「ロック」という価値観は廃れてしまうのだろうか。

2010-11-30 08:13:27 | Weblog




「ロック」は死に絶えてつつあるのだろうか。

・・・もしかしたらそうなのかも知れない。

それならそれで、しかたのないことだけれど。


何せ、産まれたのは1950年代だからね。

「ロック」という価値観が

危険なほど輝いていたのは多分、

1960年代後半なのだろう。


でも俺がまだ十代だった頃はまだ

じゅうぶんに「ロック」は危険っぽくてかっこよかった。


不穏な感じ、不健康な感じ。

一触即発、すべてをひっくり返せそうな匂い。

そんな「感じ」がありありと存在した。

手にとって触れることすら出来るような気がしていた。


そういうのって今はもう、

嘘みたいに「ない」。

多くの音源の中に、確かに封じ込められてはいるものの。


いろんな物事が

年月という川の流れに洗われてしまうみたいに

抜けていった。

サイダーから炭酸が抜けていくみたいに

しゅわしゅわと。


でもそんな時代に生きることが出来て良かった。

ロックのあの「不穏な感じ」は、

薄灰色だった日常を10000倍くらい

面白くしてくれたから。


そんな「感じ」はもう二度とないような気がしているんだけれど、


予測を裏切って、

戻って来てくれたら嬉しいんだけどな。







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コーヒー

2010-11-27 06:55:19 | Weblog



俺自身はめったに飲まないのだけれど、

コーヒーって魔力的にいい匂いだ。


でも例えば、猫なんかはあの匂いを、

いい匂いだとは感じていないのだと思う。

だってもしそうなら(そうじゃないなら)、

喫茶店の周りに猫が集まって

ウニャウニャ言ってるはずだ。

猫が魔力的に惹かれるのはマタタビだ。

まぁ、それはそれとして。


ずっと前に日記に書いた、SF小説に出てくる

「着用者の死を感知したら即座に首を切り落として

冷凍保存する宇宙服」は確か、

口のところに「吸い口」があって、

くわえたら 水か、コーヒーかどちらかが自動的に出てくるのだ。

むむむ、そういうのっていかにもありそうだよな。

宇宙服のどこかのタンクにお好みの飲料を

あらかじめ入れておくのだろうけど、

俺だったらコーヒーではなく、何を入れておくだろう?

・・・・ほうじ茶かトマトジュースだな。

時々、こそっと日本酒なんか入れたりして。

ちょっとぬるめの熱燗で・・温度難しそうだな。

それで調子に乗って宇宙空間で飲みすぎて、

泥酔してヘルメットに切断されて冷凍されたりしてね。


・・・・・・・・・コーヒーに戻ろう。

俺がまれにしかコーヒーを飲まなくなって久しいのだが

それでも、コーヒー豆を挽いた匂いをかぐと

静かで落ち着いた幸せな朝、というような

イメージが浮かぶ。


それはきっと子供の頃に憧れた、

喫茶店のモーニングサービスの

あるべき姿なのだ。
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考えようによっては

2010-11-26 07:11:07 | Weblog
しかし大局的に考えてみれば

意味なんか何もない、と言うこともできる。

すべての人の人生は壮大な無駄遣いだ、と。


「どうせいつか死ぬ」と言ったのは

何の小説の主人公だったか?

確かに、結果を重視するのなら

最終結果は、それしかないのだ。


君は消えてしまったけれど、

僕の心の中に、確かに残っている。

でもいつか、僕が消えたら

僕の中の君も消えてしまうんだよな。


フェアである、と考えればこれはとてもフェアなことだ。


でも「消えてしまう」のが嫌だったらどうすればいい?

「名を残す」とか?

何か偉大な事(もしくは悪行)をして、

歴史に残ってしまえば僕も君も、

消えずにすむかもしれない。


でもそんなの馬鹿げてるな。

ただ「記録」に残ったからって、

それが何だっていうんだ?


きっと消えてしまうことを怖がるべきではないのだ。

だって考えようによってはそのことこそ

人生そのものに付随する

最高のご褒美だ、とさえ言えるのだ。



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人生が映画なら

2010-11-24 11:26:46 | Weblog


先日の日記に書いたような状況が

改善されたわけでもないのだが(そんな簡単にされるわけもない)、

そんな現実の圧力に負けないためにも、いつものような

非現実的な日記を書くことを続ける。





「人生が映画なら」






空が落ちてくる

灰色の巨大な

軋轢の厚い

バームクーヘンみたいにうんざりする


世界が終わったら君は何処へ行く?

