年末、読書、ブックオフ、ラモーンズTシャツ。

2020-12-31 12:31:25 | Weblog

今日で2020年も終わり。

世間的に激動だった今年・・・の大晦日は、

年末らしい寒さ。

 

ここ最近は読書から少し離れて生きていて、

それは日々の糧を得るための「仕事」が忙しかったせいで、

そういうのは人としてそんなに極悪なことではないよな・・・・などと

自己弁護的に思うのだが先日やっと、年末の休暇が訪れたので僕は

近所のブックオフを訪れて、何冊か本を買った。

この辺りは引っ越してきた頃は小さな古本屋が何軒もあったのだが、全部消えてしまって・・・・・・

今では巨大なブックオフが大きな顔をしている。まあ、本が買えりゃそれでいいんだけど。

 

 この年末年始は、

例によって例のごとくの「新型コロナウィルスの感染拡大防止」の観点から

帰郷を断念していて、まぁ無理やり帰ったっていいのだけれど向こうも迷惑であろうし、

京都にずっといることにしてるので、読書くらいしてもバチは当たらないであろう。

 

しかし読書から少し遠ざかっていたので、新刊情報とか、この作家が・・・みたいな狙いもない。

まったくアテなくブックオフの書棚をさまよったのだが、

やはり書棚の迷宮にはいつでも、興味深い本が僕を待ってくれているのだ。

まず、フィリップKディックの「ザップガン」を発見した。多分、新訳。

まだ読んでないディックの小説!これ程嬉しいものは、他にはなかなかない。

そして次に・・・・尾辻克彦。これって確か、赤瀬川源平の変名だったよな。

「父が消えた」という小説。確かこれは、大昔に、芥川賞を受賞してるハズ。

僕は、赤瀬川のファンなのだけれど、この「尾辻」名義の小説にはまだ、手を出していなかったのだ。

ほくほく。赤瀬川ならきっと、面白いに違いない。

そして出口近くで発見したのが写真の、村上春樹の「村上T」。これは古本ではなくて、新刊。

村上さんのTシャツコレクションの一部が、写真と文章とともに紹介されている、という

ユルい本。

 

ウチに帰って、鼻風邪気味でもあったので布団に潜り込み、本を堪能する。

すると、「村上T」の中に、衝撃の一文が。

一文、というか、巻末の、編集者によるインタヴューのなかで村上さんがこう言ってるのだ。

「この前、京都のブックオフでラモーンズのTシャツがあったので、これはいいやと思って買いましたけど」

ついさっき京都のブックオフで買った本に、このような文章が載っているとは、

なかなか楽しい偶然ではないか。

しかも村上さん・・・・京都のブックオフにいたりするのね。

京都といっても実は広いから(例えば舞鶴なんてはるか遠くだ!)、ブックオフは何軒も何軒もあるし、

全然「偶然」じゃないのかもしれないけど、

村上さんの小説を1983年くらい・・高校生だったころから読み始めた「初期からの支持者」

を自認している僕としては、嬉しかったのだ。

 

しかもラモーンズ。ラモーンズは、数あるバンドの中でも重要なバンドである。

僕ももちろん大好きだし、来日公演を見に行ったこともあるし、

ラモーンズゆかりの、NYのCBGBに出演したことすらあるのだ僕は。

 

そして、尾辻克彦の「父が消えた」も、予想通り、とてもとても興味深く、

面白おかしく読めた。変名を使っているので、全然違う感じで書いてるのか?とおもっていたのだけれど、

全然、いつもの、あのとぼけた風味の「赤瀬川源平」全開だった。カメラのこと言ってるし。

ただちょっとこの時期彼は、自身の文体で「純文学」に挑戦しよう、という

気概があったのかな?と思わされた。

赤瀬川さんも亡くなって久しい。

この表題作の「父が消えた」の初出が1980年の「文学界」だそうだ。

僕は、まだ14歳・・・・・・。福山の中学生だった僕はこの年、土井健と出会っているはず。

そしてこの「父が消えた」が文庫化されて第1刷が1986年8月、と奥付にある。

僕が20歳になる直前で、しかも「アメ村入り」する直前。

 

