大晦日

2021-12-31 19:30:31 | Weblog

大晦日の夜から元旦の朝、というものを

実家で、両親と一緒に過ごしたのは多分、小学生までだった。

いや、中一まで・・・・かな。

コタツで、紅白歌合戦を見てた記憶がある。両親も、兄も、妹も一緒だった。

中二の頃からは大晦日は、友達と出掛けるのが習慣になった。

中学の時の初めてのバンドのメンバーたちと。

といってもあれは、中二、中三、高一・・・・の三回くらいだったのかな。

それはとても楽しかった。一晩中語り合うのだ。

音楽の事とか、これからの事とか。今となっては、なにひとつ覚えてはいないけれど。

 

高校二年以降は大晦日も、佐治たちと過ごしていたと思う。奈良の、佐治宅で。

でもそれも、よく覚えてはいない。

高2とか高3とかだからもう、ビールとか飲んでたな。

それはそれでやはり、楽しかった。不良ぶってた彼らと、ワイルドな気分だった。

 

高校出てからの大晦日は多分、毎年 「年越しライヴ」みたいなのに

出演していたことが多かったはずだ。

酔っ払って、へべれけでステージに立つのだ、いつものことだが。

そういう、おぼろげな記憶しかない。でも楽しかった感触は確実に残っている。

 

いつしか、「年越しライヴ」みたいな行事が下火になって、 

「ランブルフィッシュ」終焉後、そして「ばるぼら」終焉以降、

 僕は年末年始が忙しい・・みたいな仕事についてしまって、

2001年から2009年くらいまでは

年末年始が地獄だった。

大晦日なんて、ただの「超・忙しい日」でしかなかった。

大晦日も元日も働いた年もあったんだぜ。しくしく。奴隷か?俺は。

 

ここ10年くらいはトラックドライヴァー仕事(年末年始は休み)だし、

年越しライヴも相変わらず下火だし、

大晦日は毎年福山に帰って、どいけんと飲みながら年を明かすのが恒例だった。

もちろんだがテレビなど見ない。

紅白なんか知ったことではない。

ただ淡々と飲んで、音楽や生活や世界の在り方の話をした。

昔話を多少、することもあった。

気が付いたらいつも、年が明けていた。

 

去年も今年も、実家には帰らずに過ごしている。

当たり前だがもちろんテレビなど見ないし、

初詣も行かないから、「年末感」というか

「大晦日感」が希薄・・・・というよりは皆無である。

でもそれでいいような気もする。

ただ日が暮れて夜が明けるだけの話なのだ。

 

こういう暮らしをしていると、どんどんシニカルになって行くのかもしれない。

 

それがいいことなのか、それとも

悪いことなのか判断つかないけど。

 

 

 

 

今年の大晦日は久しぶりに風邪ひいてしまった。

 

 

 

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DO IT

2021-12-22 20:30:07 | Weblog

やりたいこと

 

やるべきこと

 

やるしかないこと

 

やらざるを得ないこと

 

万難を排してでもやること

 

ついやってしまうこと

 

やらかしてしまうこと

 

魔が差すこと

 

きっちりとやること

 

やりかけのまま放ってあること

 

どう頑張ってもやる気の出ないこと

 

そんなことするなんて想像もつかないこと

 

やってやってやりまくること

 

やりたくても出来ないこと

 

逆にやられちまうこと

 

やり方を模索中のこと

 

やる気満々なこと

 

誰かと一緒にやりたいこと

 

一人でやりたいこと

 

ヤリで鯛を突きたいこと(いかん、ダジャレだ)

 

絶対やってはいけないこと

 

やるまでもないこと

 

やってもやっても飽きないこと

 

諦めたつもりでそれでもやっぱりやっちまうこと

 

 

 

 

 

 

結論

 

やらない、という選択肢はないのだ。

 

 

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スタジオ、スタジオ、スタジオ!

2021-12-19 18:22:22 | Weblog

寒い寒い冬の夜、

我々ROCA’66は大阪某所にて、スタジオ入り。

メンバーみんなで、せーので音を出せるのが本当に楽しい。

我々のお年頃というのは一般的に、急速に衰えたり老けたりする年代である。

職場の同年代の同僚など、

申し訳ないがどう見ても「初老のおっちゃん」である。

我々だって、もちろん僕だって例外ではないのだが、少しだけマシではあろう。

そんな我々が今でもバンドを続けていられるのは

様々な偶然と必然の結果であって、

運命に感謝したい。

音楽へ向かう動機は、中学生だった頃とほとんど変わっていない。

モテたい?・・・・・いや、もう、それはないんだなマジで。

動機は純粋に音楽そのものへの興味と憧憬である。

(これがお金にならないってことも、もちろんわかっている。)

