新曲

2021-02-23 21:08:35 | Weblog

今日、久しぶりに新しい歌を書いた。

ここのところずっと、ライヴもできないし、スタジオも自粛していたので

気分的に萎えていたことは否定しようがないかもしれない。。

でも急にインスピレーションの嵐がやってきて

一曲ほとんど出来た。あとは歌詞を補完して補正するだけだ(この推敲作業がけっこう重要なのだが)。

 

この後の十年を牽引してくれそうな気がする程、自分にとっては大事な歌が出来た。

歌は、楽曲は、不思議。

ただのコードとメロディとリズムなのに、

妙にエネルギーみたいなものを持ってる気がするし、

その中に「世界」さえ内包しているのではないか?というくらいに、大きい。

感動・・・に近いものを僕はいつも、探している。

それこそが人生においての「意味」なのだ、と信じている。

「歌」という形で固定して、それを人前で演奏したりしなければ、そのまま消えて行ってしまうしかない

はかない光のようなものが、僕の中に確実にある。

その存在を僕は信じているし、

「現物」として歌にして、君に、そしてみんなに聞いて欲しい。

そんな欲求を僕は持っていて、

それは人生を乗り切るための、

言い換えれば

生きるための原動力・・・・にもなり得るものだ。

 

新曲。

まだ「歌」が僕の中から出てくるのだ、ということがとても嬉しい。

いつかこれをきっと、ライヴで演るのだ。

そのために僕は生きよう。

 

絶望も、倦怠も、「萎え」も、乗り越えられそうな「希望」だ。

 

 

その歌の仮タイトルは「リボン・ソング」という。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「どれが誰の曲」問題

2021-02-23 15:10:00 | Weblog

またローザのこと考えていたのだけれど。

 

ローザルクセンブルグを聴いていると、

どれが誰の曲か、というのが分かりやすい気がする。もちろん、勘違いかもしれないのだけれど

「だけどジュリー」と「不思議だが本当だ」は、玉城さんが歌ってるし、玉城さんの曲だろう。

あと、「在中国的少年」や「北京犬」もそうなのではないか?と思う。ギターが強烈。

「デリックさん物語」は、もろスライだがw永井さんだろう。

「シビーシビー」とか「さいあいあい」とか「あらはちょちんちょちん」などはきっと、

どんとサンの曲だと思う。

「ひなたぼっこ」も、きっとそうだし。

「橋の下」は、どんとサン と玉城さんの共作かな?と推測する。ギターフレーズが秀逸なうえに、歌は味わい深い。

個性の強い、才能のある作詞作曲者が三人もいて、なかなかバンド運営は難しかったであろうと思う。

 

付記・そうだ、「まったくいかした奴らだぜ」の作者も もしかして、玉城さんなのでは?ツェッペリンだけどw

 

 

どれが誰の曲、というのはロックバンドの頂点の、あの ローリング ストーンズにもあって、

かの名曲「ブラウンシュガー」は何と、ミックジャガーが書いた曲なのだそうだ。驚き。

そんな風にストーンズは、ミックの曲なのかキースの曲なのか、意外とわかりにくい。

「サティスファクション」のリフはキースだよね間違いなく。

 

もう一つの頂点バンド、 ビートルズはその点、すごくわかりやすい。

初期はジョンとポールの共作曲も多いのだろうけど。

僕はわりと、ポールの曲に苦手なのが何曲かあって、ジョンがやっぱり好き。

(でもポールの曲の中にも、すごく好きなのがある「ヒアゼアアンドエヴリホエア」とか。)

でも「ア デイ イン ザ ライフ」みたいにジョンの曲の中にポールの曲が割り込んできたりすると、

ポールが呑気過ぎて、かえってジョンの世界のシリアスさと深さが際立つ・・・というようなこともあって

面白おかしい。

しかしやはりジョンレノンのソングライティングは、普通じゃない感じがして素晴らしい。

(「アイアムザウォルラス」なんて、クラッシックの作曲家が分析しても曲のキーが定かではない・・・のだそうだ。)

と言いながら、ジョージハリソンの曲がまたぶっ飛んでて素晴らしいから驚きだ。

「サムシング」は底知れぬほど深いし、「サヴォイトラッフル」の不思議でスマートなカッコよさ!!!