真っ暗なハイウェイに乗っかって

そのまま

凍りついたみたいに走るんだね?


真夜中のライダー

二度と戻らないツアー



鋼鉄の空が浮かんでいる

何もかもが冷たくて重い

まるで最終章の予告編みたいな日々

そうして幕は切って落とされた


人生が映画なら

何度でも観れるじゃないか?

お好みの結末を

(ど派手でちょっと哀しいやつを)

用意して待っててくれ





そのうちにきっと行くからさ





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無題

2010-11-23 20:14:53 | Weblog

北朝鮮という国をめぐって、軍事的緊張が高まっている。

考えがまとまらないのだが、

国と国が利権で争って、それで人が死ななければならないのは、

やっぱり馬鹿げている。

我々の、いやすべての人の人生は

もっと重いはずだ。

もっともっと考えて、

徹底的に「戦争」という最悪の事態を避けなければならない。

単純にナショナリズムに走るべきではない。

それならどこまでも北朝鮮みたいな国に

譲歩すればいいのか?といえば

それはやはり違うけど。

それでも、

国家間の暴力、つまり「武力行使」は愚行の極みだ。

北朝鮮は恐らく今、内部が混乱しているのだろう。

この後、どんなことでも起こり得るのだ。

最悪の核兵器だって持っている。

本当に恐ろしいし、とにかく馬鹿馬鹿しい。

憎み合うのをやめよう。

「共生」の道を探ろう。

チカラに頼るのをやめよう。

「臆病」と思われてもかまわないから、

「非戦」の意思をつらぬこう。

でも

世襲で権力を維持しようという考え方は間違っている。

俺だって彼らは「間違っている」と思う。

幼稚で自己中心的な考え方はやめてくれ、と

言いたい。

チカラに頼らずに彼らにそのことを

わからせる手段はないのか。

人類ってそこまで幼稚で、愚かなのか。


「戦争」の臭いは不吉だ。

「怖い」というよりは、強烈な「嫌悪」を感じる。

なぜ彼らは「平和憲法」を持たないのか?

この武力衝突で亡くなった方に

心の底から同情する。

明日はわが身なのだ。



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「戸山ハイツ」フォーエヴァー

2010-11-22 12:02:23 | Weblog



赤瀬川源平がけっこう好きなのだ。

この人は「アーティスト」なのだが文章も上手く、

「尾辻克彦」の別名で芥川賞を受賞していたりする。

「赤瀬川源平」名義でも、エッセイ集を多数出していて、

地味ながら面白いのだ。最近の著作では

(エッセイではないみたいだけど)、「老人力」が有名。


・・で、その赤瀬川源平の「昭和の玉手箱」(東京書籍)

を読んでいたらいきなり「戸山ハイツ」の写真が出てきた。

(昭和っぽいモノや、出来事を回顧して紹介するような内容の

本だったのだ。)


以下、写真のキャンプションからの引用

「戦後初の大規模な都営住宅である、戸山ハイツ。

晴れの日には、洗濯物の花が咲く。1953年6月

(写真提供・毎日新聞社)」

引用終わり


そっか。「戦後初」だったのか。

この写真の風景には確かに、見覚えがある。


そうそう、確かにトイレは洋式だったよ。

あれはあの時代には画期的だったんだな。

懐かしい。


チャボさんのお母さんも、

戸山ハイツでご健在かな。

きっとそうだといいんだけれど。


「戸山ハイツ」もいつまでもいつまでも、

在り続けてくれるといいのだが。


こういうのってしかし、

「ストロベリーフィールズ フォーエヴァー」みたいだな。



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西部講堂 2010年秋

2010-11-22 10:40:15 | Weblog


昨日は素晴らしかった。

山口冨士夫は健在であった。

白髪にサングラス、

ギターも歌も、(多少ヘロヘロな場面もあったが)