楽曲は小宇宙だ。

我々のような者たちが奏でる、「自作のポップソング」でもそれは変わらない。

ベースのフレーズひとつ、ドラムズの緩急ひとつ、

ギターの音色ひとつ 

で、その小宇宙はがらりと趣を変える。

言ってみれば、我々の思い通りにその姿を変えるのだ。

そして祝福にも呪いにもなる、「歌詞」としての言葉たち。

音楽には多少なりとも、呪術的なところがある。

 

もちろん、今の我々は、ライヴハウスでガンガンやれているバンドではない。

それどころか、ほとんど丸二年、

ライヴから遠ざかっている。

今は「アーティストのモチベーションが試されている」、と

誰かがラジオで言っていた。

確かにそうかもしれない。

いろんな事が終わってしまう前に、

ほんの少しでも奪還出来たらいいな、と僕は思う。

 

 

兎にも角にも、バンドは生き生きと生きている。

そのことが僕を、心からほっとさせる。

 

 

スタジオ後の肉体的な疲労は年々激烈になるのだけれど、それでも。

 

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アウトテイクのアウトテイク。

2021-12-11 19:46:36 | Weblog

それにしても今更・・・というか、

結局

ある程度の時間が経たないとわからなかった事柄、というものって

けっこう多くあるのだ世の中。

 

今日の「WEEKENND SUNSHINE」でピーターさんが言っていたのだが

ストーンズの1981年発表のアルバム「刺青の男」は、

1972年から1979年までの録音物のアウトテイクを寄せ集めて

作られたらしい。ピーターさんも「そんなこと知らなかった」と言っていた。

そういえば最近のキースだかロンだかの発言で、

「あれは不思議なアルバムだ・・・いつの間にか(知らない間に)出来ていた」

みたいなのがあった。

・・・・・・・・・・・・・そうだったのか。

いまWIKIを見たのだが「刺青の男」は、

「短期間で製作された」という記述しかなかった。

さもありなんだよな。

「スタートミーアップ」が、アウトテイクのリフから作られた、

という話は流通していたのだが、

まさかの”アルバム全体が一種の「アウトテイク集」”だったのだ。

しかもその事実は伏せられていた。

最近になってその情報は開陳されたのだと思う。

確かに、アルバムとしての統一感は皆無だが、

そんなことは構わずに十代の僕は聴いていた。

・・しかし、世の中って色々あるなあ。

 

その「刺青の男」のアウトテイクである

(アウトテイク集のアウトテイク???????)

カヴァー曲、「ドリフト・アゥエイ」が今日はかかったのだが、

まあまあ良かった。キースのへなちょこなコーラスが良い。

 

そして今日の「WEEKENND SUNSHINE」の中で、

リスナーからのメールで

「ピーターさんは80年代ストーンズは無視ですかね?」

というようなのがあって、それに答えてピーターさん、

「アルバムは1972年のエグザイルオンメインストリートまでですね」

と、さらっと言った。

「その後も、いい曲はあるんですよ」とも言ったのだが、

 

しかしなあ・・・時代的に、その近辺から聴き始めた者としては、

「刺青の男」までは現役ロックンロールバンドとしてストーンズを

評価したいところなのだが、でもあれ・・・既に「アウトテイク集」だったのだよね。

でも、そう「女たち」くらいまでは入れようよ。

あれは「パンクに対する返答」だったらしいし、

そういうのって「現役ならでは」の反応じゃないか。

何と言っても「ビーストオブバーデン」だって入ってるし。

あの曲・・・・ストーンズのギターミュージック的サザンソウル解釈というか、

小粋なギターの応酬で、とても好きなんだよ。

 

 

 

 

ところで、「ドリフトアウェイ」の事なんだけど・・・・・

アウトテイクのアウトテイクってそれもしかして、二重否定で

「肯定」になるか知らん????????

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「手放す」ということ。

2021-12-08 21:13:24 | Weblog

僕はもう、これ以上何も求めまい、と半ば本気で思う。

 

今後は、捨てていくのだ、減らしていくのだ、手放すのだ。

 

少しでも、身軽にならなくてはいけない。

 

だから、

今まで得て来た物たちを、ひとつずつひとつずつ、置いていく。

考えてみたら

僕の所有物であっても、「僕の物」など本当は何ひとつないのだ。

ただ一時的に手元に在る、ってだけの話。

 

物は、ただ物でしかない。

 

 

 

僕はずっと、特別な物が欲しかった。

そのためにいろいろと、足掻いて来た。

 

 

「特別な物」とはつまり、

近所のスーパーや、

街中のデパートなんかでは決して売っていないもので、

(古道具屋や、フリマや四天王寺の朝市や、神戸元町高架下なんかには稀に、あったりする。)

