ジャンク・ショップ雑感

2011-09-28 10:18:58 | Weblog



「君の街」には一軒、とても素敵なジャンク・ショップがある。


ジャンク・ショップというのは説明不要だが、

ガラクタを集めて売っている商店というか、

大雑把な骨董品店というか。

大阪・四天王寺で毎月21日にやっている「朝市」

をギュッと縮めたようなお店というか、そんなの。

「リサイクルショップ」っていう看板だったりもするよね。

さすがに「ジャンク・ショップ」と名乗ってる店はないかも。


「君の街」のそのジャンク・ショップは覗くたびに、

ぶっ飛んだ面白い品があるので、俺その「街」に行くたびに

そこも訪れるのだ。

昨日は幸い(?)、買いたいような物はなかったのだけれど、

やっぱいいよな・・・・・としみじみ思った。


しかしジャンク・ショップは人生そのものである。

どんな物でも等しくゴミなのだ。

そのゴミでしかないものに、どのような価値を見出すか?

ということに過ぎない。


完全に壊れた目覚まし時計、ヘビメタ・ギターのなれの果て、

壺、壺、壺、擦り切れたルイ・ヴィトン。


俺は以前ここで、「エレクトリック大正琴」という

原始的な電子楽器を250円で買った事がある。


もう誰かにあげてしまったけど、

笑いが止まらないくらい素敵だった。


「ジャンク」を愛するということは

「文化」を愛する、ということでもあるような気がする。

「考古学的考現学」というか。

消えてゆくものを惜しむ気持ちもあるよね。


ジャンク、ガラクタ、ノイズ、不協和音。


懐かしいはずの街は何だか、

よそゆきの顔をしていた。






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「ガラクタ」っていう語感が好きなんだよ

2011-09-28 08:44:32 | Weblog


僕の好きなたぐいのガラクタ

ぶっ飛んだセンスで非・実用的

古臭いようで 時代を超えている

骨董価値はそんなにない

事務的能力もあんまりない

でも抜群に素敵

「無造作」そのもの

近付くと日なたの匂いがする

ほとんどの人には理解できない

冗談のネタにもならない

存在そのものが非・現実的

歴史的大傑作あるいは失敗作

カミング・スーン・・・かと思ったら全然来やしない

消え失せた・・と思ったらすぐそこにいる

ナチュラル・ボーン「洗いざらし」

くたくたに草臥れたレザー・ジャック

まるで無用の長物

そのくせ なくてはならないもの

取替えのきかない部品

一生に一度 会えるか会えないかの奇蹟


そういうのが

僕の好きなたぐいのガラクタだった




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今日、そしてこの頃

2011-09-27 09:41:20 | Weblog



ドラムスの郁磨と俺とでやってる、

たった二人のロック・バンド。

ロカ。

少しずつ、少しずつ練習していって

ボロボロの複葉機がやっとのことで離陸するみたいに

とにかく前に進むように、

このところ水面下でスタジオ入りしていた。

それで

最近やっと

ロカというのがまた、

希薄なガス体のようなおぼろげなものであるにせよ・・

ひとつの「有機物」みたいになれたかも知れない・・・

と自分では思っている。

前のロカとはだいぶ感じが違うけど。

ああ、でもわかんないや、

君が見たら何て思うのか、

俺にはわからないからね。


相変わらず下手ピーだし、

別に美しくもない。器用さなんて欠片もない。


まぁ、それでも何かしらの「意義」はある、と信じて

10月1日の日曜日

大阪は十三のクラブ・ウォーターに出るよ。

「意義」は、きっとある。

0.1ミリでもいいから何か

現実に干渉する作用がある、と今でも俺は

信じてるんだぜ。





ところで今日は9月の27日で、

気持ちのいい季節だし、

近鉄電車に乗って「君の街」まで行ってみよう。

どんな気がするだろう?

どんな風に思うんだろうね?






