魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

気のせい

2010年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

くどいが、トヨタの「ブレーキは気のせい」会見は思い出すたびに笑ってしまう。いかにもいかにも技術バカだ。

自動車にコンピューターが入って20年以上経つと思うが、はからずも技術屋の感覚がいまだにアナログであることがうかがえた。
そして、それは良いことだと思うので安心もした。
ただ、世の中の常識がデジタル化してしまっていることが、今回の悲劇なのだろう。

古き良き時代
壊れた真空管ラジオが、叩けば鳴り出した時代。高級車でも、70マイルも出せばフワッと浮き上がった時代。機械の調整は職人の経験と勘だった。
人間国宝でなくても、ちょっとした整備工なら、コンマ以下のプラグ調整も自分の目でできた。(零戦さえ招集の整備兵がした)

そんな車に乗る人間も、生き物のような機械のクセに合わせて運転をした。機械とはそんなものだった。
ブレーキを踏んでも、常に同じ反応をするとは限らない。
「ギ、ギーッ」と効くものや、「キーッ」と効くもの、「グゥ~ギュッ」と効くもの、そのクセを覚えて運転するのが、ドライバーの腕であり、楽しみだった。それがアナログ時代だ。

ガラスの時代
コンピューター制御の時代になって、機械のクセはコンピュータが調整し、インターフェイスは一つの顔を見せることが可能になった。
誰でも運転でき、誰でも車に乗るようになった。ガソリンさえ入れれば車は走る。あり合わせのレンターカーにも不安なく乗れる時代。
車によってクセがあるなど想像も出来ない。

しかし現実の開発現場は、膨大な部品を開発し、吟味し、組み合わせ、相互関係を調整し、プログラム制御をする。
ソフト制御はキッチリ調整できるはずだが、プログラム開発と部品開発の現場の認識は、デジタルとアナログのズレがあり、アナログ技術者は、勘で開発する許容範囲の感覚でOKを出す。

さらに、アナログの常識では、アバウトな許容範囲であれば、トンでもない現象など起きないが、プログラムは「-」記号一つ欠けてもロケットが落ちるぐらい、致命的なバグが潜んでいることもある。
この文化ギャップによって、どちらも、「非常停止ボタン」を思いつかない。

アナログが戦争なら、デジタルは人為的なスポーツや将棋だ。
将棋に負けそうになったら、「盤ごとひっくり返せばチャラになる」という発想は、仮想デジタル世界で戦う棋士には無いし、
逆に、現実の戦場で戦う兵士にリセットはない。

その両者の感覚を合わせた現実対処が「非常停止ボタン」だ。
現実の自動車はアナログ世界を走る。だから、技術者がアナログ感覚であることは、最後の救いなのだ。