こちらもローザと同じく、個性的で才能豊かな作詞作曲者が三人いて、

しかも全員美形でお洒落で理知的で、演奏もコーラスワークも完璧すぎるほど完璧で・・・・

ビートルズはやはり奇蹟的である。

 

そういえば

僕の知り合いの某バンドの解散の原因が、

ヴォーカルの某と、ギターの某 の両方がそれぞれ作詞作曲者で、

お互いが自分の曲ばかりをライヴでやりたがり、相手の曲はやりたがらなかった・・・・

ということが根本の問題だった、というようなことを、誰かからまた聞きで聞いた。

なるほど、さもありなん。

 

 

それだったら、なるべく二人で「共作」出来れば良かったんだけどね。

そう出来たら、どちららにもそれぞれが入り込んで、どちらも「自分の曲」になる。

まあ、それが出来れば世話なかったのかな。

 

 

 

でもそういうのって、勿体ないよね。

 

 

僕自身は、メンバーと共作するのは、大好きだ。

 

 

でもそういうのって時間がかかるし、なかなか難しかったりするんだけど。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元気デス。

2021-02-21 12:01:14 | Weblog

死に向かう本能、なんてものが本当に存在するのなら、

僕が時々、新聞の死亡欄を羨望のまなざしで眺めてしまうのもあながち、

おかしいとは言い切れないだろう。

・・・人生が終わってしまった人たちが羨ましくてしょうがない時があるのだ。

別に 僕はとりたてて不幸ではないし、絶望もしていない。

自殺願望もほとんど、ないようなものなのだが妙に

「終わり」に憧れてしまう。

だって終わってしまえばもう、頑張らなくてもいいし、

「向上」だって、しなくていいじゃないか。

朝起きなくてもいいし・・・・・・そんなこと考えるのって馬鹿馬鹿しいけどさ、確かに。

死んでしまったら考え事もできないし、

夜眠ることもできない。

生きてると、楽しいこともあるのだ。

どっちが多いだろう?楽しいことと、嫌な、面倒くさいこと。

もしかしたら、嫌なことのほうが多いかもしれない。

仕事してたりすると、そうかもしれない。

プライヴェートだと、楽しいことのほうが多い。

じゃあ何で、全部プライヴェートにしてしまえないんだろう?

僕にはわからない。

でももし、そうなったらなったで、嫌なことも出現するのかもしれない。

仕事の環境が冷たく厳しく意地悪だからこそ、

プライヴェートの楽しさや緩さが際立つのかもしれない。

でも他人の陰口言いまくったり、他人の足引っ張ったり、さりげなく嫌がらせしたり、

真正面から他人を攻撃したり。

そーゆーのって、止めたほうがいいと思うんだがな。

他人事ながら、切実な老婆心を持って そう思う。

 

本日は、まるで春が来たかのような陽気。

すっごいツラかった状態から抜け出せた時に我々は

「生きててよかった」などと実感することがある。

その実感は多分、本物であろう。

この僕だってそんなこと言いながらこの世界が好きだし、生きていたいのだ。

 

 

追伸

こういう厭世観にあふれた内容のこと書くと時々、

心配してくれる優しい人も何人かいるのだけれど(ありがとね)、

大丈夫だから心配はいらないよ。

 

僕は元気デス。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分自身の深層心理ってホントにわっからないよね。