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眠り

2011-09-24 12:49:22 | Weblog



昔からよく眠る子供だった。

授業中は常に、机に突っ伏して寝ていたし、

休み時間もそのままで、気付いたら別の授業だった・・

ってなこともしょっちゅうだった。

夜も眠る。休みの日は昼過ぎまで起きてこない。

一度なんか親に心配されて、医者に連れていかれた。

病気の兆候何もなし、で・・よかったんだけど恥ずかしかった。


今でもよく眠る。

「眠り」は俺にとっての幸福である、とさえ思う。

「眠るために」生きているのではもちろん、ない。

でもへとへとに疲れた時なんか本当に「よかった」とおもう。

「疲れてよかった」って。

変だけど。


「眠り」には何か、人智を超えた不思議な作用がある。

そうじゃなかったらあんなにリアルに、

今はもうこの世にいない人たちと会えるわけがない。

俺はしょちゅう会っている。

「霊魂の不滅」は信じてないんだけど。

そーゆーのじゃなくて。


不思議な重たい飛行船みたいな奴が俺の意識の片隅に現れる。

そいつを引き寄せて、つかまえて、

そいつの中に埋没する。

精神と身体の「疲れ」って奴が漂白されるみたいに、

中和されるみたいに 薄れていく。

そうして精神は、まったく未知の世界へと出発する。

もしくは、懐かしい世界へ。


そういうのとか


心の中の「地図」みたいなものの上空を俺は飛ぶ。

あれ・・まだこんなところに「痛み」があったのか。

何年経ったと思ってるんだよ・・・・・・しょうがないなぁ。

ほっとこう。

あ、こっちには「怒り」が。珍しいからこれもほっとこう。


地平線の彼方に見えるのは

「忘却の野原」だ。雨が地表を洗う。

その雨のひと粒ごとに、記憶は薄れていく。




「眠り」はとても神秘的だ。



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ケータイ発見

2011-09-20 18:19:28 | Weblog



ケータイが見つかった。

大阪の曽根崎ケイサツまで今日、引き取りに行ってきた。

もうあきらめていたのだが。

でも嬉しい。

イトちゃんが予言してたように、

やはり失くしてから10日でケーサツに届いていたようだ。

しかしそれが俺に伝わるまでにさらに10日以上かかっている。

しかも知らせは郵便で来たし。

なかなか連絡がスパッとうまくはいかないもののようだ。

いや、ケータイが戻ってくるだけでありがたいんッスけどね。

(ちょっと低姿勢になっている。)


みんな知らないと思うけど(当たり前だ)、

俺のケータイは鮮やかな緑色で、

銀色のぴかぴかのボール・チェーン

がストラップ代りについていて、

こんな派手なもの・・失くすなよな、と俺でも言いたくなる。

財布もフェイクのリザード革で、グリーンなのだ。

ははは、グリーンはいいなぁ。

むかし、佐治の髪の毛の色もグリーンだったことがあった。


もうすぐ、佐治の命日だよ。

佐治と会えなくなってから久しい。

どこか俺の知らないところで元気にしているような

気が、未だにしてしまうのだけれど、

でも実は本当にそうなのかも知れないよね。





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「幸せ」とは何か

2011-09-19 10:38:58 | Weblog



「幸せ」って何なんだろう。

どういうのが「幸せ」なんだろう。


考えてみた。


苦痛を感じていなくて、寒くなくて、

おなかが減っていなくて、

悲しい出来事を引きずっていなくて、

誰かに愛されているという実感が(ささやかでもいいから)あって、

好きな人、というのが(遠くにでもいいから)存在して、

とりあえずは小さな希望(みたいなもの)があって、

帰れる場所があって、

行きたいと思える場所や、

やりたいと思えることが(しょうもないことでも)あって、

自分の今の状況を、

「決して良いとは言えないけど、

絶望的にひどいわけではない」と思えて


・・・といったところか。


しかし、「幸せ」っていうのはきっと、

相対的なものではないはずで、

だから結局は「自分がどう思うか」でしかないよね。

他人からリスペクトされても、

その人が自分自身を尊敬できないのなら

それは不幸だろう。




トモダチの”ほろほろ鳥”というバンドに、

「幸せの楽しみ方を知ってるということ」

という題名の曲があったなぁ。

その歌詞で「不幸せの割り切り方を知ってるということ」

とも言っている。



いろいろと考えてしまうのだけれど、

どうしたってうまいこと一つにまとまらない。


まあいいや、とりあえず俺は元気です。


本当は、ただそれだけで良かったりするのかもしれない。



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運転免許

2011-09-14 16:50:25 | Weblog




免許更新せねばならないのだ。

早く行かないと失効してしまう。

で、さっき近くの伏見ケイサツに行ったら

「警察署では免許の更新は出来ません」

と冷たく言われた。


・・・大阪では出来たんだけどな。伏見免許試験場?

