日本の「世間様」はいつ頃現れたのだろう。
世間様の代表である、「長老」は、モンゴリアン特有のものではないだろうか。
映画などで見ると、アメリカ先住民の意志決定は、車座になって煙草を吹かしながら、酋長より、長老やシャーマンの意志が強く働くような印象がある。実際はどうか知らないが、白人から見ると奇異な印象があったから、そういう場面が多く撮られのだろう。
モンゴリアンの「長」は、決断実行のリーダーではなく、皆の思いを代行する存在と言える。だから、決断に責任が無く、かつその決断を誰も止められない。
インカ帝国滅亡も、中華王朝のような、形式主義的な王朝の衰退期に、ヨーロッパ式の合理的な戦術と武器にかかって、簡単にやられた。
アヘン戦争も、似たような理由だが、大陸続きの清は、インカより世間を知っていた。
ジェロニモなど、白人に抵抗したアメリカ先住民の英雄も、「長」ではなく、戦士のリーダーだ。
戦士のリーダーが「長」になる欧米社会と比べれば、アメリカ先住民は、やはり、アジアのモンゴリアンに通じる。
インドは白人系だから、仏教は釈迦個人の説得力に皆が従ったが、東アジアに入ると、仏を個人とは見ない大乗仏教に変わる。
大乗経典の仏は、黙って存在している。
アジア的な「長」は、皆の思いを受け止める、仏像のような存在でなければならない。
しかし、中国は、周辺のアジアと違い、「長」は「道理」に従って行動する「長老原理主義」のような儒教が栄えた。
干支術でもそうだが、中国は、西洋星占術の様な科学的?なモノを、「要するに・・・」と、合理化してしまう。
儒教も、モンゴロイドの情緒的な自然観を、合理化、形式化して、「道理」としたものだ。
最近、古代の中国人のDNA調査によると、古代中国人は白人系だったという説があった。確かに、周辺の言語と比べ、中国語は英語的だ。
モンゴロイドの「長」の感覚を持たないで、専制的なリーダーが、天の道理に従うなど、東西の折衷的な位置にある。
中国には「世間様」のような、曖昧な意志決定は無いが、中間の朝鮮半島は、「世間様」と「長老原理主義」が混乱しているので、「長」でなければ犯罪者になる。だから、金正日も簡単には辞められない。
こう見てくると、日本の「世間様」は、むしろ、モンゴロイド本来の姿であり、大乗仏教と天皇の確立によって、より、安定的に根付いたのではあるまいか。
大乗仏教の、人が仏になる可能性の追求は、人間を肯定するとともに、意志決定の無意味を認識させる。天皇という、責任を取らない最終責任者である「長」の存在によって、日本人は安心して「世間様」に身をゆだねてきたのかも知れない。
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