レィディオ・ROCAよりお知らせ。冬眠撤回。12月にもライヴやりマス。

2018-10-31 22:07:39 | Weblog

ハロー・エヴリワン。

こちらレィディオ R・O・C・A、周波数は66メガヘルツ。

元気にしてますか?

風邪なんか引いてない?

え?風邪は引いてないけど心が寒い?

そんなリスナーのアナタにグッドニュース。

ホホホ。耳をかっぽじってよく聞いてね。

ROCA'66は12月のライヴは、なし・・・・ってお伝えしてたんだけれど、

ここに来てイイ話がまとまりマシタ。

2018年の年末・・・っていうか12月29日 土曜日。

京都は深草の「アニーズ・カフェ」でやります、ライヴ!

モンスター・ロシモフと2マンで。

冬眠なんかしてる場合じゃないわよねアタシたち。

この「アニーズ・カフェ」は、ちょっと前に道郎ソロで出演させてもらったのだけれど、

けっこう贅沢で不思議な感じのする空間。

最近は 京都ロックシーンの重鎮、AUX のモリシマさんがブッキングとPAをやってらっしゃる。

今後のライヴハウス・シーンにおいて、重要な拠点・・・となり得るハコだ。

12月29日ってもう、大晦日に片足突っ込んだような日程で、

忘年会気分でライヴ、ってのも、なかなかオツなのではないか。

だから年末、12月の29日の予定は今から空けといてくれベイビーブルー。

ライヴのスタートは夕方7時半の予定だ。オトナの事情で、我々が先に出演する。

京都・深草への行き順や、ハコへの地図なんかはまた

このブログ・・・・いや、レイディオ・ROCA(66メガヘルツ)でお知らせする。

おっと、その前に

11月17日 土曜日は

オオサカ・扇町・「PARA-DICE」でライヴだ。

この「激戦区」みたなハコは我々に、どんな対バンをぶっつけて来るのか?

そして我々は襲い来る様々な苦難を切り抜けて

(いや、ホント冗談抜きで苦難が次々と襲いかかって来るのよ)、

立派に我々のロックンロールを鳴らすことが出来るのか?

「ちゃんちゃん♪」といった感じで、ハッピーエンドが訪れるだろうか?

次回、ROCA'66

乞うご期待!

カミング・スーン!

ラジオのダイヤルはそのままで!周波数は66、

レイディオ・ROCAでした。



グッドナイト・スリープ・タイト。






P・S・

おっと、今日はホンモノのハロウイーンだったわね!

カボチャ畑で寝ずに頑張るライナスのもとに「カボチャ大王」は

今年こそ現れるのか???????????

「カボチャ大王」ってそういえばピーナッツの原文では何て表記されてるんだろうね?

「PUMPKIN KING」かな?

・・・・・・・・・・・・・「大王」だから「GREAT PUMPKIN KING」かな?

どっちゃでもイイけどさ。






それでは、ラジオの前の善男善女よ、

シー・ユー・ネクスト・ライヴ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!





・・・・ブチッ(←ラジオのスイッチ切れた音)


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魔物が空から降りて来る

2018-10-30 21:33:58 | Weblog



空から魔物が降りて来るみたいな十月、何もかもが我々の手の届かないところにある。


私に出来るのはただ泳ぎ続けることだけで、でもその姿は他人の目からは


ただ溺れているようにしか見えないらしい。みっともないこと甚だしい。


でもそんなことは百も承知だ、大体が自分にだってわからないのだつまり、


「私」が溺れているのか、それとも沈む寸前で辛うじて泳いでいるのか。


そういえば「あの海」も今は黒く、荒れた、寒い風景の中に在るのであろう。


一度だけ・・・・真冬に訪れてみたのだが、ゾッとするものだった。


そういうのは「酔狂」かもしれない。


いやしかし私は酔ってもいないし、狂ってもいない。


ただちょっと感傷的なだけだ、それの何が悪い?



