魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

自己矛盾

2021年02月11日 | 結婚コン

東京オリ・パラの森会長の失言は、ジェンダー問題を全く理解していないからだろう。
これだけで、もう辞めるべきだ。首相までした人が、現代の社会常識のイロハに対応できないのでは、表に立つべきではない。
未来社会の入口に立つ今、性差別は世界的に大きな障害になっている。これを取り除くために、とにかく形から平等にしようという動きが盛んだ。
個々の理解より、形から入れば確かに、意識が付いてくることはある。シートベルトを強制したことで、今では、シートベルトが無ければ不安な人が多い。

しかし、数値目標や機会均等では、万人の納得と理想的な結果にはつながらない。アメリカの人種問題が、表面上の解決の裏で、根深い拒否反応があることは昨今の情勢を見ても明らかだ。
また、日本のように実質は母系文化でありながら、社会の仕組みを男社会にしているような、欧米人には理解できない社会で、単純に欧米式を強制すれば、どうなるのか。誰も分析を試みていない。その前に、日本が母系社会であることを、どれぐらいの人が理解しているのかもわからない。

そう遠くない昔、九州出身の国会議員が、「子供を産み育てるのが女の幸せだ」と言って問題になった。同世代の森会長は、古い日本のごく常識的な前提を、遠慮しながら言ったつもりだろう。単純に「女は出るな」とは言えないことだけは知っていた。70代の男が、飲み屋でわざわざ「女性」と言い直すようなものだ。形だけ気を遣う。
これは同時に、「女ではなく女性」だと主張する「女性」の中にも無自覚に棲み着いている、古い価値観と同じ意識だ。
古いタイプの女性運動家には、人権闘争を対男戦争と勘違いしている人がいる。それが自分の被害者意識、つまり、差別意識の裏返しであることに気づかない。
森発言に怒っている多くも、自分が女性だから怒っていることに気づいていない。

人権不在の不毛な喧騒
文化の違いにかかわらず、男女や年齢職業の違いにかかわらず、ジェンダー騒動には、先ず「人権」とは何かが抜けている。
人権は、表面的な肉体としての人ではない。存在そのものであり、仏教で言う仏性や西欧的な霊性のように、肉体とは別の存在と考えても良いのかもしれない。人たる根の存在には、肉体や立場における違いはなく、等しく尊い。ただ、仏性や霊性は全ての生き物、時には事物にまで広がるが、人権は人の話だ。ちなみに魂は、より肉体に近い個性を持っている。

基本の存在、人権で考えれば、どんな呼び方をしようが、どんな立場であろうが、それは仮の姿であり、この世の役割分担に過ぎず、こだわることではない。
真に人権次元の平等で考えるなら、逆に、ジェンダーは仮の姿に過ぎず、むしろ、あっても構わない。同じ野球チームに投手も外野もいるが、一人で試合はできず、ポジションは適性によるもので、メンバーに上下はない。
ジェンダーで差別する人間を非難することは、同次元に落ちることになる。もしポジションで差別するなら、そんなチームはやめればいい。
性差別をする会社や団体は相手にせず、ジェンダーフリーの人、あるいは女性だけの会社を立ち上げ、組織も顧客対象も賛同者だけにすれば、本質的に女性依存の日本の企業や団体など、たちどころに崩れ消滅する。

男女機会均等の発想は、一見、美しいが、1イニング毎に、投手を交代するチームのような話で、人権の平等と、能力の平等を取り違えた短絡だ。
機会均等や同率にせよの主張が、既存の男社会に甘えていることに気づかないかぎり、人権社会が来ることはない。
家事労働が幾らに換算されるとか、始めから男社会前提の話題には涙が出る。
本当に人権社会を目指すなら、家族前提の社会、婚姻前提の社会をゼロから考え直す必要があり、それは、今まで信じてきた、愛や絆の概念から変えなければならないことを意味している。
ジェンダーフリーは、「杜子春」の仙人願望のようなもので、本気で求めるなら、先ず自分自身を八つ裂きにしなければならない。それを求める動機そのものが、ジェンダーだからだ。


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