やまとは国のまほろば たたなづく青垣山隠れる やまとしうるはし
古事記で言うように、ヤマトタケルが懐かしんだ「やまと」は、大和地方のことだろう。日本全体を頌える歌ではないはずだ。
古事記の景行天皇、倭建命の説話では
ヤマトタケルは、やまとを偲びながら、
「俺はもうダメだ、皆は故郷に帰り着き、長生きしてくれ・・・」
(命の全けむ人は畳薦平群の山の熊白檮が葉を髻華に挿せその子)
と、続く。泣かせる大ロマンだ。
ところが、日本書紀では、これらの歌はヤマトタケルに辛い仕打ちをした、父の景行天皇が九州遠征した時の歌となっている。
古事記の後で、再編纂した日本書紀では、多くの逸話が加えられているが、これらの歌はヤマトタケルの最後の時の歌とするほうが、実感がこもっていると思うが、いずれにしても、創作にはちがいない。
物語が、政権の正当性を語る「正史」の体裁を整えるにしたがい、ディテールが加えられ、もっともらしく仕上がっていく。
詳しい話しは、本当らしく聞こえるが、緻密に仕組まれた話しより、一見、説得力のない単純な話しの中に、案外、真実はあるものだ。
古事記も、政治的意図で描かれたフィクションとは言うものの、素朴な物語りに、古代人の世界観が、ストレートに表されている。
当時の人には当たり前だった、性へのこだわりや残虐性、直情的な行動と、戦闘における卑怯な手段が、赤裸々に語られる。
一方で、同時代の万葉集には、ひたむきな愛や親子の情、自然への感受性と人生の機微が、驚くほどの知性で語られている。
記紀や万葉をよむと、今の日本人と、同じ「人種」とは思えないほど、なりふり構わぬ直情的な世界がある。
現代の日本人が、慎みと礼節を立前とし、卑怯と残虐を嫌い、個性より均一性を重視する、と思っている自画像とは、大きな違いだ。
では、万葉・記紀の人々は、日本人ではないかと言えば、まごうことなき、われわれの祖先だ。
ああいう人々から、今の日本人が生まれた。現代人が万葉人に惹かれるのは、日本人のノスタルジーを誘うからだろう。
あんな風に、子供のように生きられたら、どんなにいいだろう、と。
今の日本人は、妙に大人になりすぎた。
ルールを重んじ、他人・他国を思いやり、反論より反省を、主張より我慢を、難題には努力を・・・それが、大人の対応だと信じている。
古事記に出てくるような、恥ずかしげも無いガムシャラから、日本人は1500歳も大人になった。