でもそうこうしてる間にも街の風景でさえ日に日に翳りを帯びて行く。


上手くいかないことも時々は、ある。


どう頑張ってもビクともしないドアもあるし、


袋小路に行き当たってばかりのスケジュール調整もある。


でもこの、ややこしくて、絡まりやすくて、繊細で、デリケートで、


壊れやすい、不安定で、難しい顔をした「世界」は、


私が自発的に望んだものであるのだ。


嬉々として私は「それ」を選択したのだ。


だから全部オッケイ。


つまりこれは現実であると同時に、夢なのだ。


私は「夢」の現物を手にしている。


そしてその「夢」には付属物がいっぱい付いている。我々は


それらの七面倒臭い「おまけ」を、ひとつひとつ片付けていかなければならない。



「おまけ」をひとつ消すたびに「夢」は・・・・つまり「世界」は


少しずつその姿を実体化して行く。


しまいにはこの現実世界に、確固とした物体としてその姿を現わすだろう。


私はその日を夢見るのだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・眠りながら。




だからもう寝よう。




おやすみ。




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暇潰しの君への手紙。

2018-10-29 21:52:02 | Weblog

何でもいいわよ、実際のところ。



アタシはアタシの信じたことを続けるだけで、

どう足掻こうが

それしか出来ないんだし、

ああ、こういう物言いってもう飽き飽きしてはいるんだけど、

「それ以上でもそれ以下でもない」のよね。



悲しみに暮れながら生きるより、

痛みだろうが何だろうが、無理矢理笑い飛ばすくらいの「構え」で行きたいのさ。

作り笑いでいいの。

それを繰り返してりゃ、そのうち本当に、

心から笑えることもあるわよ。


そんな風に信じてねえと、やってらんねーってのよ、アタシも・・・ね。


そうよ、ひどい幻想も、絶え間ない痛みも、

もう「ない」のよ、今では。

それだけは「救い」よね。


だってさ、生きることは「修行」じゃないんだから。

もし「修行」ならそりゃ、ツラければツラい程、イイんだろうけどさ、

(あとSMもそう?・・良く知らないけど)、

でもそうじゃないんだよね?・・・・・・「修行」じゃないんだよね?