自分の中ではその頃って、激動の時代 なのだ。

人生がガラン、ガランと大きな音を立てて変わっていった時期。

その頃に、世間を賑わせていた本なのだ、と思うと

感慨深いし、愛着も湧く。

 

それを21世紀の今、このコロナでまた激震している世の中の、

京都の端っこのブックオフで買ってきたこの本を、

老青年になった僕が読んでいる。

 

村上春樹がそこでラモーンズTシャツを買ったかもしれないブックオフで。

 

 

 

考えすぎかもしれないけどさ。

 

 

そういえば村上さんって、産まれは京都なんだよね。

もしかして、親戚とかいるのか知らん????

 

 

「ザップガン」は、年始のお楽しみ。

ぶっ飛び過ぎてついていけない・・・・ような作品でないことを祈る。

(ディックには、たまにある。)


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「時間」について、「年齢」について。  2020年、冬。

2020-12-27 19:04:40 | Weblog

こないだ、ふと気づいたんだけどさ、

例えば・・・・・・・・・・・15歳の少年、もしくは少女が

30過ぎになるまで、たった15年しかないんだぜ?

 

短い。

 

言うまでもなく、僕も、そして「君」も、15歳の少年、もしくは少女だった。

 

そこからたった15回の春夏秋冬、たった15回の年末年始を経れば、もう30歳過ぎで、

「もう若くない」と他人から言われたりする。

 

でももう、その30過ぎの時代もとっくに過ぎ去ってしまって今は

50代半ば、である。

 

30過ぎだった時代を今では「若かった」と思ってしまうけど、

 

もしも90歳くらいまで生きたとしたら、50歳代の時代を

「若かった」という感慨とともに思い出すのかもしれない。

 

そんなに長く生きられるかどうか?は、誰にもわからない。

 

しかし思うのだけれど

 

「世に出る」ためには、若いうちに挑戦して、しかも成功しなければならない。

 

僕は27歳の時に、ビクターレコードの担当者から「歳喰いすぎ」と言われた経験がある。

 

は?

 

まあいいけどさ。限定されたものだったにしろ・・・・それは正論だったんだろうし。

 

今思えばあそこで無理やり頑張ってしがみついて、いい格好をして、

「メジャーと契約」なんて、しなくてよかったのだ。

 

バンドはもう解体寸前だったんだから。

 

 

人生は長い、と僕は思う。

 

 

でも「世に出る」チャンスのある時期って実は、すごく短いのだ。

 

 

 

自問自答する、俺は、「世に出たかった」のか?

 

 

まあ・・・・・どっちでもよかった。

 

 

 

その程度の執着心の奴は、それでよかったんじゃないかな。

 

 

 

小市民的な、今の生活を僕はけっこう、気に入ってすら、いるのだから。

 

 

 

それにしてもそれにしても。

 

 

 

「年齢」とか「時間の経過」とかって、

 

 

 

どんな風に、どんな角度から考えても不可思議で不可解で、

 

 

 

わけわかんない

 

 

 

わよ。

 

 

 

 

 


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冬至、クリスマス、言葉、論理、音楽。

2020-12-25 21:03:08 | Weblog

今年の「冬至」は、今週の月曜日、12月21日だったみたいだ。

 

「冬至」というのは一年のうちで最も夜が長く、昼間が短い日である。

要は、太陽が出ている時間が、一年の中で最も短い日なのだ。

昼12時の太陽の位置が一番、北寄りになるんだったよな、確か。

いや、登る高度が一番低い・・・のかな。

 

でもこの「冬至」の次の日から逆転が始まる。

 

つまり、「冬至」のこの日が、「冬の底」なのだ。

 

そういう理由で「冬至」は、死と再生の象徴とされることがある。

 

「死」の日に「再生」を祝うのだ。

 

ところで今日は、クリスマス当日なのだが

僕は今やもう、クリスマスになど、何の興味もない。

 

はぁ・・・・そうですか・・といった感じ。

 

 

でも、もしかしてクリスマスというものが「冬至のお祝い」が変化したもの、であるならば

(その可能性は高いのだ)、それは面白いかもしれない。

 

クリスマスの何がつまらないかって、それは画一的なところである。

 

サンタクロース、クリスマスツリー、プレゼント、トナカイ、雪。

それがどうした??????と思ってしまう。

 

思うのだけれど、西欧の人たちはどれくらい真剣に、

ジーザスクライストとその恩寵を信じているのだろう?

