転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



娘の通うA中学で、中3保護者を対象に、
高校から始まる文理選択についての説明会があった。
完全に文理に分かれるのは高2からだそうだが、
中3の今から、自分が将来、何になりたいか、
そのためには高校卒業後、どういう進路を取ることになるのか、
それには文理どちらのコースを選ぶべきか、等々を
よく考え、家でも話し合っておくようにとのことだった。

だが、うちの娘の場合、もう議論の余地は、ないのだ。
中学入試の頃から、算数と理科が出来なくてどうしようもなく、
かわりに国語と社会なら、たまに成績優秀者欄に載ることができ、
「まあ、典型的な文系っていうしかないですなぁ」
と進学塾の先生に苦笑されるような成績だったのだ。

こんな者が、週に10時間も数学をせねばならないうえ物理必修、
などという理系コースで、まともに生きていける筈がない。
娘は、一も二もなく、文系だと、本人も認めており、
我が家の場合、全く迷いはないのだった。
ただ問題は、国語と社会、それに英語、の文系三科目が、
果たして「得意」と言えるほどアテになるのか、なのだが(汗)。

娘「まあ、私大文系って感じ?」
私「何が何でも出来るだけ数学や理科を避けて通ろうと」
娘「まぁ、そういうことやね」
私「ほんで、何になりたいわけ?」
娘「漫画家かな」
私「芸術系ってことか」
娘「うーん・・・」

(--#)。
そりゃあ、娘にヒット作を書かせて、私も一緒に印税生活、
などということを、夢に見ないワケではないのだが、
生半可なことで漫画家になれるものではなかろうし、
運良くなれても、なまじなことで続けられるものでもないだろう。
娘は、本当にそのような覚悟があって、言っているのだろうか?

それに何より、キミは、美術の成績がだよ?


ちなみに、きょう学校でお喋りしていて、
とにかく娘らは勉強しない、という点で、
我々保護者は意見の一致を見た。
入試に通ってからすっかり満足し、シアワセになってしまい、
学校が楽しくて仕方なく、高校入試もないし全く危機感がない、
というのは、どの子も似たり寄ったりだった。

と、そのうち、お母さんのひとりが、
「うちの子の希望は、数年前まで『魔女になること』だった」
と仰ったので、皆でオオウケした。
魔女!それって理系なんだろうかな、やっぱり!?

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CHABO涙…清志郎さんへ追悼の23曲(nikkansports)
『2人で歌うはずだった曲を、たった1人で歌った。2日に58歳で死去したロック歌手忌野清志郎さんの盟友、仲井戸“CHABO”麗市(58)が22日、都内でソロライブを行った。病院で最期をみとり、4日の密葬に参列後の初のステージを清志郎さんへの追悼ライブとした。』

チャボこと仲井戸麗市は、RCサクセションのギタリストであり、
清志郎がソロになってからも、たびたび活動をともにした盟友だった。
清志郎のライブの映像を観ると、ほとんどいつもその横には
まさに当意即妙という呼吸で応えるチャボの姿があり、
二人がどれほど理解し合った無二のパートナーであったかが、
よく伝わって来たものだった。

『冒頭からギターを持つ手が震えた。「ちきしょう、サングラス忘れちゃった…」。親友とともに愛してきた外国人歌手のカバー曲の連続で <歌詞>ここにいるはずの君がいない…。<歌詞>ずっとあれから努力してるんだ、君の不在を受け止めることを…と、悲しみの和訳で歌った。』

4日の清志郎の密葬のとき、チャボは痛々しいほど憔悴していたが、
流れる録音の清志郎のライブの声が、『OK、チャボ!』と呼んだとき、
不意に立ち上がって前に出て、ライブさながらのパフォーマンスをした、
と、新聞記事に書いてあった。
清志郎が高校を出て最初に買ったギターの、
ギブソン『ハミング・バード』が、遺品としてチャボに託され、
チャボは清志郎の出棺のとき、それを高く高く掲げて見送った。

――以来、チャボは沈黙した。
9日の青山の葬儀のときにもチャボの姿は無かった。
この、昨夜のライブが、4日以降、初めての、
チャボからの意思表示だったのだ。

『当初は4月までメールのやりとりをしていた清志郎さんをゲスト出演させるつもりだった。「調子が良さそうなら、歌ってもらおうと楽しみにしてたので、悔しいです」。2人で歌うはずだった、RCサクセションの「君が僕を知ってる」「いい事ばかりはありゃしない」「夜の散歩をしないかね」を1人で歌った。スタンドマイク1本でハモる場面では、いつものように左に寄った。もう、右に清志郎さんはいない。それでも体が自然と傾いた。』

加藤くん(チャボ)と栗原くん(清志郎)は、
まだRCを結成する以前から意気投合し、頻回に文通をしていた仲だった。
携帯もメールもなかった、40年前という時代、
文字通り手書きの往復書簡が、無名の、若い二人を繋いでいた。

『40年前の出会い、文通をしていた秘話を、詩の朗読で披露した。全23曲が清志郎さんにささげる歌詞だった。ザ・ローリングストーンズのボーカルとギタリストに例えられ「日本のミック・ジャガーとキース・リチャーズ」とまで称された唯一無二の名コンビだ。「離れ離れになんかなれないさ」と歌った。』『「おーい!! 清志郎、歌い続けること、だよな? わかってるゼ!! キヨシ、キヨシ、君の友だち、仲井戸チャボ麗市」。』『涙でくしゃくしゃの顔で天に向かって“手紙”を読み上げ、文通が終わった。清志郎にさよならした。』【瀬津真也】

清志郎がいなくなり、本当ならチャボは、まだとても、
人前に出られるような状態ではなかったのではないだろうか。
でも、清志郎を上から下まで全部、わかっていたチャボだから、
こんなにつらいライブを、敢えて行ったのだと思う。
清志郎がチャボに、『歌い続けること』を望んでいるのが、
チャボには、わかっていたから。
チャボにしか歌えない歌を聴かせて貰えたことで、
チャボファンも清志郎ファンも、昨夜は、新たな涙の中で、
どれほど強い気持ちを分かち合えたことかと思う。

ありがとう、チャボ!愛してまーす!

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