そうじゃないことを切に願う。


さて


あんなに「暑い」「暑い」って言いながらすごしてた日々が今では嘘みたいな気がする。

だってもう「寒い」んだもの。


世界って、両極端で、だから好き、とも言えるし、

だから嫌い、とも言える。


ああ、物言いなんて誰だって何だって自由だからね、

何言ったっていい・・・・ってなもんではあるにせよ。


もう飽き飽きだよ、「暑い」のにも、「寒い」のにも。



詰まるところ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





「何でもいい」わ。









草々。



あなかしこ。




ごきげんよう。




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我々の存在意義は「存在し続けること」である。

2018-10-26 21:47:47 | Weblog

ひとは運命に翻弄されながら生きている。



時には、「そんな美味い話が、あるワケがない!」というような出来事が

実際に起こったりするし、

もちろん、その逆もある。



我々は何も「選んで」など、いないのだ・・・・・・・・・という説もある。

運命論という奴は、それに近い。


ただ


運命と言う巨大な河の中で、強力な水圧に流されながらも我々は、

とても細かく、

その一瞬一瞬で、ほとんど無意識に様々な事を「選んで」いるのだ、

という気もする。


そう、冷静に考えると人生は「選択」の絶え間ない連続である。


この道を、右に行くか、左に行くか、

この場面では・・・「出る」か、「引っ込む」か、

通り過ぎる知った顔をチラ見して、軽く挨拶するか、気付かないフリをするか、

Aにするか、Bにするか・・・どちらも駄目なら「プランC」か、

ここで、「怒る」か、「ぐっと堪える」か、

「愛する」か、「愛さない」か、

ETC ETC.・・・・・・・・・・・・・・。



その、数え切れないほどの「選択」こそが「生きる」ということの本質であり、

今の「私」を作り上げているのも、その「選択」の集積なのだ。


思うのだが


ひと、というのは一瞬の刹那にしか、存在し得ない。

絶えず変わり続けるから。

時間を跨いだ「自己同一性」など無くてもいいのだ。あるほうがオカしい。


つまり我々は

運命という名のチーズを薄~く、薄~くスライスして切った、その一枚なのだ。



だから、この一瞬は貴重だ。



そして



我々の存在意義は「存在し続けること」にある。


ついさっき、


何の脈絡も無く確信した。





だから私は迷い無く、「存在し続けよう」と思う。




この一瞬に、全身全霊をこめて、行くのだ。









次のライヴは11月17日、


オオサカ・天満の、


キャパは小さいが音質も照明も極上で、


しかもいろんな意味でバリンバリンにやる気のあるハコ、「PARA-DICE」にて。







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各種「行事」から遠く離れて。

2018-10-23 21:58:40 | Weblog

それにしても

大人になって自分のペースで、自分のセンスで生活するようになってから・・・・というもの、

世間のいわゆる「行事」みたいなことから年々、疎遠になっていく自分に

ふと気付いたりする。



まず1月だが

お餅を喰うことはあるにせよ、「おせち」など喰わないし、凧揚げもしない。

下らないテレビ(正月番組)など絶対に見ないし、

年賀状もついに書かなくなった。お年玉も、誰もくれない(←あたりまえだ)。


2月には、雪ダルマなど作らない。コタツも持っていないから入らない(コタツは活動の敵である)。旧正月も祝わない。


3月には勿論、甘酒など飲まない。


4月に花見・・・・・・・・・・・・・・には、行くこともあるな。