言ってみれば、オカネなんかでは買えないもので、

 

もしそれが手に入ったからといって

自分自身がそれを使えなければ何の意味もないもので、

 

それを使うためには

自分自身が「進化」しなければならないもの・・・・・・・・だった。

 

 

いろんな事がとりあえず終わった今現在

 

(まだ終わってない物事ももちろん、たくさん在る)、

 

僕が果たして、進化出来たのだかどうか、わからないけど

 

(退化してたりして)。

 

 

 

 

でも「物」はいつも素敵だった。

 

 

物欲はまるで、「生きる意欲」そのもの、みたいな感じだった。

 

 

そして今でも物たちは、充分素敵だ。

 

 

でもこれからの僕は、「得る」ことなく、

 

いろんなものを 捨て去って行こうと思うのだ。

 

 

 

 

 

いつか僕が死んだら僕の「物」たちは全部ゴミ・・・・・・・なんて

 

 

考えたくもないのだけれど。

 

 

 

 

それが一種、真実である・・・・・・としても。

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ハッピー・バースデー・トゥ・トム・ウェイツ。

2021-12-07 21:43:52 | Weblog

今日の仕事の終わりかけの頃、

名神高速京都南の出口近くで

聴いていたラジオ、FMココロのマーキーの番組の最後で

「今日はトム・ウェイツの誕生日だから、一曲かけましょう」

とマーキーが言って、かかったのが

「トム・トラバート・ブルース」だった。・・・しみじみ、良かった。

 

この曲・・・・・・本当に本当に好きなのだ。

まだ二十代だった頃、それはつまり、アメ村にいた頃、

すがりつくみたいにしてトム・ウェイツを聴いていた時期があった。

その頃はトム・ウェイツのこと、普通の人は知らなかった。

よっぽどの洋楽好きしか、知らなかった。マジで。

 

僕が聴いてたのは、

1STアルバム、「クロージング・タイム」

3RDアルバム「スモール・チェンジ」。

その二枚を長いこと(一年くらいかけてじっくり)聴いて、

そのあと遂に、記念碑的、かつ破壊的な傑作「レイン・ドッグス」にたどり着く。

その感動といったら!!!!!!!!

 

その頃の僕は 夜中に一人で、

瓶詰めの輸入ビールをラッパ飲み(そういうのがかっこいいと思ってた)

しながら、

トム・ウェイツを聴きながら、

ケルアックの「路上」を読みながら、

放浪に憧れた。

実際、

大阪・ミナミの「不良外人が集まるバー」といわれた「P&W」に、

一人で飲みに行き、

そこで意気投合した日本語も片言な奴の部屋に泊めてもらったりしていた。

そういう夜がいくつもあった。

それは僕にとっては、都市の中の放浪・・・だった。

 

ワルツィング・マチルダと

この歌(トム・トラバート・ブルース)のサビは歌うのだが、

その意味も当時は知らなかった。

買ったレコードに、訳詞が載ってなかったのだ(輸入盤の中古だった)。

後で知ることになる、ワルツィング・マチルダは

大雑把に言えば「放浪する」という意味だった。

 

僕は全然、間違っていなかったのだ。

 

トム・ウェイツは今日で72歳だそうだ。

あのひと、ある時期からお爺さんみたいなルックスになってたから、

まだ72歳?という気は確かに、する。

 

 

トム・ウェイツを僕が知ったのは

「レイン・ドッグス」が出たばかりの頃、

ラジオで どいけん が発見したのだ。

ストーンズの、キースが参加してる曲。

帰郷した福山で

それをテープレコーダーで録ったのをどいけんが聞かせてくれた時に、

「これは!!!!!!!」と思った。ピン、と来た。

そして、このアーティストはきっと、自分にとって大事な存在になるから

慎重に、大事に、この人の1STアルバムから聴いてみよう・・・・

と思ったのを今でも覚えている。

そして僕は、その通りに行動した。

 

そしてそのあと、大阪に帰ってから

中古レコード屋でトム・ウェイツの1STアルバムから探して買って、

大事に大事に、聴き始めたのだ。

 

 

大声で言うが、僕はトム・ウェイツのファンだ。

残念ながらライヴを生で観たことはない。

でも「トムズ・キャビン」の浅田さんにはアメリカ・テキサスで

お会いしたことがある。SXSWのときに。

 

それにしても、

何気なくラジオで「トム・トラバート・ブルース」がかかるなんて、

 

なんて素敵な世界なんだ。

 

 

 

 

さて明日は太平洋戦争の開戦忌念日で、

 

 