 

・・・そのことで戦争さえ起るのだから、彼らがある程度「マジ」なのであろうことは想像がつく。

 

それにしても、何処まで本気なのか?ってことは、僕にはわからない。

 

「信じる者は救われる」、なんてことを言われ続けたらいつか、信じるようになる・・・のかな。

 

 

かえりみて

 

僕自身は一体、何を信じて生きているのだろう?

 

 

言葉・・・・・・・・・・・・・・・・・・だろうか。

 

 

もっと言えば、「言葉から派生する、論理」

 

 

なのかもしれない。

 

 

 

でも、だからと言ってそのことで「いつか救われる」などとは、

毛ほども思っていない。

 

 

 

そういえば・・・冬至が再生、というのも、

 

ひとつの「言葉の論理」では、あるよな。

 

 

 

その論理が天文学へとつながり、

 

 

そしてそれがやがて、実際に宇宙に飛び出してゆく「はやぶさ」みたいな

 

 

高度な知性につながるのであれば、僕はやっぱり

 

 

「論理」を信じよう、と思う。

 

 

 

論理と、言葉と・・・・・・・・・・・・・・音楽も(おーい、音楽は、おまけか?)。

 

 

 

音楽って、算数みたいな「理詰め」のもの・・・なんだけど それでいて

 

 

 

「理屈を超えたもの」でもあるから素敵だ。

 

 

 

「文系」が裏返って「理系」・・・・みたいな感じ。

 

 

 

その逆も、然り。

 

 

 

 

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99,9%の確率で。

2020-12-22 22:05:55 | Weblog

その「夢」は実体化したあと、しばらくは低空を飛んでは、いた。

とても不安定な飛び方ではあったが 一応、

「飛行している」と言えなくもない程度には。

 

だがしかし、そんなのが長続きするハズもなく、

嵐の中の紙飛行機みたいにそいつは・・・・・・ある日、あえなく墜落した。

 

幻みたいなチラチラした影が、

そのあともその辺の空域をうろついていた、と言う人もいるけど

僕はそれは、ただの目の錯覚だと思う。

 

でも懐かしい程のスピードで、

実体化したそいつがこの世界に実在したことだけは本当であると

信じたかった。

 

痛みを伴う喜び、

棘の刺さったような喪失感、

遠い海の陽炎。

 

 

僕はそんなもの達に囲まれて、永くここに居すぎたのだ。

 

かと言って今や、去り行く場所もないし、

退場のタイミングは、見事に逃した。

 

でも、それで良かったのかもしれない。

 

忘れ去られ、冷蔵庫の中で腐り果てる鶏卵のごとく僕らだって

誰にも気づかれず、生ゴミとしてゴミ箱に捨てられた可能性だってあったのだ。

 

それに比べたら、

 

ほんの数センチでも浮いてたぜ、空を飛んでたんだよ、俺はそれを見たんだよ、って

誰かが言ってくれたんだったら、

それはそれで、良かったのだ。

 

 

 

事実は事実でしかなくて、

それ以上でもそれ以下でもないから。

 

 

 

 

パーセンテージの数値がたとえ、どれだけであろうとも。

 

 

 

 


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極端。

2020-12-19 20:09:29 | Weblog

 

何故「逆ねじ」と「両ねじ」の両方に翻弄される身になったか?といえば

僕が「世を忍ぶ仮の姿」として、

今は運送業界に身を置いていて、以前・・・8年くらい前までは

時計業界の端っこに身を置いていたからである。

 

「両ねじ」は、時計世界の出来事で、

「逆ねじ」は、トラック業界の出来事である。

 

わりに、極端な転職をしたのだ。「世を忍ぶ仮の姿」とは言え。

そのせいで、面白い体験をしたと思っている。

 

