魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

言霊信仰

2024年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム

体操の宮田笙子飲酒問題で、多くの人が首をかしげている。
確かにルール破りだから正面切って庇えないものの、『何かがおかしい』の思いが歯切れの悪い「ムニャムニャ」意見となって噴出している。
体操協会としても、「泣いて馬謖を斬る」だろう。

ルールに忠実なのは、中華に学んだ日本の良いところでもあるが、現代中国を見ていると、日本人が真剣に学んできた唐本は、あくまで立前であったことが良くわかる。
中華の立派な文字の「教え」を、日本人は自分たちの「言霊」信仰で理解した。
日本人は言葉が現実になると考えるから、文字に書かれていることは既に成っていることだと信じて、それに習わなければならないと精進した。しかし、今にして我々は、中華の「教え」は理想や目標であったことを知ることになった。
大陸の人は本に書かれた理想が、現実ではないことをよく知っているから、現実対処との二元論で生きている。まさに、陰陽思想こそが本当の中華なのだ。

ところが、蓬莱の島に住む極楽トンボの日本人は、戦国乱世でさえ、これは「あってはならないこと」と、現実を見ずに理想郷を求め続けた。日の本の住民は、陽と陰を立前と本音の一元的表裏で考えてきた。しかし、中華の陰陽思想は陰陽二項がどちらも独立して存在し、対立して混じり合う現実対処で生きてきた。
スポーツのみならず、日本人はルールを人の定めるものだとは考えたがらない。これは先日「ほどほど」でも言ったばかりだが、決定(ルール)は精神の極地と考える精神主義の信者だからだ。人が定めたものでも、天道が人を介して与えたと考える口寄せ信仰が源流にあるからだろう。

大陸のように、現実を見つめ人間を不完全なものと考えれば、精神を神格化することはなく、人は神でもなく神が憑りうつることもないから、人に過ちはつきものと考える。
神など存在しない中華や、神の下の人間と考える欧米では、人が定めるルールはあくまで「かりそめ」だ。
ルールはその場その時の人が決めるもので、時や所が変われば、新しい状況に合わせて改めなければならない。

宮田笙子問題に、みな『何かがおかしい』と思っているのは、チクったことを内部告発として不問にし、世界レベルの大会に内部規律を適用していることだろう。(日本人は密告と内部告発が区別出来ない)
ドーピングや賄賂のような、大会そのものの不正とは関係ない、いわば身だしなみレベルの、自分が勝手に感じる恥を嫌ったことだ。
18歳選挙を行いながら、あと2ヶ月で20歳になる選手の喫煙飲酒違反は、自分が勝手に思い込んだ恥で自殺するようなものだ。

誰でも、「そんなもの恥じゃない!」と引きとどめるだろうが、本人は思い込んでいる。日本人のルール意識は、いったん決めると客観的に検討することなく、現実離れした精神論になる。ことに、行為を重視するスポーツや軍隊では理念から考え直すようなことがない。高野連が代表例だが、伊藤純也事件にしても今回の状況を見ても、スポーツ界全体に哲学がない。次々と、ルール変更されても唯々諾々と従う。

そして誰より哲学がないのは、政治家だ。選挙権を引き下げながら飲酒喫煙をそのまま残した。18才に引き下げないまでも、コーヒーレベルの注意に改めるべきだった。
酒やたばこから税収を得ているから、全面禁止にできない代わりにお為ごかしの20才条件を設け、それを延々と120年以上も続けている。それなら大麻も条件づきで解禁し、税金を稼げばいいだろう。