1980年には

ジョン・レノンが撃たれた忌まわしい日・・・・だね。

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北極熊と人間は違う

2021-12-05 19:14:25 | Weblog

誰も

他人と関わらずに生きていくことは出来ない。

北極熊(の雄)なら生涯一人(っていうか一匹)で生きられるのだが。

 

だから人と人とのつながりってとても難しいけど、

それは大事なものなのであろう、と思う。

 

僕は時々、自分は 他人に振り回され過ぎてるんじゃないか?と

感じることがあるのだが、

それはどう考えても、逆も然りで、

僕の身勝手さや傲慢さで他人を振り回している、という側面もきっと、

多々あるのだろう。

 

振り回されることと振り回すことの違いは、

その回転の中心が何処にあるか?ということだよね。

 

僕は・・・自己中心的にはなるまい、と自戒しながら

日々を生きているつもりなのだが、

自分は自分でしかないので、完全にそうなる事は不可能である。

 

せめて「我の強い人」にはなるまい・・・と思うのだが、

あまりにもそういう行動を取り過ぎると「気の弱い人」になってしまう。

自分で自分を抑えすぎてしまうのだ。

 

でも僕は他人から「我が強い」と言われることが稀に、ある。

でも時には「気が弱い」と嘲られることもある。

 

いつもではないが、わざと気の弱いフリをすることもある。

 

何故そんなことをするかというと、

タイプ的にそういう人の方が好きだからだ。

 

でも「あ、俺今我を通そうとしてる」と自覚する瞬間もある。

 

どちらにせよ、

他人にあまり多くを求めまい、とは思う。

他人に興味を持ち過ぎまい・・・・とも。

 

しかしもちろん、他人に一切興味がないわけではない。

 

 

自己完結したり、自閉したりするのは

決していいことではないのは自明の理だ。

 

 

しかし眠って夢を見ている時って、人は誰もが

完全に自閉しているように思う。

 

夢の世界はだから基本的にぬるくて、

心地良かったりする。

 

眠りながら生きるのもなかなか素敵なのだけれど。

 

 

何の話だったっけ?

 

 

 

 

そうそう、「関係性」だ。

 

 

大事なのはやはり、

 

「距離感」というか・・・・・「間合いの取り方」かな。

 

 

 

 

あ、今気づいたんだが

 

北極熊(の雄)って生涯単独で行動するけど、

 

 

そういう風にしか生きられないんだな逆に。

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LGBTQ

2021-12-01 21:28:38 | Weblog

 

 

以前は確か、LGBTだったのだけれど、

いつの間にかQが加わっている。

LGBTQ。

「僕はイエローでホワイトでちょっとブルー」の文中にも

Q付きで登場していた。

Qとは、クエスチョンの頭文字であるという。

つまり、自分の性的指向が、わからない・・・まだ模索中、

ということであろう。

ふむ。そういう人もいるのか。

僕は、そういう人の話を直接には聞いたことがないけれど、

想像して了解する。オッケイ。

しかしそうすると

この後、名称がどんどん追加されてゆくのではないか?と

思わなくもない。

 

例えば、

ナッシングのN、っていうのもあってしかるべきかもしれない。

ナッシングというのはつまり、

他人を恋愛的に(そしてもちろん性的に)必要としない、

という指向。

 

恋愛とかそういうのって若い時期にはいろいろな物事の

ジェット燃料になる。

モテたくてバンド始めた人も多い。

僕はどうだったっけ?・・・・・もう忘れたな(嘘)。

 

でもそういう衝動に駆られない人も、いるのだ。

 

何だか羨ましい気もするし、

そうでもない気もする。

 

でもちゃんと、尊重する。

 

思うのだが

ある程度歳を取ると、

新しい出会いとかを欲しなくなる傾向にあるように思う。

 

きっと我々はだんだん、そういうナッシングみたいな心情を

理解できるようになるのかもしれない。

 

買い物よりも断捨離の方が楽しい・・・ような心情か。

 

そんな風に贅肉を削ぎ落して削ぎ落として、

「骨だけになって、でもでもいつも好き」

(ローザルクセンブルグ「ひなたぼっこ」より引用)

みたいになれたら

すごくいいのかもしれない。

 

 

 

そういえば最近、「ハリポタ」の作者の女性が

トランスジェンダー(特にトランス女性)を認めない、

というような趣旨の発言をして炎上していて、

興味深かった。

 

 

なかなか難しい問題ではあると思う。

 

「性別」とはそもそも一体、何ぞや???????という

哲学的命題に踏み込むことになるからだ。

 

 

 

面白みのないストレートである僕がいろいろと考察して発言しても

説得力というか、深み・・・・みたいなものは

ないのだけれど。

 

 

 

 

 

 

あ、そうだ俺オカマだった忘れてたよ(嘘)。

 

 

 

 

 

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