そのことを思い出したので、今日はそれを。

 

 

 

西暦2001年ごろから、時計業界に入った。

店頭で販売する立場だったのだが、検品もするし、サイズ調整もする。簡単な修理もする。電池交換もする。

 

高額な時計を多数、扱っていたので検品は、ほんの小さな小さな、0,1ミリ程度の傷でも

見逃してはいけない。見逃したら、責任問題になってしまう。

そういう世界に、10年ほどいた後、大型免許を取って、

ダンプ運転手になった。トラック業界に転身したのだ。

 

ダンプ運転手になってまだ初期の頃、とある仕事で、

10トントラックにいっぱいの土砂を運ぶ、一番よくあるダンプの現場行った。

積みの現場で土砂を積み、降ろす現場まで行ったらそこは何もない、ただの広い空き地で、

現場にいたおっちゃんに僕は尋ねた。

「この土砂、何処に降ろしたらいいんスか?」と。

おっちゃんは言った、「その辺適当に、どこでもエエわ」と。

だだっ広い空き地である。

何て・・・何て大雑把な仕事なんだ、と僕は感動した。

 

そのつい何か月か前まで、ほんの0,1ミリの傷に右往左往していた同一人物が今日は

10トンもの土砂を「どこでもエエわ」と言われている。

 

0,1ミリと10トンの対比。

 

その現場の仕事は5台くらいのダンプでやっていたのだけれど、

朝から始めて、夕方には僕は「ああ、そうか」と納得していた。

その空き地だったところには小ぶりだが確かな「山」が出現していたのだ、何往復もした我々の手によって。

こうなることを知っていたのなら、初めの「一杯」など、そりゃ「どこでもエエ」よな。

 

ロレックスもカルティエも、クソ喰らえ・・・・ではない、「土砂喰らえ」だわよ。

 

ははは。

 

 

とは言え後になって、

トラックの運転は精緻を極める・・と言うような部分もある、とわかってきた。

 

ほんの数センチの間隔で大型トラックと大型トラックがとんでもなく狭い道ですれ違う。

ほんのちょっとハンドル操作を誤れば大事故につながる。

 

 

だから僕は、0,1ミリの傷に右往左往するのと同じ気持ちで、

巨大な(と言っても今は4トン車だが)クルマをまるで

「ハウルの動く城」のごとくに、

0,1ミリのペン先でイラストに「ペン入れ」をするように、

レコーディング現場でミックスダウンをする時のように、

繊細に、丁寧に、運転しよう・・・・と心に誓うのであった。

 

 

僕は、世にも珍しい(そうでもないかな?)、

「時計修理技能士3級の免許を持っているトラック運転手」なのだ。

 

 

ま、3級は大したことないんだけど。

 

あ、そして本職はバンドマンなのだソングライターなのだ、ミュージッシャンなのだ

(それを言うのを忘れてどうする俺?)。

 

 

 

 

 

ところでこのブログのタイトル、始めたときの思い付きでこんなのにしたのだが

・・・・・・・・・・・・・・・・今となっては微妙。

 

 

ブレーキは大事だ、と切に思う。

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「逆ねじ」と「両ねじ」の話。

2020-12-18 22:05:15 | Weblog

このコロナの世相とも関係ないし、

音楽とも文学ともアートとも関係ない、「ねじ」の話をするね。

 

えーっと、トラックとかの、進行方向左側の、

タイヤのホイールについてる、タイヤ取り付けのための「ナット」って、

「逆ねじ」になっているのだ。

 

「逆ねじ」?????