2021-02-15 20:57:03 | Weblog

昨夜、というか今朝早く、ちょっと久しぶりに面白い夢を見た。

面白い・・・・と言っても結局、いつもの深層心理的な夢なので

僕以外の人は面白くも何ともないかもしれない。っていうか、きっとそうだ。

まあいいや、とにかく書いてみる。

その夢の中では、昔のバンドで、レコーディング中なのだ。

それも、僕が7歳から14歳くらいまでを過ごした、福山の家で。

家に大量の機材を持ち込んでレコーディングしているらしかった。

途中で、そのバンドがランブルフィッシュであることに気付く。

ヴォーカルの佐治が、生きている。

そして、その佐治が「岩佐の遺品や」といってベースギターを出してくる。

そう、現実の世界では岩佐も佐治も、もうこの世にいないのだが。

その夢の中では岩佐だけ、もういないことになっている。

それで佐治が出してきた楽器が、すごくて、

エレクトリックのベースギターなのだが、チェロみたいなサイズ感で、ものすごく大きい。

ボディの色は美しいパールホワイト。

フェンダーのプレジジョンベースとチェロとウッドベースを足したみたいなデザイン。

高級感にあふれている。率直に言って、高価そう。

僕は肩にかけて、持ってみたが、ペグ(糸巻)に手が届かなかった。それくらいでかい。

そしてあれこれあって、気づいたらレコーディングのはずだったのが、ライヴの出番直前になっている。

僕はアンプをセッティングする。でもギターを抱えて音を出してみたら全然駄目な音だ。

つぶれ切った、一番嫌いな音。

だから、出番直前だがアンプを他のものと交換することにする。

それは間に合って、さあ、出番・・・というところで佐治が僕に「ミチ、ありがとうな」と言った。

この辺りで目が覚めてしまうのだが、

何と言うか、不思議だ。夢はいつも不思議なのだが。

何故、その夢の中で、岩佐だけ、もういない、ということになっているのだろう。

同じく初期ランブルのドラムスで、高校の同級生だったモ吉も、去年2月に亡くなっているのだが、

実は、モ吉の夢は、まだ、見ていない。

自分の中で彼の死を、実感していないのだろうか。

佐治はいろんな設定で夢に出てくる。

まず、今も生きている、という設定。

そして、19歳くらいの時の天王寺、もしくは阿倍野・・・という設定(これは思い出なのかな)。

そして、もう肉体は無くなっていて、エネルギー体としての佐治、という設定。

だいたい、この3種だと思う。

 

今も生きている、という設定の時は必ず、また一緒にバンドをやっている。

それって願望??願望かしらね?

いや、それなら岩佐だって生きてて欲しい。これは、切なる願望である。

いや、それどころか亡くなった友達全員、生きていて欲しい。

嘘ではなく、本気でそう思っている。

 

だから、というか でも、というか・・・・・自分で自分の深層心理が、わからない。

そんなもの、わかるわけないだろう?と言われれば確かにそうかもしれない。

 

ばるぼら を演ってる夢は、まだ見たことがない。

いや、 ばるぼら だって僕にとっては、ランブルフィッシュと同じくらいの

超・自己実現体験なのだ。

 

でも見ない。

ばるぼら は、メンバーみんな元気に生きてるからかな。

 

みんな元気に生きてるからといって再結成的なことがまず間違いなく起こらない

(僕もやりたくない)のが

ばるぼら の面白いところでもある。それでいいと思う。

 

ROCA’66の夢も、そういえば見ない。

でもROCA’66はまだ、現実としてこの世に存在しているバンドなのだ。

コロナ禍がなければ、月イチくらいでライヴやってるはずなのだ。

 

でも、そんなことで気落ちしないように、自分で気を付けている。

気落ちしちまったら、墜落しちまったら、そこから這い上がってくるのにすごい努力と時間を要する。

 

もう僕にはそんな余裕も、時間もないかもしれないのだ。

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エントロピー

2021-02-13 12:13:56 | Weblog

弱肉強食、というのは自然界の摂理であろう。

別に、それはそれでいい。

でも、ふと思ったのだけど、それに逆らうと・・・・・・・

つまり、強いものが弱いものを喰わず、逆に助ける。

強きをくじき、弱きを助く。

そのような、勧善懲悪的、月光仮面的、フーテンの寅さん的な行動って

もしかして、エントロピーの数値を下げるのではないだろうか?

 

エントロピーというのは・・・れっきとした物理学の法則のはずで、

エントロピー理論、というのがちゃんとある。数式とかもある。

でも難しくて、僕には説明できない。

というか、僕自身も全然、 感覚的にしか理解していない。

 

えーと、大雑把に言えば

世界が混沌とすればするほど、エントロピー数値は上昇するのだ(本当に大雑把だな)。

ガソリンが燃えてエネルギーに変わればエントロピー値は上昇するし、

水と泥が混じり合えばまた上昇する。

その他いくらでもあるが、世界のほとんどの出来事はエントロピー値を上昇させる。

そして最後、遠い遠い未来には太陽も燃え尽き、宇宙のすべての恒星も燃え尽き、

混乱がすべてを覆いつくし、エネルギーは消費されつくし、

動くものさえ何もなく、世界は「熱的死」という状態を迎える。

この時、エントロピー値は最大である。

 

以上が僕の理解するところの「エントロピー理論」の文系的解釈だ。

 

正しくないかもしれないが、大きく間違ってもいないと思う。

 

だが、「生物」というものの存在が、宇宙で唯一、

エントロピー値を下げるものである、という。

 

つまり、劣化していく世界を逆行させられるのだ・・・生物って奴は。

 

