魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

1/800

2010年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム

これで800本目。書きも書いたり「嘘八百」。我ながらあきれる。
途中で強迫観念になって、毎日上げるようになった。
このペースで行くと、秋までにはシェヘラザードならぬ1000話になりそうだから、それを一区切りの目標にしようかな。

書き始めにアラシにあったので、コメントにも直接応答していなかったけど、1000本で完全オープンの予定・・・う~ん???
弁慶ではないが、1000本もあれば、言葉尻で誤解されることもないだろうから。(好き嫌いは仕方ない)

占い宣伝のためのブログではないので、権威ぶってこけおどしの脅迫をする気は全くないのだが、占いと聞いただけでステレオタイプに「インチキ」と決めつけられる。逆風を覚悟で書いているものの、
何とか、占いの良いところや可能性を知ってもらいたいと思うから、頭ごなしに否定されると、やっぱり、少しさみしい。

逆に、頭から占いを盲信したり、信じたい人には、なんだか頼りないことを言うやつだと思われているに違いない。

占いは、研究するものであって、信じたり否定したりする対象ではないと思うのだが、
世の中は、「何かを信じて」成り立っている
みんな何かを信じたいから、自分の信じるものは絶対であって欲しいし、そうでないものは、消えて欲しい。
大きなところでも小さなところでも、宗教戦争は常に起こっている。

占い?
自分としては占いをしているつもりはないが、「じゃあ何んだ?」と言われると、占いをベースにものを考えるから、やっぱり、占いです、占い師ですと言う方が説明しやすい。わかりやすい。

物事を考える時、山下清の「兵隊の位で言うと何ですか」みたいな基準で、別に兵隊でもないのに、考える基準に兵隊を持ち出すように、占いで考えていると言えば、多少解ってもらえるかも知れない。

ものを考える時は、様々な尺度で比較検討するが、正統な尺度だけではなく、様々な尺度で考えてみても良いはずだ。尺度は本来、相対的なものだからだ。

占いの尺度で考えるには、占いの尺度そのものの信憑性も同時に考えなければならない。
ゴムの物差しで長さを測ることは、使い方に注意しなければ、伸びて正しい長さを測れないかも知れないし、もしかしたら、伸びた尺度の方が正しいとも言えるかも知れないのだ。

いったい何が、本当のことなのかと考える時、終いには本当のことを知る意味とは何んなのかに突き当たる。

棒倒しの人の群れによじ登るように、敷き詰めたボールの上を歩くように、無数の真実の上で定位置を保つバランス感覚で得られるものが、本当のことなのではあるまいか。