 

普通、というか世間に流通しているほとんどのボルトとナットは、

右側に回したら締まる、左側に回したら緩む、ということになっている。

これは統一されてるのだ。そうでないと、ややこしくて仕様がないから。

右に回せば締まる、のが言わば「順ねじ」である。

でも

トラックの左側だけ、それが逆になっていて、

左側に回したら締まる、右に回したら緩む、というふうになっている。

これが「逆ねじ」。

何故そうなっているのか???はきっとちゃんと、理由があるのであろう。

恐らく・・・左側のタイヤはずっと左向きに回転しているから、その動きで、ナットが緩む・・・・

のかもしれない。っていうか、きっとそうなのであろう。それしか考えられない。

同じトラックでも、進行方向右側のタイヤ取り付けナットはちゃんと、「順ねじ」だ。

 

しかし「逆ねじ」を制作するのは実は、厄介な作業なのだ。

鋳型から「逆」のものを制作せねばならない。まあ、大量生産するんだからどうってことないかもだけど。

 

このことは、自動車整備士の間では「そんなの常識」である。

エジソンは偉い人、というように、キオスクは駅の中、というように。

タッタタラリラ、というように。

 

トラックのタイヤ取り付けナットは直径10センチ近くもある巨大なものだ。

文鎮に使えそう。ずしっと重い。

 

 

 

 

 

 

次は、ぐっと小さくなって、ねじ頭の直径が1.5ミリくらいの、

高額腕時計の、ブレスレットの、っていうかつまり金属ベルトの接続部のねじ。

 

普通の金属ベルトの接続部は「割りピン」という特別な棒で接続されている。

 

時計の金属ベルトの長さを調整するときは普通、この「割りピン」を

専用の工具で叩いて外して、また叩いて取り付ける。

 

これが高額時計になると、調整できる接続部が「ねじ留め」になっていることがある。

 

ミリ単位の小さな小さなねじとねじ穴は、それらを作る機械が高額なので

高額時計でしか「ねじ留め」のものは見られない。

 

そのなかでもさらに高額な時計のなかには「両ねじ」のものが、たまに存在する。

 

「両ねじ」????????

 

「両ねじ」とはいったい何か?

 

 

例えば時計屋が、ブレスレット部にねじ頭を発見して、

あ、この時計はねじでブレスレットの長さ調節するタイプだな、と思い、

ねじを精密ドライバーで回しても、空回りするばかり。

ん?と思い、反対側を見ると、同じようなねじが。

今度はそちらを回すと、やはり、空回りする。これが「両ねじ」である。

まるで妖怪譚みたいでしょ。

 

まず、小さなねじを作ったと思いねえ。棒の部分の長い、小さなねじ。

その細い細い、ミリ単位の小さな「棒」の一端にねじ穴を作って(「メス」の側)、

反対側はそれに入れる「オス」のねじをまた作る。「オス」と「メス」、それで一対。

そういう「棒」が、「割りピン」のかわりに、入っている。

言葉だけで説明するのはとても難しいのだが、「両ねじ」とはそういうものなのだ。

要は、お互いがお互いのストッパーになっている。

 

 

だから、反対側を精密ドライバーで押さえたまま、そのまた反対側のねじを回さないと、

ねじは永遠に緩まない。

 

ミリ単位に小さいからそれが、やりにくいの何の。

 

まるで「嫌がらせ」のような機構なのだ「両ねじ」って。

 

おフランスの「カルティエ」の時計にこの機構は多い。当然、とても高額である。

一世を風靡した「フランクミューラー」の時計のブレスレットも確か、そうだった。

それを調整するときには当然だが、ねじ頭にすら傷をつけてはいけない。

ねじ頭も鏡面処理してあって、ピカピカなのだ。厄介なことこの上ない。

 

これが「両ねじ」。

 

 

 

 

 

 

この、

「逆ねじ」と「両ねじ」。

 

 

大きさも強度も、その存在意義も、全然違うのだけれど、語感だけはちょっと似ているのが可笑しい。

 

 

はっきり言って、どーでもいい話なのだけれど、

 

 

「逆ねじ」と「両ねじ」、どちらにも翻弄されたような人間って、

案外少ないかもな・・・・・・・・・・・・・・などと思い、

ここに書いてみようと思った。

 

 

初デートで延々こんな話をした、としたらきっと確実にフられるであろうことは想像に難くない。

 

 

うーん。

 

 

 

でも君は、

 

 

僕のことをフらないでください。

 

 

 

 


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調和した世界

2020-12-13 15:38:19 | Weblog

 

 

 

鷹揚な人間になりたい。

 

寛大な人間になりたい。

 

 

 

少しの事では動じないような、心の広い人間が私の憧れなのだ。

 

