魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

木枯一号

2012年11月02日 | 占いばなし

世の中、誰でも、自分の目で世界を見ている。視野の広い人、狭い人。敏感な人、鈍感な人・・・様々だが、各々は、自分の視点が唯一絶対だと信じている。

ものの解る人、解らない人がいることを、「目あき千人、目くら千人」と言ったが、近頃は言葉狩りで、こうは言えなくなった。
先日の「ケツの毛までむしられる」ではないが、言葉の知恵まで失われている。

言葉狩りは、言葉全体の価値が理解できず、記号的な部分を批判するのだが、問題は、それを受け入れる、事なかれ主義の世の中だ。
(最近は多少改善したが、これに最も荷担したのはマスコミだった)
声の大きい人の意見が通るのは、赤軍事件のようなカルト集団内と同じで、戦前の軍部同様の思考停止だ。

声を上げ、強く抗議できるのは、強く信じているか、間違いを隠そうとしてだが、多様な視点を知れば、強く信じることはできなくなる。
「金持ち喧嘩せず」は、食べることに余裕があるからだが、もう一つの理由として、金持ち故の教養も、盲信の怒りを抑えるからだろう。

ものを知らない人、理解できない人ほど、自分の考えは正しいと信じている。
若者と年寄りが怒りっぽいのは、若者は無知であり、年寄りは理解できないからだ。すぐ、「なんでやねん」と怒り出す。

人並み外れて、敏感であったり理解力がある人は、言動に注意しなければならない。周囲は鈍感な人や理解できない人ばかりだからだ。
しかも、その人達は、自分が無知であったり鈍感であるとは、考えていない。うかつなことを言えば、「変な奴、バカな奴」と、疎外される。
子供時代にイジメられるのも、こうした子が多いし、時代によっては、魔女や非国民、売国奴とされ、立場を危うくする。

ところが、この魔女狩りの知識を逆手にとって、自らを、人並み外れた者、選ばれし者だと、他者を否定するオウムのような独善カルトが横行したかと思えば、その後、そうした超能力者の物語が溢れ始めた。
つまり、多くの人が、みな超人だと思い、間違いに直面しても、自分の理解は正しいと信じる空気ができあがってきた。

そんな中、近頃、「売国奴」という言葉が誹謗語として、通用しているようだ。一昔前ならせいぜい、「亡国」までだったのだが。
「品格」が流行りだした頃に、危ういなと思ったのだが、とうとうここまで進んできた。
本当に、今の状況を見ていると、昭和初期だ。

千人と千人
映画「アーティスト」のコメントには、何でアカデミー賞か「理解できない」という意見や、逆にやたら「いい、いい」という意見があった。
同じ事は、由紀さおりの「1969」にも見られた。
「理解できない」は正直な感想で、「いい、いい」は裸の王様現象だ。

いずれも、自分の感受性を疑っていない。評判に対し、評価の裏事情だけに注目したり、評価を無条件で受け入れている。つまり、何も感じないコトに対し、自分の感性は疑おうとしていない。

良いとされる理由は何なのか、自分なりの感性と視点で、作品そのものの再評価をするところに、鑑賞の意味や楽しみ、思想の成長というものがあるのだが、独善が、向上心を閉ざしている。

状況の変化、世の変化も、わからない人にはわからない。
星が動けば起こることも、実際にそのことが起こっているのに、「何も変わりないじゃないか」と思う人がいる。
実際に起こっていることを指摘すると、「あ、そうか」と思う人はまだ良い方で、その現象の妥当性を認めない人は、作品より受賞の裏事情に着目する人と同じ事だ。

個人の運でも、悪い運については、「当たった、本当になった」と思う人は多いが、良い運に関しては「何も良くならない」と言う人が多い。良い事は当然だと思うからだ。不満と感謝は持ちようだ。

桐一葉落ちても天下の秋を感じない人は、木枯らし一号のニュースを聞いたらストーブを出す。
(感性放棄の、セントラルヒーティングは論外だが)


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