魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

食即是色

2011年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム

焼き肉と言えば、昔懲りて以来、韓国料理と名のつくものは一切口にしない。
だいたい、食に関しては至って淡泊で、美味い不味いは分からなくもないが、名物や旬には一切こだわらない。ましてや、グルメがどうのと、行列に並んだり、大枚をはたく気にはならない。

美味いと言われるものを食べて、悶絶する人などいるのだろうか。
何事も、一定の水準以上は、付加価値であり、それを食べることで、脳に味とは別の満足感が生じるのではあるまいか。
食のブームとは、「こんなの初めて~」と歓喜したい、亡者の夢にすぎない。早い話、味などどうでも良いのだ。

商売上手のことを、「エスキモーにアイスクリームを売りつける」と言う。アイスクリームは、ただの氷ではないから、エスキモーが食べても不思議ではない。それなりの価値がある。
しかし、本来捨てていた物を、高級品に変えて売りつけるのは、無駄を無くす創意工夫ではあるが、一面、悪魔のごとき商魂でもある。

佃煮や漬け物が、何であんなに高いのか。毒で食べられなかったふぐや、誰も食べなかったトロを、何で皆が食べたがるのか・・・
深海魚や、ワケのわからない下手物が、いつの間にか高級料理になる。

うがって考えれば、すえた酒をありがたがって飲むのも、誰か口のおごった偉い人の猟奇趣味をまねて、「こういう味が美味いのだ」と、思い込んでいるだけかも知れない。
王様が裸で歩けば、それがニューファッションになるように。

日本料理の道
食やファッションは、文化そのものだ。
文化という舞台装置の、光や音に惑わされて、喜怒哀楽をかき立てられ、美味しいと思い、素敵と騒ぐ、色即是空の最たるものだ。

それはそれで、人の営みの価値だから、楽しめばよいと思うが、のめり込むようなものではない。ファンタジーを楽しんでも、本来の立ち位置を忘れては、楽しみは、むしろ苦しみに変わる。酒に飲まれては不味くなる。

楽しみは、控えめでバランスが取れてこそ楽しめる。ビビッドで分かりやすい刺激は、飽きが来る。
日本料理の価値は、シンプルで薄味であり、素朴に見えて、飽きが来ないところに、奥の深さがある。

それは、日本の美意識であり、粗野で荒くれな文化からは、理解しがたいものだろう。
外国人の多くが、初めて本当の日本料理を食べた時「何じゃコリャ、ちんけで、味も量もない」と思うそうだ。信長も京料理に腹を立てたという。

「食は胃を満たすもの」と考えればスカのよう見えるが、日本料理は総合文化だ。あらゆる要素が、相互に主張しないバランスがあってこそ成り立つ。
したがって、饒舌な評価もまた、バランスを傷つけるものであり、グルメブームなどの喧噪は、その時点で、すでに道を踏み外している。

淡々と生活を楽しむ、たしなみのバランスが、日本的食通のありようなのだろう。

門外漢にはわからない