魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

犬魂猫魂

2015年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃は猫ブームで、特に今年に入ってからは、ペット人気で不動の犬を抜く勢いだという。

子供の時、最初に飼ってもらったのは猫だった。三毛猫を大切そうに抱えている姿を父が絵に描き残していた。次に飼ってもらったのは犬で、知り合いからもらってきた雑種の日本犬で、これも大切そうに抱いている写真がある。5歳ぐらいだった。
その後、リスやハツカネズミ、文鳥や十姉妹、金魚に亀。それにメダカやアリの飼育もした。飛び込んできた雀も、父が餌付けをして一緒に暮らしていたことがある。

父は動物好きだったが、母は苦手で、「動物は死ぬから嫌だ」と言っていた。動物が嫌いなわけではないが、いずれ死ぬことになるのを見たくないという気持ちも、わからないではなかった。
全てのペットは、何らかの形で死に、その度に悲しい思いをした。しかし、そのお陰で、命というものを知り、生の無常を受け入れることができるようになったような気がする。

どんなに可愛がっても、命あるものはやがて死に、嘆き悲しんでみたところで帰っては来ない。それは肉親もそうであり、自分自身もそうだ。
そうした儚い命だからこそ、愛しく思える。動物の可愛いしぐさを見ると、常にその死を考える。これは本当に、思わず考えてしまう。生き物は必ず死ぬ。

生き物の愛しい姿は常に死と一体化している。だから、その時が来ても、特に悲しくなることはない。何も感じないのではなく、泣き叫んでも仕方がないことだと解っているから、涙にはつながらない。飼い始めた時から覚悟しているから、ペットロスにもならない。この感覚は、もしかしたら、畜産業の飼育の心境に近いのかも知れない。

そう思って付き合うと、常にこちらを向いてくれる犬は、こちらから気を使うことはないから、かえって間を置くことができる。ただし、洋犬と違い、日本犬はどこか自立したところがあり、多少ご機嫌に気を使う。

猫となると、もう完全に向こうのペースになる。呼んでも気が向かなければ来ない。しかも、こちらの様子を窺って、自分の都合次第で甘えたり、激しく襲いかかってきたりする。
「犬は人につき、猫は家につく」という。結局、猫にとって人間は、自分の住まいの同居人に過ぎない。だから、猫と付き合うには、その場しだい、ご機嫌しだいだ。
結局、接する時には常にこちらが気を使うことになる。その結果、猫に魂を奪われ、支配されることになる。

真の動物好きには関係ないが、犬派、猫派があるとすれば、犬のような人が犬を好み、猫のような人が猫を好むのではなかろうか。
犬のような人とは、原理原則で生きる人であり、猫のような人とは、適応と対応で生きる人だ。信頼や忠誠は原理原則であり、喜怒哀楽には適応と対応だ。

犬好きには猫の傲慢さが憎たらしいし、猫好きには犬のひたむきさが鬱陶しい。
日本人は異常な猫好きだと言われるが、集団思考と言われる日本人は、案外、互いの自立心を尊重するのかも知れない。猫もマイペースだし、柴犬もマイペースだ。
ただ、いずれにしても、猫屋敷や犬屋敷にしてしまうような人は、魂を奪われた人であり、自分が犬や猫になってしまっている。もはや、人間を捨ててしまった人だ。


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