 

現実の私はピーピーして  ヒィヒィ言って

あくせくして  焦りまくって   ドタバタして

もがいて  足掻いて  足掻いて  悪あがきして   

しがみつくようにして毎日を生きている。

 

世界は何故、こんなに過密で  冷徹で

機械的で  杓子定規的で  経済優先で

冷たくて  無残なのであろうか。

 

私にはわからない。

 

 

ただ太陽のような君だけが世界を暖め、

氷を溶かし、

光を地上にまき散らし、

あらゆる命に祝福を与え続けるのだ。

 

 

太陽がなければ命は在り得ないし、

もしも月がなかったとすれば世界は

バランス的に存在し得ない。

 

 

ここは、様々な要素が奇蹟的に調和した世界であるのだ。

 

 

 

 

その鍵は多分、君が持っている。

 

 

そして私は君みたいに鷹揚で寛大な人間になりたい、と

 

 

 

日々、思い続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真は、我が家の、デッサン人形

 


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怒髪天 ヘヴィ メンタル アティテュード。

2020-12-09 21:27:29 | Weblog

12月の6日の中部地方のFM局「ZIP FM」の夕方の番組に

怒髪天の四人が登場して、一時間、司会者もなしに彼らメンバーだけで

喋りまくり、怒髪天のニューアルバムからの曲をかけまくる、という特別番組があった。

 

僕はそれを今日、ラジコのタイムフリー機能で聞いたのだが、最高に面白かった。

 

司会者もなし・・・なら普通もっとグダグダになりそうなものだが、

まあ、グダグダに聞こえた人もいるだろうが、それなりにちゃんとしてた。

 

聞いてるとまるで、昔みたいに彼らと居酒屋でビール飲みながら馬鹿話してるみたいな気分になった。

 

全然変わらない彼ら。

 

しかしこうやって客観的にラジオなんかで彼ら4人が話してるのを聞くと、今更ながら彼らって

「キャラが立ってた」んだなあ・・・・と思う。

 

主役で、オールマイティに面白いヴォーカル・増子兄ィ。

 

優等生的で切れ者で、それでいてイヤミのないギター、友康。

 

徹底的にボケまくるドラムス、坂さん。

 

トボけているがそれなりにツボなことを言うベース、シミー。

 

この四人ならでは、の味がある。

 

ところで今日初めて、そのラジオで彼らのニューアルバム「ヘヴィメンタルアティテュード」の

タイトルナンバーである「ヘヴィメンタルアティテュード」という曲を聞いたのだが、

その意味性の意外さに大笑いしてしまった。

「ヘヴィメンタル」って、「憂鬱」とかそういう感じだと思い込んでいたのだ僕は。字面だけ見て。

昔の怒髪天に「マン・イズ・ヘヴィ」というのもあった。あれは「男はつらいよ」だ。

だから「ヘヴィ」だけどがんばるぜ・・・・みたいな歌詞か?と勝手に思っていたのだが

実際のその曲のサビは「絶対に傷つかない心」「折れない心」だった。

「ヘヴィ・メンタル」ってつまり、「折れない強い心」だったのだ!!!!!

 

そっちかよ笑。

 

ヘヴィ・メタルと語呂を掛けてるからこの言葉になるんだろうけどさ。

 

しかし、あんな風に精神的にタフに見える増子兄ィがこの歌詞を書いたのだ、と思うと

なかなか感慨深い。

 

つまり・・・・彼らだって「傷つく」のだ。だからこんな歌詞を書くのだ。

 

「四十にして惑わず」とか言われて、オッサンって図太くて、傷ついたりしない、とか思われがちだけど、

 

そうではないのだ。

 

 

人間、いくつになっても傷ついたり、落ち込んだり、他人を羨んでしまったり、

 

誰かに嫉妬してしまったり、

 

誰かをひがんでしまったり、

 

するのだ。

 

 

 

俺だけじゃないのだ。

 

 

 

そう思ったらすごく元気が出た気がした。

 

 

 

 

サンキュー怒髪天。

 

 

 

 

 

 

次に会えるのはいつになるだろうね?