これがまた嫌がらせのようにわかりにくい場所にあった。

しかも受付時間が限られている。

大阪では、いつ行ってもよかったのに。

不親切だ。「お役所仕事」って奴だ。


今日はもう駄目だから、明日早起きして行こう。

で、今の免許を見たら普通自動車の取得が

昭和61年10月だってさ。1986年・・。

19歳だった俺はその年の夏に佐治と二人で長野県の清里に

合宿免許で行って、その旅先でもう学校

(大阪デザイナー専門学校)に行かない決心をして、

アメリカ村の古着屋でフルタイムのバイトを始めて、

そうしてすぐに二十歳になって、

そうこうしているうちに10月になって、

免許を発行してもらいに門真の試験場に行ったのだった。

(だから免許を見るたびに佐治のこと思い出すのだ。)


初めて免許を手にした時は嬉しかった。


今でも嬉しい。今のは何と、ゴールド免許だ。

60日免停まで喰らったことがある身としては、

感慨深いものがある。


60日免停の講習で、「統計によると、この中の半数の人が

免許取り消しになることになります」と言われた。


ちょっとゾッとしたよ。

でもそうならなくてよかった。


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えーっとね・・・・

2011-09-14 10:39:04 | Weblog




北摂を根城にして暮らしている

(もしくは北摂でロックしている)友人たちに、

伝えなければいけないことがあって・・・・

それは何と言うか、


俺はもう、茨木にはいません。


ということだったりする。



俺の大好きな人たちは日本のいろんなところに

いるのだけれど、北摂にもそんな人が何人かいて、


大阪のなかでも不思議に愛着のある土地だったのだ。


何の偶然か3年間も茨木にほぼ毎日通ってさ。

ほんの時たま、その周辺の友達に会いに行った。

またそんな感じでふらっと寄るつもりだったんだけど、

考えてみたら全然遠い距離じゃないし、

今度行く時は「友達に会うために」北摂に行くよ。

「いやいや、仕事帰りにちょっと寄ってみたんだよ」

みたいな「言い訳」も、けっこう良かったんだけどね。


オンガクとか、ロックとかさ、

ライヴハウスとかそういう

極上に素敵なものに関わり続けている限り、

俺はきっと俺でいられるし、

「言い訳」なんかなくても好きな人たちに会ったりとか。


そんな風に生き続けたいと思う。



そんな9月。



みんな元気なのかな?





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サムシング

2011-09-09 14:24:10 | Weblog



きりもみ回転しながら墜落していく飛行機の中みたいに、

もしくは

消滅する寸前の流星みたいに。


それはどこから手をつけていいかわからないカオス。

そんな世界の中心に、

君がいたんだ。

いや、今でもきっと、そうなんだぜ。


あれはいつだったんだろう?

1941年のパールハーバー、

それとも

2001年のマンハッタン島か?


僕等がエンパイアステート・ビルをその真下から

見上げていたのは、1998年の11月だった。


今となっては・・ってことなんだけど

何もかもがホーリィな色彩を帯びている。

草むらの便所コオロギみたいな奴でさえそうなんだから、

もう僕の手には負えないことはなはだしい。


今でさえ

すべての夜は神秘的で、

すべての朝は虚無的で、

消えてしまったすべてのものたちは

年月という波に磨かれて、

ピカピカに輝いている。


夏の終わりの始まりは、

まるで粒子のように降り注ぐ光。


僕は何かを

思い出せそうで、思い出せなくて。


忘れたことさえ忘却したはずの、何かを。





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そうありたい

2011-09-07 21:41:19 | Weblog


「能力」や「容姿」で、ひとを判断しないようにしたい。

「権力」の有無とか、「財力」とか、

そういうのも関係ない。


「メリット」とか「デメリット」とか、

そういう話もやめたい。


「お偉いさん」なんて、

(人間的には)全然偉くないことの方が多いし、

「身分」や「階級」なんて、言語道断である。


それでは、何で判断するのか?と言えばそれは、

「心のありよう」である。

それしかないじゃないか。


表では天使のように微笑んでるひとが

裏に回ると 他人のことを口汚く、

まるで悪鬼のように陰口を言う。


そして

他人を傷つけ、押しのけることが当然のような顔をして

ひどく横暴な態度で臆面もなく生きてるひともいる。


そういうのは「反面教師」にしたい。

「ああなってはいけない」という、見本である。


そんな心ない人間の横暴さに、負けてはいけない。


生きづらい世の中ではあるが


すべてのロックンロール・ピープル達よ・・・・・・・



またいつか、飲んで大騒ぎしようぜ。




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