例えば、整理整頓をしたり、秩序をつくったり、新しい生命を生み出したり。

誰かを、無条件で、見返りもなく 愛したり。

 

これらのことは、エントロピー値を下げるのだ。

 

言い方を変えれば、世界を再生させ得るのだ。

 

 

そうすると、

 

冒頭の「弱肉強食」は、生物世界の自然法則だが、もう一歩進んで、

 

敢えてそこで「強きをくじき、弱きを助ける」ような行動を我々が実践すれば

 

もしかして

 

我々はさらに、加速度的に、

「エントロピー的滅びゆく世界の進行」を逆行させることが可能なのではないだろうか。

 

 

 

ただし、それが正しいかどうか・・・は、わからない。

 

 

 

というか この世界に、善も悪もない、と僕は思っている。

 

 

ただ、混沌と秩序があるだけなのかもしれない。

 

 

僕は僕自身が「正しい」と思えるように生きていけばそれでいいのだ。

 

 

とは言え

 

こんな経済効率優先の世界なんて、さっさと滅びて「熱的死」を迎えちまえばいい、

 

 

とも思うのだけれど。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再編の夢

2021-02-09 21:07:12 | Weblog

昨日書いた「ローザルクセンブルグと私」の中で、ボ・ガンボスについてほとんど

言及がなかったのは、

僕がボ・ガンボス好きじゃない・・・・とかではない。

あの人たちがあれだけ精力と情熱ををつぎ込んでいたバンドだ。

素晴らしくないわけがない。ボ・ガンボスも僕は大好きだ。

 

ただ、どうしても・・・・・ローザが愛おしいのだ。

 

比喩として決して適切ではないかもしれないのだがあえて書くが、

 

「カレー粉投入前の・・・・・肉じゃが状態の煮物」みたいな感じがするのだ、

ローザルクセンブルグって。

 

「和風」と言いたいのではない。素材の味を生かした、素朴で自然な味、と言いたいのだ。

 

(いや、素朴、とは言い難い程 彼らは派手で、ひねくれてて、狂ってたのは承知の上で。)

 

ボ・ガンボス期のどんとは金髪のイメージで、それもカレー粉っぽいし、

 

何より、

僕にとってはニューオリンズ風味のピアノって、

全部をその味に染め上げてしまうカレー粉みたいに感じるのだ。

 

カレー粉かけたら何でもカレー、みたいな。

 

 

どんと は、どんな型にもはまらない破格の個性だった。

 

でもだから、わかりやすい「翻訳」的な要素は彼にとって、必要だったかもしれない。

 

それが「ニューオリンズピアノ」だったかもしれないし、

 

ローザ時代は「ニューウェーヴ風味」だったかもしれない。

 

 

 

 

つい最近のツイッターで永井さんが呟いてるのを見たのだが、

 

もう一度一緒にバンドやろう、と どんとを誘いに沖縄へ行ったら ちょうどその時 どんとは

ハワイで星になっていた

 

というような内容だった。

 

そうか・・・・・・もう一度あの二人がバンド組んでたら、

どうなっていたのだろう???????とつい考えてしまう。

 

 

 

ローザの再編とかね????

 

 

ありえなくはなかったよな。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その2

2021-02-07 14:52:24 | Weblog

言葉の魔力を実感した、という話の続きね。

 

そうえば、というかローザはデビュー当時、外国・・・・確かヨーロッパ13か国ツアーに

出掛けているのだ(やしきたかじんのTV番組でもそのことを語っている)。

後から思えばそれはきっと、MIDIの大蔵さんが連れて行ったのだと思う。

きっとまちがいない。

大蔵さんはすごく海外志向、というか

日本のバンドを海外に紹介することにすごくすごく積極的だった。

我々 ばるぼら を海外に何度も連れて行ってくれたのも他でもない、その大蔵さんだ。

 

我々(ばるぼら)の海外遠征は1998年に集中してるのだが、

 

まず3月、アメリカはテキサスのオースティンでの「サウス バイ サウス ウエスト」出演。

これは「SXSW」と略される、全米最大の音楽コンベイションイヴェントである。「ルーザー」のベックもその前年、ここから出て来た。

「SXSW」はその後もずっと続いているのだが残念ながら2020年はコロナ禍で中止になった。2021年も無理かも。

1998年の ばるぼら は、ライヴは大ウケしたのだがレコード会社からのオファーは来なかった。

 