5月に鯉のぼりを眺めたりしないし、


6月は何だろう?・・・・・・・・・・。何もないから何もしない。お墓参りに行くだけだ。


7月には笹の葉に願い事を書いた短冊を吊るしたりしないし。


8月には まぁ、海には・・・・行く。


9月・・・・9月って何だ?ああ、そうだ、自分の誕生日など徹底的にどーでもいい。


10月にゾンビの仮装などもしないし、運動会に出ることもない。芋掘りもしない。


11月に紅葉狩りに出かけたりもしないし、


12月のクリスマスなど、もってのほか。紅白歌合戦など、チラリとも見ない。







クリスマスに関して言えば僕は5年程前まで 


通算10年くらい、ショップ店員をやっていたので


毎年11月半ばくらいになると「仕事」としてクリスマスの飾り付けをやらされていたのだ。


年末が近付くと憂鬱だったし(びっくりするほど慌ただしくなるのだ)、


それよりも哀しいのは


商売道具のようにクリスマスを扱った者のところには


二度と


サンタクロースは訪れてはくれないのだ。




しくしく。







あ、でも「カボチャ大王」なら、来てくれるか知らん。



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再現・更新・進化。

2018-10-21 20:16:10 | Weblog

楽曲を「つくる」ことを


「曲を書く」という言い方を、よく、する。



よく、する・・・って言うよりは、フツーはそう言う、に近いかもしれない。




何故「書く」なのか?といえばこれは


「楽譜」に音符を書いたことの名残り・・・・なのだ恐らく。


レコードが発明・流通する以前の時代は


「音楽」は、「楽譜」に書かれて、それが売られていたのだ。


これは本当の話。


それしか、大勢のヒトに「音楽」を伝える手段はなかった。もちろん「ラジオ」もまだ、ない時代。


そういえば近年・・・・ていうか何年か前、


あの「ルーザー」のベックが、


自身の楽曲(新曲)を「楽譜」に印刷して販売する、という実験を行っていたけど、


あの実験も要するに、レコード以前の時代の再現、ということだったのだ。


しかし


ちょっと前にも言ったのだが


僕は「楽譜」を書かないのです、不要だから。


30年くらいオンガクをやってるけど、


楽譜が必要だ・・・・と思ったことがない。





だから僕は


「歌を書く」というような言い方はしない。


「歌詞」は、もちろん紙・・・っていうかノートに書き溜めているのだけれど、


僕にとっての「歌」は、言葉とメロディがあるものだから。



楽譜として書かれなくても「歌」は僕のアタマの中に厳然と、燦然と、存在するし、


ライヴハウスで月イチ弱で行われる我々ROCA'66のライヴでは


鮮やかに再現・更新・進化 してゆく「歌」たちが


演奏されるのです。





次の再現・更新・進化は11月17日



大阪・天満のライヴハウス PARA-DICE。






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ギターを弾くこと と、歌うこと。(11月17日は天満PARA-DICEでROCA'66のライヴ!)

2018-10-19 21:51:30 | Weblog

いちばん初めは、「ギター」そのもの、に憧れた。中二・・・の頃だったか。

ありがたいことに お願いしたら快く、買い与えて頂いて(父よ、母よ、祖母よ、ありがとうございます)、

フォルムの美しさに心を奪われていたので、当分は眺めて暮らした。

でもそのうち、当然ながら、弾けるようになりたい・・・という欲求が湧いて来て、、

教則本を買って、「コード」を覚えた。

コードを5、6、個覚えれば、「歌本」みたいなのを見ながらたいていの曲(フォークソングや、歌謡曲)は

ギターの伴奏をしながら歌うことが出来た。


「歌」?