凄みを増していた。

抱えていたのは歳月と、

チェリーレッドのギブソンES335。

あの昔の「村八分」のライブ盤で使ってたのと

同型のギターだ。

40年の年月がそれだけでくにゃっと曲がって、

西部講堂ごと時代がタイムスリップする。

1970年へ?いや、年代なんか関係ない時空へ。


黄色がかった満月の前庭で、

飲みながらライヴを待っている時間も心地よかった。

隣の建物から聞こえてくる吹奏楽部の学生の

合ってるような、合ってないようなブラスの音。


蛇足みたいだが、冨士夫さんの前に出た「オシリペンペンズ」も良かった。

あの異様な楽曲のセンスはもはや「才能」だと思う。

もしくは「天然」か(笑)。


本当なら「ドリルマン」も観れたのにな、と思うと

少し哀しかった。

キューゾーくんの復活を願う。


そして俺自身も、

復活しなくちゃ と思う。




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ロックの歴史の1ページ

2010-11-21 14:09:45 | Weblog


昔、俺がまだ15か16の頃。

高校で知り合ったかっこいい不良の

岩佐が、「村八分」のことを教えてくれた。

彼は

再発された京大西部講堂でのライヴ盤を持っていたのだ。


俺も「村八分」、そしてギタリストの

山口冨士夫のファンになった。

その頃は冨士夫さんが

もとダイナマイツだとか

孤児院出身だとか

ハーフだとか

全然知らなかった。

ただひたすらに「イカれたギター弾き」だと思った。

その認識は、大して間違ってはいなかったが。


その後俺はランブルフィッシュで佐治と一緒に、

冨士夫さんと一緒にライヴやらしてもらったり、

「いのちの祭り」のキャンプで

台風直前の森の奥で(冨士夫さんに)偶然出会ったり

した。


教えてくれた岩佐は

不慮の、そして無念の交通事故で早くに亡くなってしまった。

あれから20年以上経つ。

佐治も、今はもういない。


気がつけば俺も

「村八分」の街、京都で暮らしている。


山口冨士夫(「イカれたギター弾き」)はロックの誇りである。



近年は病気のせいで、

この先の活動が危ぶまれていた。

でも今日、

京大西部講堂で行われるライヴに、

山口冨士夫は出演する。


このライヴの事は、

「ドリルマン」のキュウゾウくんから聞いた。

つい先月のことだ、

「ドリルマン」も出演することになっていたのだけれど・・・

大丈夫であって欲しい。

心からそう願いながら今日は

京大西部講堂に行く。


いろいろな出来事が

それぞれの人の中で交差する。


恐らくこれは、「ロックの歴史」の1ページなのだ。






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11月の深みにはまる

2010-11-19 19:23:47 | Weblog



凍りついたストップ・ランプ

すべての哀しみを放棄して

僕はひとつの

永久機関と化した


青い光は遠くの恒星

赤いのは火星

まるで誰かが針で突付いたみたいな

小さな小さな小さな光


気分は少しも晴れやしない


何年も何年何年も経ってから

物事の本質が現れたりする

どんなものも無目的に流れているわけではない

何もかもが意味性を帯びて存在している


寒すぎるからって風邪を引いたとしても

そんなのよくあることなのだ。











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不思議。

2010-11-15 17:05:46 | Weblog


一日中寝ていられないのは不思議。


「今日はもう、ずっと寝床にいるぞ」とか思って

フトンにくるまっていてもそのうちに

目が冴えてきて

足なんか動きたくてムズムズしてくる。

「やりたいこと」が次から次へと浮かび、

お腹なんかも減ってきたりして

・・・結局は起き上がるのだ。


「健康」であることに先に感謝しておいて・・・


しかし「眠り」に楽しみを見い出すのは

精神的に不健康かもしれない、と思う。


とは言え

「内にこもる」ような時期が人生にあったとしても、

大して不自然なことではない。


一生をハイパー・アクティヴなまま駆け抜ける・・・

なんてのもかっこいいけど。


それにしても

「人間」・・いや「生物」というシステムはあまりにも

複雑なので、

何がどうなっているのか全然わからない。

「眠り」とは やはり、

自我の中に埋没していく行為なのだろうか。

そして

そこで何が行われているのか。

そんなの誰にもわかりはしない。


「無意識」ってそれにしても、

すごい言葉・・・っていうか概念だと思う。


何故「無意識」で動くのか?

何故「無意識」で生きられるのか?


我々はどこまで

自分自身をコントロール出来ているのだろう?




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