そして5月~6月にかけて、

中国の上海と北京へ。北京では現地のライヴハウスに出演した。

 

そして11月。再びアメリカ、今度はニューヨークの「CMJ」というイヴェントに参加した。

SXSWに次ぐ、全米二番目のコンベイションである。

この時のゲストはビースティーボーイズだった。

我々は「CMJ」の参加バンドとしてあの、NYパンクゆかりのライブハウス「CBGB」と、あともう一軒、出演したのだ。

この時は全然受けなかった。ははは。

 

でも、すごくすごく刺激的で有意義で、一生心に残る体験だった。

 

で、後で思ったのだが

大蔵さんが、海外進出に積極的だったのはもしかして、

あの「YMO」での大成功体験があったから・・・・・なのではなかっただろうか。

 

大蔵さんが「YMOオフィス」の社長でもあったことを恥ずかしながら、僕は知らなかった。

大蔵さんの訃報を伝える様々なニュースを通して知ったのだ。

業界では当然の事実、というか そんなこと誰でも知っていただろうに。

 

「YMO」はもちろん、海外公演で大成功を収めて、そこから全世界で有名なグループになった。

日本でも、逆輸入的な人気だった気がする。

 

でも、やっぱ「言葉」なのだ。

 

YMOは、細野さんは多分、意識的に・・・・・言葉のないイントゥルメンタルの音楽で

「世界」に勝負をかけたのだ。そして、勝った。

 

我々のような「歌」を中心に楽曲づくりを考えている歌ものバンドはどうしても、

「言葉」にかける比重が、とても高い。

我々の場合当然、その言葉は日本語である。

 

ローザもそうだった。

 

だからYMOみたいに海外で大成功・・・みたいなことにはならなかったし、

今後もなかなか、それは難しいかもしれないよな、

と思ったりもするのだ。

 

でも大蔵さんにとってはそんなこと、百も承知だっただろうし、

それでもあの人は我々のような日本のバンドを「世界」に向けて発信してくれたのだ。

 

 

大蔵さんには本当に感謝している。

 

今になって思い出してみれば、一番初めにMIDIの人と出会ったのは

ランブルフィッシュの時で、

当時マッドギャングを解散したばかりの碇健太郎バンドと対バンした時だった。

碇さんが紹介してくれたのだ、MIDIの人を。

 

碇さんにも、心から感謝している。

 

そのMIDIのS村さんは その後の ばるぼら を気に入ってくれて

社長の大蔵さんに紹介してくれた。

そして結局MIDI CREATIVEで ばるぼら は、3枚のアルバムを録音、発表した。

もう20年以上前の話だ。

今はもう、タワレコとかでも売ってないし、手に入れるのは難しいかもしれないけど

僕にとっては ばるぼら で残したCDは今でも「誇り」なのです。

思う存分、音楽的実験がやれたし、「いいもの」が録れたと思ってるし、何より・・・本当に楽しかった。

 

しかもそのレコード会社があのローザルクセンブルグと同じ

MIDIなのだ。

 

 

すごい。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ローザルクセンブルグと私

2021-02-07 13:41:11 | Weblog

ローザルクセンブルグのことを僕が初めて知ったのはいつのことだったろうか。

85年に出たオムニバスアルバム「都に雨の降るごとく」かもしれない。

その中に収録されている「おしり」という曲は衝撃的だった。今聞いてもすごい。

その次は・・・当時、ずっと買っていた雑誌「宝島」に載っていた広告ページをかすかに覚えている。

1STアルバム「ぷりぷり」のものだったはず。今思えば、MIDIの広告だ。

ものすごいメイクと衣装で、それで「イロモノ」と判断してしまって、まともに読まなかったと思う。

(後日、「ぷりぷり」の音源を手に入れて聞いた。音楽は奇妙だが充分かっこいいものだった。)