ここで「ギター」と「歌う」という行為がつながる。

僕はいつの間にか、「歌う」ことも好きになっていた。

そして次の一歩は、自分の言葉をコードに乗せて、メロディを紡ぎだすこと。

・・・・・・・・・・・「自作曲」だ。


そのあと、その「ギター(が弾けること)」がきっかけで、

遠くから見ていただけの人(どいけん)と友達になることができた。勿論、今でも親しい友達だ。

彼が「歌う」と言うので僕は彼の横でギターを弾くヒトになろう、と思い、

「ギタリスト」になろう、と思い立つ。

僕にとって「歌う」ことと、「ギターを弾く」ことは、ほとんど同義になった。


そのあと高校でランブルフィッシュの前身バンドの立ち上げに関わって、

ギタリストとしての自分に、確信を持った。

それでも、自分の歌は作り続けていた。そんなに沢山ではなかったけれど、

歌詞も曲も、作っていた。時々は佐治が僕の作った歌を歌ってくれたりも、した。


そしてバンドはランブルフィッシュになって

奈良の高校生だった僕達は卒業してから大阪へ出て、

ランブルフィッシュは大阪のバンドになっていた。

そして多くの人々と出会った。多くの、多くの、忘れ難い人達・・・・・・・。


そんな風に賑やかな何年かが過ぎて、


ランブルフィッシュが解散してしまった時、

僕は、関西で活動している他のロックバンドに「ギタリスト」として加入させてもらおうかな・・・とも思った。

入りたいようなバンドも実は、あった。


でも自分の歌は作っていたし、

けっこう悩んだ末、

思い切って自分が歌うバンドを立ち上げることにした。

そういえば・・・ランブル解散に際して佐治は僕に「オマエはオマエの歌を歌え」と言っていた。


そして1992年に結成した「風の歌」というバンド。

なかなかいいメンバーが揃ったバンドだった。試行錯誤の連続だった。


「風の歌」は、僕のバイク大事故とかもあって、2年弱で無くなってしまうのだけれど、

その後の「ばるぼら」結成の礎・・・・みたいになった。


「ばるぼら」で僕はあっさり、「ギタリスト」に戻る。

ギターの「ノイズ」音を使って面白い、かっこいい、誰も聞いた事のない音楽が出来る、という強い確信があったし。

「ばるぼら」の6年間で、僕の出す奇天烈なアイディアをメンバーに受け入れてもらって、

自由に滅茶苦茶なギターを弾かせてもらえたことは、本当に良かった。とても幸せだった。

「ばるぼら」でやったことに関しては、達成感がある。




「ばるぼら」解散後は迷いなく、

自分の歌を歌うことに専念している。


「ギタリスト」をずっと やりながら、それでも自分の歌を作り続けていて良かった、と思う。


僕の「歌」を、真っ直ぐに受けとめてくれる人も、ちゃんと居てくれる。


ギターを弾くことは今でも、心から楽しい。

それに加えて・・・自分の「歌」を歌うことは(心理的な)痛みを伴うが、それも含めて・・・やはり心からの喜びである。



最新の新曲、「逢魔」の リ・アレンジ(アレンジやり直し、の意)がこないだのスタジオでやっと、完成した。

一曲にこんなに時間かけたのは初めてかも。一年以上かかっている。すごく、やりがいがあった。

だから(って言うか何と言うか)、聴いて欲しい。すごく気に入ってる歌だから。

他の歌も全部、心から気に入ってる歌だ。



次のライヴは

2018年11月17日、土曜日

天満  PARA-DICEにて。


対バンは

SMITHMISS/怪我童子/樋口友美/コッコア/清水コウタ



5:30 OPEN

6:00 START


チャージ ¥1200



出順は未定。決定したらまたこのブログに載せます。



ROCA'66の今年のライヴは、この11月のPARA-DICEで打ち止め、の予定。



だから


万難を排して


来て下さい。




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本名、もしくは・・・・芸名。

2018-10-16 22:25:28 | Weblog

先週の増子兄ィのラジオで言っていたのだが、

彼らの名前、「増子」とか「上原子」とか「坂詰」とかって、けっこう珍しい苗字なんだよね。

ベースのシミーだけはわりとよくある「清水」で、

そのせいか、メジャーデビュー前の彼の名前は「清水バカ男」だった(CDにもそうクレジットされていた)。

珍しい苗字・・・・で気付くんだけど、彼らって普通に本名なのね、そういえば。

このことは以前にもちょっと書いたんだけど、

「アンチ芸能界」みたいなノリで、本気のロックバンドのメンバーは、本名を名乗ってるヒトが多い気がする。

ソウルフラワーもそうだし、古くは、甲斐バンドもそうだった。

スターリンの遠藤ミチロウも、あれは本名だ。バンドじゃないけど、吉田拓郎も、佐野元春も。

でもRCサクセションのメンバーは、奇妙で面白い芸名を堂々と名乗っていた。


さかのぼって考えて、

色んな物事の「元祖」的な、あの ビートルズ はどうだったか?と言えば

リンゴ以外は本名だったはず(リンゴだけ何故か芸名なのだ!)。

ストーンズは・・・・マイケルがミックになってるけど、

それ以外のメンバーはフツーに本名だから・・・全体として「ほぼ本名」かも。

ボブ・ディランって本名じゃないんだよね。ロバート・ジンマーマンだもの。

デヴィッド・ボウイも本名じゃないし・・・・。

パンクで言うとジョニー・ロットンって、思いっきりふざけた名前なはず。

「腐れジョニー」みたいな。シド・ヴィシャスも思いっきり芸名臭い芸名だ。

クラッシュのジョー・ストラマーも芸名。「掻き鳴らしジョー」みたいな感じの意味。

テレヴィジョンのトム・ヴァーラインも芸名で、フランス詩人の「ヴェルレーヌ」の英語読み。

ラモーンズに関しては、言わずもがな。

パンクじゃないが、ソニック・ユースのサーストン・ムーアも意外なことに、あれは本名ではないらしい。

本名はわからない。名前は未だ・・・・・・無い、じゃない、知らない。


ロンドン・パンクも、ニューヨーク・パンクも、パンクだから本名で勝負・・・ていうことでもないのかな。


でもパンクって、社会的な発言をすることが多くて、

そういう発言をする時に匿名でなく、本名で堂々と発言する、という風に

すごく生真面目に考えて名乗ってるひとが、日本の「パンク出身」のヒトビトには多いかもしれない。


そういう態度は、尊敬に値する。









さて、


俺の本名ですか?

