきっかけになった、国旗国歌に反対する職員の方の問題だ。
式典そのものに反対するのではなく、国家が国旗国歌を強制することに反対して、式典に協力しないことは、国家システムの学校その式典、さらにそこで働く自分自身を否定するものであり、矛盾する。

国旗国歌を強制する側も、否定する側も、国家という概念を前提にしている因習の人々だ。いずれも、心ではなく形にこだわっている。

こういう国家概念は、産業革命パラダイムの「因習」であり、今滅び去ろうとしているものだ。
古い国家概念が崩れ去ろうとすれば、当然、それを取り繕おうとする働きが起こり、一時的には盛んになる。

しかし、世界は動いていく。
今言われている、世界の人心の砂状化は、知識情報が行き渡る結果、個人が、何かに属する意識が希薄化していく現象であり、ウイキリークスやNGOなど、国家や民族に囚われた人々との、葛藤と代替わりに進んでいく。

銭湯で前を隠さない人を非難している年寄りがいなくなれば、
銭湯の風景もルールも変わるだろう。