その次は・・・埼玉に住んでいる高校時代からの盟友・西妻が突然送ってきたカセットテープ。

1987年の事だったのだろうと思う。ローザの2NDアルバム「ローザルクセンブルグⅡ」だった。

めちゃくちゃかっこよくて、どハマリした。

でもうかつにも、それが京都のあの「おしり」のバンドと同一だとは認識できなかった。

その時期・・・・行っていた大阪のデザイン専門学校で親しくなった友達の中に、

ちょっと年上の「じゅんちゃん」という綺麗な女の人がいた。彼女はライヴハウス大好きで、

既に何度も、ローザのライヴに通っていたのだ。「ローザ、すごいから今度、絶対一緒にライヴ行こうよ」と

誘ってもらっていたのに、京都にいまいち馴染みがなくて躊躇してしまった。

当時の僕は人生で一番お金のない時期だったし(悲しいくらい金がなかった)。でも行っておくべきだった。

今となっては在り得ない、貴重な、ローザのライヴ。

そうこうしているうちに、ローザ解散のニュースを何かで読んだ。すごく残念だった。

でもそれとほぼ同時に、どんとサン と 永井さん が二人で別メンバーで新バンドを立ち上げた、という

ニュースも伝わった。すごくすごくそれに期待していた。

だから、ボ・ガンボスのかなり初期のライヴを、僕は見に行っている。

たぶん・・1988年春ごろだと思うのだけれど、大阪・ミューズホールでのライヴ。

お客さんはローザの頃からのファンみたいな女の子(女の人?)ばかりで、「あなた初めてね?」みたいなことを

何人かから言われた。ミューズホール満杯・・・ではなかった。けっこう客は少なかった。

ライヴは、すごく良かった記憶がある。「ローザ Ⅱ」からの楽曲を、けっこういっぱい演っていた。

 

その3年後ってことになるのだが、僕は

1991年に、青森県六ケ所村で行われた「いのちの祭り」野外ライヴに出演した。

僕はもちろん、ランブルフィッシュのギターである。その時の出演バンドの中に

ボ・ガンボスもいた。山口富士夫もいた。南正人もいた。

ボ・ガンボスとランブルは出演順も近かったので、楽屋(というかステージ裏の原っぱ)で一緒になった。

僕は、あえて話しかけずに、静かに挨拶だけした・・・と思う。「どーもー」みたいに。

間近で どんとサン や 永井さん見れて、嬉しかった。でもこの後もきっと、こういう機会は何度もあるはず、

と確信していたのだ、その時の僕は楽観的に。

でもその後に、そんな機会は訪れなかった。永井さんとはその後にご一緒できたのだけれど、

どんとサンとお会いできたのはその一回だけだった。

1992年にランブルフィッシュは解散して

1994年、僕はボケロウ、キヨシ、マーボーと4人で ばるぼら を結成した。

いろいろとご縁があって、東京のMIDIというレコード会社とつながった

(我々はMIDIの中の、MIDI CREATIVEというインディー部門だったのだが。)

後で気付くのだがMIDIは、ローザルクセンブルグが契約していたレコード会社だった。

それだけでなく・・・MIDIの人たちはローザにいろいろと関わった人たちだった。

社長の大蔵さんを筆頭に。

 

ばるぼら のレコーディングには、ローザのドラムだった三原さんが何度も顔を出してくれて、

サウンドのアドヴァイスをくれた。一緒にお酒も飲んだ。

ばるぼら の下北沢シェルターでのライヴには一度、ギターの玉城さんも来てくれて、

打ち上げで飲みながらお話しすることが出来た。

1997年には日比谷野音でMIDIのイヴェントに出演させてもらって、

永井さんが当時やっていた「ドクターTOSH&LOVE J」と共演することが出来た。

永井さんはその後のイヴェントに我々 ばるぼら」を誘ってくれさえ、した。実現はしなかったのだけれど。

 

どんとサンは2000年にハワイで突然、亡くなった。

青天の霹靂だった。現実感が、あまりなかった。今でもそうかもしれない。

どういう状況だったのか・・・・・もちろん我々部外者には全然わからないのだけれど、

 

彼の歌詞は、そんなことさえ予見していたようにしか思えないものが多い。

 

「骨だけになって、でもでも いつも好き」とか

 

「雲の上から歌うのがちょちんちょちん」とか。その他いろいろ、いくらでもある。

 

 

 

ドラムの三原さんとは、その時の ばるぼら のレコーディングのご縁だけで、

その後お会いする機会もなかったのだがある日ツイッターで発見して

恐る恐るメッセージを送ったら幸いにも覚えてくれていて、

それからは彼のツイッターを毎回見ている。

 