 

 

 

 


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超深層心理的

2020-12-06 17:08:13 | Weblog

「生きること」は、とてもとても”両義的”な行為である、

と言うことを私は、

今朝見た夢の中で思い知った。

 

夢の内容はあらかた忘れてしまったから

ここに言語化して記すことは出来ないのが悔しいのだが

 

きっと、

 

私の哀しみは私の喜びであり失望は希望であり、絶望はスタート地点であり、、

私が憎んでいるものは私が憧れているものであり、

喪失は単に、獲得の裏返しでしかない。

 

究極的には我々は死とともに生きているのだ。

 

こないだ使って自分でハッとしてしまったのだが、

「宿命」という言葉はとても重い。剃刀の刃にうっかり触れてしまったみたいだった。

どこまでもどこまでも深読みしてしまえる言葉。

 

そうそう、その夢の中ではエロスが確実に死のイメージだった。

 

そして死は再生のイメージ。

 

 

断片的にしか思い出せなくて歯痒い。

 

 

きっと我々の脳には「夢を記録しておく」という機能がないのだそもそもの初めから。

 

 

だからあっさりと忘れていく。

 

イメージもやがて跡形もなく消える。

 

 

夢の中でも私は、まるで「もがく」みたいに、「しがみつく」みたいにして生きていた。

 

 

その点は、目覚めても同じだ。

 

 

違うのは、夢の中では深層心理的なあれこれ・・・・・が、

 

現実として、姿かたちを持って現れていた。

 

 

 

あの世界って

 

 

気が遠くなりそうなほど甘美で

 

 

それでいて

 

 

 

底知れず恐い。

 

 

でもそんな夢を見たおかげで今の私は

 

 

まるで浄化されたような気分。

 

 

 

 

濾過された水みたいな。

 

 

 

 

激動と激変の2020年の終わりに差し掛かった今になって。

 

 

 

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遊んでんじゃねえ、でも仕事でもねえ。

2020-12-01 21:29:50 | Weblog

こないだの土曜日のラジオ「ウィークエンドサンシャイン」は唐突に、

プリンス特集だった。

それも、アルバム「サインオブザタイムス」のデラックスエディションからの選曲。

仕事だったので途中までしかちゃんと聴けなかったのだが、素晴らしかった。

それで、その中に、未発表の、なんと「帝王」マイルズディヴィスとの共演作があったのだ。

「CAN   I  PLAY  WITH  YOU?」という曲で、けっこう過激だった。

それで思ったのだがこのタイトル、さすがのプリンスもマイルズに対して敬意を表してる、というか

ほとんど「謙譲語」だよね、これ。

「一緒にプレイしてもいいですか?」っていう感じか。

周知の事実、というか「そんなの有名♪」な話なのだが英語では

「プレイ」の意味、と言うか概念が「遊ぶ」だけではなくて

「演奏する」もプレイだし

プロ野球選手だって「競技をする」ことが「プレイ」なのだ。

だからさっきの「CAN  I  PLAY  WITH  YOU?」にしたって、

文脈によっては子供が、「一緒に遊んでもいいかな?」と言っているようにも取れる。

我々・・・というか、少なくとも僕は、演奏することを単純に「遊び」と捉えることが出来ない。

その反面、「遊び」であることの自由さを忘れたくない、とも思っている。

「仕事」では決してないし、「仕事」とは考えたくないのだ。

でも「遊び」っていうほど気楽でもない。

楽しいことばかりではないからだ。

以前話題に出てきた「アリとキリギリス」のキリギリスみたいに、

例えば僕がギターを弾いていたとしても「何遊んでんの!?」などと言われたくはないのだ。

遊んでんじゃないんだ、じゃあ何してるかって言えば・・・・・・・・・・・・・

わざわざ大げさに言うけど、「魂と対峙」してるのだ。

でもそれだって英語で言えば「プレイ」。

「WHAT  ARE  YOU  PLAYING????」と言われて「NO、I   PLAYNG  GUITER」と答える。

 

それ、遊んでんじゃんかよ。

 

いや、だからさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

遊んでんじゃねえっての。

 


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