・・・・・・・・・・・・・えーっと、「片山道子」だわよ。









嘘です。








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荒野にて

2018-10-15 21:51:37 | Weblog

そこは柔らかな広い 洗い晒されたような草臥れた荒野で

秋の枯葉や枯れ枝の色彩だけが全てを支配していた

僕を心細くするヒヤッとした風が吹き

あたりは刻々と暗くなっていくが奇妙なことに

いつまで経っても真っ暗にはならない

遠くで誰かが誰かを呼んでいる声が聞こえるが

僕を呼ぶものは誰も居ない

そこは自由で寂しい場所

「秋」という名の王国跡

でも今はただの だだっ広い野原

雑草が色付いて、そして色褪せて行く

ここは僕のための場所で

同時に僕はこの場所から拒絶されていた

どちらにしてもそう長くここにいることは出来ない

どうしてだかわからないが

その事だけは知っていた

・・・でも あと少しだけ僕をここにかくまっていてくれないか?

どうも苦手なんだ

学校も塾も 放課後の校庭も

そしてその

誰が決めたかわからないようなルールに さ

どうしても馴染めないんだ


























秋になるといつも思い出す、

子供の頃の心象風景。








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秋の夜長の所有欲。

2018-10-14 19:00:27 | Weblog

シェアの思想、というか、物欲から開放されることって、すごくいいと思うのだ。

ちょっと前に書いた

「ライヴにギターを持ってこないギター/ヴォーカルのヒト」、みたいに

霞喰って生きてる仙人的に、ひとつ抜けた感じ。


以前一緒にバンドをやってたボケロウも多少、そんなところがあった。

そういえば・・・ランブルフィッシュの佐治もそうだった。

両者に共通するのは、

「物にこだわらないから、何でもすぐ、失くしてしまう」ということ。


むむむ。「失くしてしまう」のは良いことではないが・・・・・・

何も所有しなければ、何も失くすこともないのだ。


っていうか「所有」って何?という話もある。


「物」であれ「者」であれ、何か(誰か)を永遠に所有することは不可能だ。

自分だって、いつかは死んで、消えてしまうのだし。


そうすると・・・「所有」と「レンタル」とどう違うの?ってことになる。

ちょっと極端だが、そうなる。


ずっと以前に、仕事でいっしょになった、とあるキザな男が言ってたのを思い出す。

彼は一時期、某有名メーカーの高級外車を所有して、乗っていたそうなのだが

維持費の高さに音を上げて、何年かで手放してしまった・・・・のだそうだ。

自慢話につき合わされるのは苦痛だが、まあそれはいいとして、


あのさ、それって何年かレンタルしてたのと変わらなくないか?

クルマの所有ってもともと、そんなものなのかな。


まあいい、とにかく「所有」の概念というのは かくも儚いものなのだ。


さて、近年は「断舎利」とか言って、何でも捨ててしまうことを推奨されている。

「何でも」ってことではないのだろうけど、

この物質的に飽和しつつある現代社会では、「感動のないもの」は

片っ端から捨てていくのが利口なのかもしれない。



ギターなぞ、一本あればいいのだ。

アンプは、今やどこのハコでもきちんと用意してくれているJCで充分だ。

っていうか、あれって高性能で音がでかくて壊れない、贅沢な、いいアンプだ。

・・とか言いながら俺は

ギターは何本か所有してしまっているし、自宅には100Wのアンプも置いてある。



それらに「愛情」を抱いてしまっているからだ。

捨てられるワケがない。




でもきっと、いつか俺が死んだらそれらは全部、ゴミになるのだ。

みんなそういうこと、一度は考えたことあるだろう。


そういうのってわりと・・・・切ないよね。



俺はもう、これ以上何も「所有」などしないぞ・・・・・と思いつつ

ヤフオクのCM画像(のギター)なんかが絶えずパソコンの画面の隅に現れては、

俺の所有欲を刺激するのです。

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