何日か前のその三原さんのツイッターに、ローザがやしきたかじんのTVに出演した時の動画がアップされていて、

ライヴの映像もたっぷりある。

思わずガン見してしまった。すごい。1987年ごろだろうか。神戸の、移転前のチキンジョージである。

ランブルでもここ出たよ。二回くらい出た。音も良く、最高に雰囲気のあるライヴハウス。

キャバレーの上の通用口を通ってステージに向かうのだ。楽屋はキャバレーのお姉さんたちの横。

そのTV映像のライヴの中で「ちょちん」というテロップが流れた曲があった。

のちの「ローザⅡ」に収録される「あらはちょちんちょちん」の原型だと思う。

アレンジもまだ粗削りで何より、歌詞が全然完成してなくて、すごくすごく興味深かった。

この曲、ローザのレパートリーの中でも大好きな一曲なのだが、言葉が練られていない状態だと、

輝きが半減するのだ。あの完成品の「あらはちょちんちょちん」がいかに時間をかけて練られた言葉とイメージの

結晶であるか、ということを完成前の曲を聴いて実感した。

言い換えれば言葉の魅力・言葉の魔力である。

 

それで思ったのだが、言葉って・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

長くなるから「その2」へ行こうかな。

 

 

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無題

2021-02-04 21:16:46 | Weblog

君は僕の身に降りかかってきた災厄だった・もしくは祝福だった

 

恐らくはそのどちらかで  多分両方だったんだ

 

 

いろんな事がうまく行ったし 駄目なときはダメダメで

 

たくさんのたくさんの恥をかいた  かかなくてもいいような恥を

 

でもそのほとんどは忘れた

 

 

栄光も恥辱も 同じくらいの数があったけど もう消えた

 

 

もしかしたら君は

 

物語の始まりを告げるベルだったのかもしれない

 

と 今の僕は思っている

 

というのも

 

君が現れてから 全てがスピードアップしたのだ

 

まるで誰かが早送りのボタンを押したみたいに

 

 

その「誰か」が今度は 巻き戻しのボタンを押してくれないかなあ   と いつからか僕は思い始めている

 

 

 

・・・ということは 既に 物語は終わったのかもしれない

 

 

 

何も始まらなければ 始まらないままで

 

 

僕はあの部屋の部屋の隅っこでじっとして

 

そんな風にして一生を過ごしてしまったかもしれない

 

 有り得ない話ではない

 

 

 

 

だから君が来て   いろんなことを始めてくれて 始めさせてくれて ケツ叩いてくれて

 

 

本当に良かった、と思っている

 

 

時々は 本気で 感謝さえ している

 

 

それを伝えたくても   君はもういないのだ

 

 

 

 

 

 

君は災厄だった・もしくは祝福だった

 

 

100万発の爆竹が破裂したみたいに騒々しく

 

 

 

噓つきの預言者みたいに寡黙

 

 

 

そして朝のコーヒーの香りみたいに

 

 

 

儚かった

 

 

 

 

(僕はコーヒーは苦手なんだがね)

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昔のこと

2021-02-02 21:05:14 | Weblog

初期ランブルフィッシュがメンバーチェンジをした頃のことを思い出していた。

 

その事の真相は今ではもう、僕しか知らないし、

特に誰も興味を持たないことであろう・・・と思う。

だから忘れてしまう前に自分のために、ここに書き残すことにする。

 

 

 

 

高校の時結成したバンド「ネクスカ」。

ベースは岩佐で、ドラムはモ吉だった。

ヴォーカルは佐治、ギターは庄司と俺(片山道郎)、サックスは西浦三太。

高校を出て・・・・一年浪人したのは誰と誰だったかな?もう思い出せないのだけれど、

僕は大阪のデザイン専門学校に進んだ。実家は広島県だったので、学校の寮に入った。

寮の場所は天神橋筋6丁目というエライところだった。それはまあ、いいとして。

 

「ネクスカ」は高校卒業と同時に「ランブルフィッシュ」と名前を変えた。

 

モ吉と岩佐は大学生になってから、「テキ屋」のバイトにはまっていた。

各地のお祭りなどに行って、様々な出店をやるような商売。

そのバイトのせいで、バンドの練習が出来ない・・・というようなことが何度かあった。

それだけでも佐治はイライラしてたのに、バンドにとって、佐治にとって、重要な存在である岩佐が

ある時「俺は家の仕事を継ぐ」と宣言した。

時は、1986年、そして1987年である。

1986年の夏、佐治と僕は長野県の清里に「合宿免許」の旅に出て、そこで

関東の「横須賀サーベルタイガー」のメンバーと一緒になって、

全身全霊でバンド活動をやっている彼らにすごく刺激を受けて帰ってきた。

そして僕は専門学校をやめ、アメ村の古着屋での、フルタイムのバイト生活に入った。

そして寮を出て、大阪に部屋を借りた。まったく日の当たらない、角部屋のワンルームマンションだった。

 

