魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

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2015年09月04日 | 占いばなし

まだ、東京オリンピックのエンブレム騒動は終わっていない。
審査委員の話から、一端、採用されて後に、意匠登録問題が発生し、審査委員にも知らされず、何度も修正されていたことが明るみに出た。

経緯を聞いて、「やっぱり!」としか言えなかった。
パクリ騒ぎになった最終案は、やはりパクリではなかった。しかし、一目で感じるデザインの不統一性は、プロセスがそのまま現れていたわけだ。
学問であれ芸術であれ、良い作品というものは、最初のヒラメキで生まれることが多い。
ヒラメキには「神が宿る」が、修正は凡夫の常識で汚される。

今回、最初の案には、達人達も認める「何か」があったが、それが既存の意匠と重なっていた。つまり、意図するしないにかかわらず、パクリ疑惑があったことになる。
コンテストであるならば、この時点で、この作品と作者は失格となり、次点なり、再募集なり、選び直さなければいけないはずだ。ところが、担当者は、一端、選んだデザイナーに固執して、修正を繰り返させ、選ばれた元の姿とは全く違うものになってしまった。

占いでも、易経の「蒙」に、「初噬には告ぐ、再三すれば涜る」という言葉がある。
純粋な気持ちで求める者には、真実が告げられるが、邪心で求めても、真実は得られない・・・という教えだ。
プロセスがどうであれ、パクリであれ、最初に選ばれたのは、良い作品だった。
その後は、当事者の邪心が求めるものとなった。

今回のロゴ募集は、始めから、画壇とか業界とかの、馴れ合いが前提になっており、限定されたメンバーから選ばれる仕組みで、しかも、選んだ後には、その世界のメンツを汚さないことだけに傾注されたようだ。まるで、公共事業説明会のような、形式主義だ。

東京オリンピックが決まった時に心配したことが、現実になりつつある。
古いやり方のイベントを、古いやり方通りにやって、世界の進歩に取り残される。次々と出てくる失態は、その始まりだ。
純粋な気持ちで行われた、東京オリンピック64は、世界も日本も、まだ素朴だった。
64エンブレムの、シンプルな日の丸が、それをよく表していた。

手塚治虫の漫画の時代には、今日の技術の粋を尽くした、マンガやアニメには無い、明快なメッセージ、わかり易さがあった。
スポーツも、技術が向上し、記録やファッション性がどんどん高まって、もはや、昔のような、かけっこや、腕相撲や、綱引きのような、素朴な力比べではない。
時代が変わり、技術が変わり、求めるものが変わってきた世界でのイベントは、素朴な遊びを盛り上げるための装置や、それによって金を回すようなシステムから、むしろ、離れなければならなくなってきているのではないか。
スポーツの高度化によって、それを行う装置が邪魔になり始めた。そういうことではなかろうか。

これも一白
ところで、件のデザイナー佐野研二郎氏は、九星一白だ。今回の情実めいた内輪での選定のやり方は、得意とする土俵であり、一白の「人を気持ちよくさせる」プレゼンテーションの才能も抜群らしい。また、問題発覚後、担当者に食らいついて、闇の中でひねり出した経緯そのものが、まさに一白だ。
人の物をさらりと有効利用する一白の要領の良さも、安倍首相と同じ一白だ。
変わり身の早さ、そして上手くいかなくなると、家族や健康など、内輪の事情を持ち出して泣き落としにでる。

最後に一言、問題にされた完成エンブレムは、パクリではない。それだけは確かだ。

 



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