佐治も奈良の実家を出て、大阪に部屋を借りた。我々の部屋は偶然(もしくは必然か)、

お互い歩いて15分しか離れていなかった。大雑把に言えば、天王寺~田辺近辺である。

でも僕の部屋には電話がなかった(もちろんケータイなんてない)ので、お互い連絡を取るのはなかなか難しかった。

さて、佐治も大学に入ってしばらくして、その大学ですごい強力なドラマーを見つけた。のちのMAUである。

モ吉のドラムが、だんだん気に入らなくなっていたのだ佐治は。

それはモ吉と岩佐が、ブルーズとかブラックミュージックにはまり込んでいたからで、

もちろん、我々の共通のルーツはブラックミュージックだし そのこと自体は素晴らしいことなのだが、

古いブルーズに熱中したモ吉の叩き出すドラムの音は、

どんどん「渋く」なっていっていたのだ。タイミングはタメるし、音量は控えめ。

それだってしかしもちろん、全然悪いことではない。好みの問題だ。単に佐治はもっとハードにやりたかったのだ。

そして何より佐治は、岩佐が「家を継ぐ」と宣言したことに幻滅し、腹を立ててさえいたのだと思う。

それに加え、モ吉と岩佐が嬉々として行くテキ屋のバイトの件。佐治はテキ屋を憎んでさえ、いた。

 

そして、1987年の・・・夏頃だったかな。

僕は近所のコインランドリーで洗濯が終わるのを待っていた。

すると佐治が現れて、「やっぱりここやったか」と言った。ちょっと興奮気味だった。

 

「いま、二人に電話してきたとこやねん。岩佐とモ吉に」

 

「クビやって言うた」

 

「ええええええええ」と僕は驚いた。

有り得ない・・・・・・と思ったのだが、佐治がそう決断したのなら・・・・・。

 

 

そしてドラムにMAUを入れ、ベースには高校の後輩で、テクニシャンのベーシスト、芳村を入れた。

彼らの加入はランブルの音楽を、想像もしていなかったレベルまで持ち上げてくれる要素になった。

 

だがその翌年、1988年6月

 

佐治が憎んでいたあの「テキ屋」のバイトに出かけていた岩佐とモ吉はバイトの移動中に

高速道路での玉突き事故に巻き込まれ、二人とも後続のトラックにはね飛ばされ、

岩佐は即死した。奇跡的にモ吉は、かすり傷だった。

 

テキ屋の大将も結局その事故で亡くなったそうだ。

 

 

そのことで佐治は、決定的な罪悪感を背負い込んだ。

もちろん、そんなことは俺にも、他の誰にも一言も言わなかったが・・・見ていればわかる。

 

バンドから「切ったり」せず、強引にでもあのバイトを辞めさせていれば岩佐は死なずに済んだ

 

と佐治は思っていたはずだ。

 

 

のちに「遺品」として岩佐たちの乗っていたトラックに残っていた品がご家族のもとに届いた。

カセットデッキに入っていたのは、佐治が編集してセレクトしたロックのテープだった。

 

 

 

罪悪感という点ではモ吉も同じくだった。

 

その直前、「岩佐は非常電話してくれ」と言ったのだという、モ吉は。

「おお!」と言って岩佐はそちらに向かおうとした、その瞬間に後続のトラックが突っ込んで来た。

・・・すべてはタイミングだったのであろうと思う。モ吉と岩佐の位置が違ったら、どうなっていたかわからない。

でもモ吉が罪悪感を背負うことはないのだ。

でも背負ってしまった彼の気持ちは、わかる。悲しい程、わかる。

 

 

 

 

 

 

 

この話は僕以外の誰も知らない。

 

 

 

 

 

 

岩佐はそんな風に、1988年に逝ってしまったし、

 

佐治は2007年に癌で逝ってしまった。

 

モ吉は2020年、心臓発作で逝ってしまった。

 

 

 

いろんなことが過ぎ去ってゆく。

 

記憶も、いつかあやふやになる。

 

 

だから「定点」としてここに、このことを書いておく。

 

 

 

 

 

 

モ吉が逝ってしまってから今月末で、一年になる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする