福岡の、フォークリフトに乗った天使。

2024-05-30 20:03:11 | Weblog

つい先週のことなのだが、仕事でトラックで福岡に行った。

そしてあろうことか、道に迷ってしまった。すごく古い町並みの、入り組んだ倉庫街。

(しかし、道に迷うって、いい言葉だなぁ、道郎だけに。)

ナビが「ここだよ」と指示した場所には古い古い、取り壊し中の(ように見えた)倉庫しかなかった。

ナビは時々、バグることがある。

だから そこを通り過ぎて、そのへんを2周くらいしてたら南も北もわからなくなって、

ひぃぃ、と心細くなり、これは誰かに助けを求めよう、と思い。

通りすがりの、とある巨大物流倉庫にトラックを乗り入れて、

中にいたフォークリフトの運転手に、「道に迷っちゃったんだけど、この近くの、ここ知りません?」

と伝票の住所を見せながら言った。

藁にもすがる思いだった。

驚いたことにフォークリフトの運転手は若い女性で、しかも可愛い。

しかも親切で、

サッとポッケからスマホを出し、ササッと検索し、

モノの20秒くらいで

「ここ出て右に行って、突き当りを左、踏切を超えてまっすぐ行ったら左手がそこですよ」

と、的確な道順をてきぱきと教えてくれた。

素晴しい。しかも彼女の唇のわきには、ピアスがのぞいている。

頬を貫通させたピアスだ。お洒落だ。

「ありがとう!助かりマッス!!!!」と大声で笑顔で言うと彼女も

ニコッと笑い返してくれた。

一瞬、目の玉がハート形になった。

福岡の、フォークリフトに乗った頬ピアスの天使。

さてさて、彼女の言う通り、トラックを走らせると見事に、

さっきの、取り壊し中(にしか見えなかった)の古い倉庫にたどり着いた。

あれれ?と思ったが、まじまじとよく見ると、取り壊してるわけではなく、

改装工事中なのだった。そのせいで、看板も、見事に覆い隠されていた。

ここなのか?と意を決してトラックを乗り入れてみたら大当たり、そこが目的地だった。

わかりにくい!っちゅうねん。

(でもナビはバグってなかったのね。ナビごめん。)

天使の言うとおりだった。

ありがとう、福岡の天使よ。

道に迷ったのは哀しかったがそのおかげで、あの娘に会えてよかった。

もしかしたらこの後、もう一生会うことはないかもしれないけど(ほぼ間違いなくそうだろう)、

あの娘には、幸せになって欲しいデス。

 

 

 

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嵐の中のライダー。

2024-05-28 20:13:18 | Weblog

しかし、あれですな。

今日の雨は、よう降りよりましたな。

私なんざ、あきれ返ってしもうて、文句言う気力も失のうておりました。

降るなら降りやがれってな具合で。

バイク乗りの端くれの端くれとしては、もう勘弁しとくんなはれ、といった感じ。

ざんざん、

びちゃびちゃ、

どんどこ、

ザーザー、

いくらオノマトペを駆使したところで雨の音は上手く表現できた試しは御座いません。

屋内で、音を聴いてるだけなら優雅で悪くもないんですがね、

その雨の中を二輪車で突っ走る、となるともう、お手上げです。

ただやっぱ、トラックに乗り換えるとトラックは大したもので、

雨などものともせず走りよります。

一滴も、雨粒など運転席に入り込んで来ないし、

でも「風情」ってもんがありゃしません。

バイクで風雨の中を走るのは、かの1960年代の名バンド, ドアーズが

「ライダー・オン・ザ・ストーム」という歌で歌いあげております。

「嵐の中のバイク乗り」ですね、和訳すると。

嵐の中をバイクで走る。

もうこれがね、傍から見ると馬鹿みたいなのでしょうがライダー本人は

マゾ的に楽しい、ので困ったものでござんす。

バイクは本当に、楽しい存在でありまする。

タイヤがパンクして押して動かしてる時でも、

ガス欠で止まってしまった時でも、

灼熱の太陽の下でも、

真冬の寒風の中でも、

どんな時でも「マゾ的に」楽しいので御座います。

いや、勘違いして欲しくはないのだけれども、

アタシ自身は「マゾ」では御座らん。

本当に。

 

 

・・・違うからね。

 

 

 

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独白。

2024-05-26 18:06:16 | Weblog

僕はもう96歳になってしまった。

 

昭和3年生まれだから、そんなものだろう。

ちょっと前なら「昭和ひとケタオヤジ」と呼ばれた世代だ。今ではオヤジどころか、後期高齢者だ。

年月の分だけ、人は歳を取るものなのだ。

面倒くさいから今は、何年生まれだから何歳、の辻褄合わせをやらないでおく。

そんなのヒマな奴らにやらせておけばいいのだ。

僕がまだ幼少の頃は、戦争の影などなかった。

世の中は繁栄していく一方で、このままどこまでも行くのだと誰もが

信じて疑わなかった。

「戦前」だ。

でもだんだん、雲行きはおかしくなって行って、いつの間にか戦争することが

当然、ということになっていた。

僕は幸いにも、徴兵されるには至らなかった。その頃・・・・体を少し、悪くしていたからだ。

その代わりに、軍需工場で働かされることになった。

戦争後期には、喰うものなどほとんど、なかった。

ヤミ米、それが全てだった。

僕がいたのは戦闘機を作る工場だったが、戦闘機を作るための資材も、原料も、全然なかった。

当然、燃料であるガソリンもない。

戦争後期と言ったけど、その時には後期だなんて、そんなことわからない。

いつまで続くのか、このまま延々と戦争は続くのだ、と本気で思っていた。

新聞は大本営は発表を伝え、我が国は勝つ、と言い続けた。

でも、じり貧の我々の生活からは、そのことが嘘だと、誰にでもわかった。

我が国は負けつつあるのだ。

戦争が終わった、と誰かが言いだしたときには嬉しいよりは、哀しかった。

遅すぎたのだ何もかもが。

あれから70年近く経ったらしい。

僕には何人も、友達がいた。でもみんな死んだ。

ひとり残らず、全員死んだ。

当然と言えば当然だ。

何故、僕だけが今でも生きているのか、いちばん不思議に思ってるのは僕だ。

歳を取ると、

自分の「死」のことをリアルに考える。

ある程度以上歳を取った人は、誰でもそうだと思う。

これ以上、何も買うまい、と心に決めて、所有物は減らしていくことを心がけるし、

毎日、自分の「死」を想像する。

「死」は怖くはない・・・・が、少しは怖い。

なにしろ、その後どうなるのかが全然わからないからだ。

願わくば、死後は「無」であればいいな、と思う。きっとそうだろう。

戦争後期、そして戦後すぐの頃もつらかったが、

僕には、モノで溢れかえっている今の時代 が幸福には見えない。

腹が減って死ぬことは、もうない。

でもどうしてそれなのに人は、幸せになれないのか?

僕にはとても不思議だ。

あの頃(戦中、戦後すぐ)には

「とにかく飯さえ喰えれば」と思ったものだったのにね。

 

先日、去年生まれたばかりの君と、少しだけ会うことが出来た。

君はまだ0歳だという。可愛かった。

君の見る未来は、どんなものだろう?と少しだけ思った。

君に、様々な分別がつく頃には僕はきっと、この世にいないだろう。

それどころか・・・・明日死んでもおかしくないのだ僕は。

だから君と僕の間に、意思の疎通 といったものは存在しない。

でもいいや、

君と会えたことはとても、僕の中で大きい。

僕はこの後、消えて行く存在だけれども君が生きてくれるのだ、この世界で。

君とは血縁も何もないから、自分のDNAの存続、とかそういう期待も一切ないんだけど。

 

一時流行った、

「生物が生きて行く意味は自己のDNAの存続」っていう説は嘘だぜ、絶対。

 

そんな薄っぺらいものじゃないと思うんだよ、生き物って。

 

 

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同時代を生きる、ということ。

2024-05-21 20:22:29 | Weblog

ボブ・マーリーが亡くなった時、僕は14歳だった。

 

ということは僕とボブ・マーリーは14年間、同じ世界に生きることが出来たのだ。

同じ太陽の下。同じ惑星の上。

例えば、マリリン・モンローは1962年に亡くなっているので、

僕とマリリンは、同時代に存在出来ていない。

アーネスト・ヘミングウェイも、1961年にこの世を去っているので同じ。

ロバート・ジョンソンだって、僕が生まれた時にはすでに伝説の人だった。

そう考えると

ジミ・ヘンドリックスと、たった4年だが、同じ時代に生きられて良かったし、

カート・コバーンなんか、歳がぼくといっこしか違わないのだ。しかも彼は早生まれだから、

もしもカートが日本の小学校に海を越えて転校して来てたとしたら同学年だ。

ジミヘンを、僕が知った時には彼はとっくにこの世にいなかったのだが、

カートの音楽はリアルタイムで体験できた。

彼の死の第一報をラジオで聞いて、衝撃を受けた。

 

そのほかにも、言うまでもないが無数にそういう人がいる。

富士夫さんや どんとサンには実際に、お会いすることさえ、出来た。感無量だった。

浅川マキさんとは同じステージで一緒に、音楽を奏でることが出来た。すごかった。

同時代に生きられただけですごいことなのに。

 

 

さて話は少し身近になります。テーマは変わらないのだが。

 

 

こないだ、福山へ行った時に、

母と、妹と、妹の子供と、妹の子供の子供(妹の孫)と、妹の子供の夫くんと、ご飯を食べに行った。

妹の子供、というのは僕からしたら姪っ子、甥っ子だ。

その子供は・・・・・何だっけ?呼び方忘れたよ。彼らからしたら僕は「大叔父」なのだが。

妹の子供の子供は二人いて、下の子は何とまだ0歳だ。生まれてからまだ1年経たない。

僕の母からしたら、その子供たちは「曾孫」だ。

僕はその食事の席で、祖母のことを懐かしく思い出していた。

もう、祖母が死んで20年経つと思う。83歳で亡くなったから、

もし生きてたら100歳越えだ。大正生まれだった。

その僕の祖母と、この、まだ生まれて1年も経たないこの子とは、

同時代を生きることは出来なかったのだ、としみじみ思った。

祖母は聡明で、優しいひとだった。

 

好きな人と同時代を生きることが出来る、というのはラッキーなことだ。

 

僕がいくらマリリンを好きだったとしても、どう頑張っても、逢うこともかなわない。

実物を、ひとめ見る事も出来ない。

 

それに比べたら、

同時代を生きられるだけでなく、

偶然近い地域で生まれ育ったり、同じ学校に通ってたり、

同じクラスになる、なんて奇蹟だぜ。

 

もし、そうでなかったとしても

ライヴハウスで出会ったり出来たのも奇蹟的だ。

 

そんなのね、

出逢えない人のほうが圧倒的に多いのだ人生。当たり前と言えばそうだけどさ。

99.9999999999999999999999999999999999999999999%の人達とは出逢えない。

あ、この数字に根拠はないけどね。

 

どんな形であれ、我々が出逢うことが出来たのは奇蹟中の奇蹟だ。

何億分の一の確率だ。

この数字にも根拠はないが。

 

それで・・・・我々が友達になれる確率なんて、それ以上に、すごくくすごく低いんだぜマジで。

 

マジで

マジで

マジで。

 

 

だから僕はいろんな偶然に感謝している。

 

 

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ボブ・マーリー「ONE LOVE」

2024-05-20 20:16:45 | Weblog

昨日は久しぶりに、映画を観るために映画館まで出かけた。

そういうことをするのはずいぶん久しぶりだ。

家で映画のヴィデオすら、観ないのに。

 

さて観たかった映画はボブ・マーリーの「ONE  LOVE」だ。

ドキュメンタリーではなく、役者さんが演じているもの。

ちょっと前に話題になった「ボヘミアンラプソディ」みたいな。観てないけど。

あれは観たぞ、古いが「ドアーズ」は。「シドアンドナンシー」も観た。

「ブライアンジョーンズ・ストーンズから消えた男」も、観た。

ジミヘンのは、観てない。

でも役者が演じるロックスターものは、皆、ちと哀しい。

何故か?と考えたのだが、「本物」の映像が沢山残っているから・・かもしれない。

本物と比べると・・・・ひどい言い方だが、

全員、

”マイケルジャクソンのそっくりさん”みたいに感じるのだ。

ああ、マイケルジャクソンって、本物も好きじゃないんだけど。

 

まあいいや、

今回のこの「ONE  LOVE 」も、多少その哀しさはあるのだが、まあまあ良かった。

わざわざ観に行って良かった気がする。

なにしろ、音が良かった。音楽は本物であろうし。

ドルビーサラウンドだか何だかの、音の良い映画館だったので、

ド迫力の音だった。ライヴハウス並みの爆音。

やはりレゲエは低音が大事だわよ。レゲエだけじゃないけど、

特にレゲエはそうかも。

 

で、次の日である今日になって思い出す、いちばん切なかったシーンは

ボブが足の指の怪我が治らなくて、医者に出かけて、癌の告知を受けるところだった。

だってさ、

皆が彼を頼りにしていて、彼自身もそれがわかっていて、

「俺が皆を守らなきゃ」とか思ってる(であろう)のに。

闘病とか、そんなことしてる場合じゃねえ・・・・・のに。

自分の音楽が受け入れられて、これから色々なことが始まる・・・のに。

 

僕の友達も、そんな思いをしたのだろう。

 

癌に限ったことではないが、病気は残酷だ。事故も残酷だ。

 

 

でもこの映画は、ボブの死までは、描かなかった。

最後の方にさらっと文章でエピローグみたいに説明があっただけだ。

81年に亡くなりました、と。

 

1981年に僕は、何をしてたっけな。

もしかして14歳かな?その頃(15歳かも)。

時期的には、微妙で、自分としては大事な頃だ。

ボブ・マーリー死去のニュースは14歳の僕には、伝わらなかったな。

その前年のジョン・レノン死去のニュースは、覚えてるんだけどな。

 

 

追記

 

あ、そうそう、何を隠そう僕は、

ボブ・マーリー愛してるのです昔から。

というのは

1986年に大阪・アメリカ村の古着屋でフルタイムのバイトを始めたのだが、

その頃のアメ村って、ボブ・マーリー大流行で、っていうかそれ一色で。

皆が皆、目の色を変えてボブ・マーリーを聴いていた。

もう本当に、どこの店に行ってもボブ・マーリー。茶店でもボブ・マーリー。

雑貨屋でもボブ・マーリー。古着屋でもボブ・マーリー。

インド屋さんはもちろん。

 

1986年は、彼が亡くなってからまだ5年しか経っていなかったんだな。今思うと。

 

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すごいものを見た

2024-05-16 20:11:47 | Weblog

一人旅をしていたのは昨日と一昨日で、僕はもう家に戻っている。

昨日の話をしたい。

 

昨日の圏央道は事故で通行止めになっていた。

青梅 から 日の出 の間。

ばっちり、僕がその日、帰り道で通らねばならない道だ。

随分長い時間通行止め。恐らく・・・その事故で人が死んだのではないか。

で 当然、大渋滞が発生して、色々考えた挙句に僕は高速道路を降りた。

全然土地勘のない東京で、一般道を走るのはちょっと怖かったが

それ以上に面白すぎた(僕は東京が、いまだに好きなのです)。

そして八王子を目指して一般道をトラックで走っていたのだがその途中、

ものすごいものを見た。

何だと思いマスか?

 

それは、米軍・横田基地。

 

カーナビに巨大な敷地が出るも、それが一体何だか表示されない。

?????と思いつつ、すぐ横まで来たら、理解できた。

真っ暗な中、フェンスの向こうに航空機。圧倒的な威圧感。

巨大な巨大な基地のすぐ前には、小さな福生の駅。

ああ、ここが福生なんだ、と感慨を深くした。

 

富士夫さんが亡くなった街。

大瀧詠一が米軍ハウスに住んでいた街。

ストリートスライダーズの出ていた「UZU」というライヴハウスのある街。

福生は、こんなにも、基地に圧倒された街だったのか。

 

横田基地の上空は、日本の航空機は飛べない。

成田空港を利用する旅客機も、ここを避けるために大幅な迂回をする。

米軍機は日本の上空の、どこでも飛べる。

富士夫さんは、米兵に殴られて、それがもとで亡くなった。

その殴った米兵は、逮捕も起訴もされていない。

考えてみれば

富士夫さん自身も戦後の、占領軍の兵士の子供だったはずだ。孤児院育ちだったが。

 

占領軍。

 

今も日本は占領されたままなのだろう。

何か・・・・・通りがかって偶然目にしただけなのだけれど、

本物の米軍基地は、圧倒的だった。

この国にある様々な問題の、大元締めみたいな感じ。

ロールプレイングゲームの、ラスボス(最後の強敵)が住む「悪のお城」みたいだった。

そんな風に見えた。

真っ暗だったから航空機の機影まではまではっきり見えなかったのだが、

あそこには

戦闘機とか

爆撃機とか

戦闘爆撃機とか

自動追尾ミサイルとか

ハイテク地雷とか

焼夷弾とか

マシンガンとか

自動小銃とか

わんさか有るのだろうな。

 

まさか熱核兵器まではないだろうと思うけど。

 

 

 

 

究極の他人の否定はその他人を殺すことだと僕は思う。

だから

「人殺しの道具」はこの世界に、

少なければ少ないほどいい、と思うよ。

 

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一人旅

2024-05-16 19:28:00 | Weblog

私は今、東北に来ている。

5月だというのに夜と朝方は猛烈に寒かった。

吐く息が白くなるのだマジで。

そしてこれは仕事なのでもちろん一人だ。

一人旅、と言えなくもなくもない。

たまに長距離トラックに「列島一人旅」とか書いたステッカーを張っていることがあるが、

あの感じである。

 

だが考えてみたら私はプライヴェートで、私事で、自発的に、

一人旅というものを、したことがない。

今後やってみよう、という気も実は、ない。

 

世の中には一人で海外旅行に出かけたり、

ソロツーリング(一人でバイクで遠乗り)に行ったり、

ソロキャンプしたりする人もいる。

その気持ちがわからないか?と聞かれれば

いや、わかる気はするのだ。

それどころかそれって、考えようによっては究極に楽しいと思う。

しかし行こう、という気にはならない。今まで行ったこともない。

何でだろう?すごく不思議だ。

 

さらに、考えてみたら 観光旅行というものにも全く出かけたことがない。

いや確かに、バンドで中国に行った時には万里の長城に行ったし、

CMJに出演するために行ったNYでは名物の・・・・エンパイア・ステート・ビルの

根元まで行った(今思えばWTCのツインビルに行っとくべきだった)。

しかし、それらは飽くまで演奏旅行のついで、である。

観光を目的とした旅行も私は、全然行く気がない。

だから、京都の町には最近、特に多い観光客の皆さんの気持ちも、いまいちわからない。

他人を簡単に否定するのは良くない、と

私は本気で思っているので、観光客のみなさんを否定する気は毛頭ない。

ただ、気持ちがわからないだけなのだ。嫌ってもないです。

オーヴァーツーリズム問題、というのは現実にあるのだろうけども。

 

話を元に戻すが、

仕事とはいえ、今回の一人旅は気持ちがいい。天気も良い。

昨日なんかほとんど、誰とも会話してないように思う。

他人が煩わしいのか?と言われれば、そうではないのだが、

気の合う友達なんて、そうザラにいるもんじゃないぜ♪、とも思う。

(ZARA以外にならいるのか?)

 

 

 

付記

 

気の合うヤツなんて、そうザラにいるもんじゃないぜ

(「よぉーこそ」)

と言ったのもキヨシローだし、

気の合う友達ってたくさんいるのさ、今は気付かないだけ

(「わかってもえらえるさ」)

と言ったのもキヨシローだった。

 

どっちなんだ?

 

 

 

 

 

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一番シアワセだった頃?

2024-05-13 19:54:27 | Weblog

僕は生き物なので、何事もなくこのままいけば、いつか死ぬのだと思う。

 

こういうこと言うと「縁起でもないこと言うな」と言われてしまうのだけれど、

まあいいじゃん。

あ、今はとりあえず、馬鹿だが身体は健康で、余命宣告もされてないのだけれども。

 

それで、死ぬ寸前に、

今までの人生を思い出すような余裕があればいいなあ・・・と思うのだ。

思い出して、あの頃が一番シアワセだったよな、って言うとして(思うとして)、

それはいつだろう?

 

 

 

やはり幼少の頃だろうか?

新宿・戸山ハイツで何も考えず、屈託もなく生きてた頃だろうか?

 

それか・・・・

 

中学でギターを手に入れて、何とか弾くマネゴトが出来る気になって、

それで知り合った 孤高の男 どいけん と放課後、ロックやその他のことで意気投合して

しかも彼(彼等)と人生初のバンド(当初は甲斐バンドのコピーバンドだった)を結成して、

有頂天になってた、あの頃だろうか?

 

もしくは

高校で岩佐と知り合って、不良でコワモテの岩佐に「オマエ、おもろいやんけ」

と言われて、佐治の家に連れて行ってもらって、彼らとバンド

(オリジナル曲をやる本格的なバンドだった)をイチから立ち上げた頃・・・

だろうか?

 

それか

窮屈で退屈で面白みもなく、カネも一銭もなくてひもじかったデザイン専門学校に

見切りをつけて、友達の紹介で大阪・アメリカ村の古着屋で働き出した頃だろうか?

 

もしくは

岩佐を事故で失ってとことんまで自虐的に落ち込んでいた人生最低の時期に、

その岩佐と、佐治たちと一緒に立ち上げたバンド、(ネクスカ改め)ランブルフィッシュで

十三ファンダンゴに初出演して多くの人に受け入れてもらえて、

少しだけ救われた気がした、あの頃だろうか?

 

 

もしかして

ランブル解散後、

ばるぼら をボケロウとキヨシとマーボーと俺で結成して、

ポエジーでノイジーでジャジーでクレイジーでロックンロール!な音楽を

これでもか!っていうくらい好きなだけ追求して、そしたら

やることなすこと上手く行って、

自分たちに不可能なことは何もない、とマジで思い込んだあの頃

だろうか?

 

 

いや、もしかしたら「今」なのかもしれない。

ROCA’66を、現メンバーと演れてる今、現在。

相棒と死に別れたトビーと出会い、

赤井くんは瀕死の淵から見事復活し、そのギターは深みを増し、

伊藤克ちゃんは喜び庭駆け回る不老の妖精のようにキラキラと元気だ。

(さすがに「不老」であっても「不死」ではないと思うw)

 

 

 

あ、でも気づいたのだが、

死ぬときに思い出すヴィジョンを、

ひとつに絞る事など、必要ないかもしれないので(多分無いだろう)、

死ぬ寸前に僕は上記の出来事のあった季節を全部、鮮明に思い出すことだろう。

 

 

 

結論としては・・・・・

こんな風に追想すると気付くのだが、

もしかしたらアタシ(片山道子)は、ずっと過去も、今現在も不断なく、

ずっとずっとシアワセで居続けているのかもしれませぬ。

 

 

 

それは贅沢なことであるよな。

 

 

 

 

 

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身内と縁が薄い。

2024-05-11 14:28:28 | Weblog

良くも悪くも僕らは、身内と縁が薄いのだ・・・そんな気がする。

「僕ら」と複数形にしたのはこのことを、晩年の佐治くんも言っていたからだ。

身内、というのは解釈のしかたが色々あるかもなのだが僕が言うのは

「血縁者」のこと。肉親とか、兄弟とか、親戚とか。

 

僕の場合、何故そうなったか?というと15歳の時に家を出たからだ。

福山から奈良県T市の高校を受験し、そこに入った。

そこは全寮制ではない(自宅生と半々くらい)のだが、僕は男子寮に入った。

そして、盆暮れにはそれぞれ一週間くらい家で過ごしたが、

実家の家族と暮らすことはもう、なかった。

僕は関西に定住した。大阪に20年以上住み、佐治くんが亡くなったので

今は京都に暮らしている。

 

多くの人がそうかもしれないが、もっと子供の頃から

とにかく、友達と遊ぶことがすべてだった。

学生寮なんて朝から晩まで友達と一緒で、毎日が修学旅行だ。

有難いことに僕は寮で親友が出来て、毎日夜中まで語り合った。

学校でも結局、自宅生の不良ぶった奴等のバンドに加入することになり・・・

いや、違うな、彼らとバンドを、イチから立ち上げたのだ。

奇蹟的にバンドは上手く転がりだして、

(幸運なことに)気が付いたら僕は彼らの仲間になっていた。

放課後は彼らとバンド練習をして、遅い時間まで寮に帰らなかった。

そして学校を卒業してからも、そのバンドは続き、僕は大阪でひとり暮らしをはじめた。

彼らと深く深く、時間をかけて友達になって行った。

冒頭に名前の出た 佐治くん、というのはそのバンドの中心人物だ。

2007年に41歳でこの世を去った。

バンドのもう一人の中心人物だった岩佐は1988年に不慮の交通事故で、

高速道路で壮絶な最期を遂げた。

まだ21歳だった。

そんないろんな事が、生と死が、運命的に絡まり合って進んでいた。

その運命の中心に音楽と、バンドがあった。

そのせいもあって、というか

我々はバンドに夢中になるあまり、血縁者の身内と余り、、交流がない、ということに

なってしまった。まぁ、しょうがないと言えばしょうがない。

親戚に関しては、もともと、いないのだ僕には、そういう人たちが。

父はほとんど「みなしご」に近かったらしいし、母は一人娘だった。

だから従妹とかいない。

本来ならいちばん近いはずの両親や祖母や、兄弟とも、年に何回かしか会わない、

という環境になってしまった。まぁ、それもしょうがない。

 

 

でも、ふと僕は

画家だった大叔父(祖母の兄)の間接的な影響下にいる・・・・・・・

ような気がすることがある。

 

もしそれ本当ならそれは、すごく皮肉なことだ。

 

 

大叔父は1969年にこの世を去っているから、

僕は彼と会った記憶もないのに。

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夢と現実について。

2024-05-08 20:31:17 | Weblog

僕は二十代の頃の一時期ではあるが、黒猫を飼っていたことがある。

だから知っているのだが、猫という奴は、よく寝る。

よく寝るから 寝る子→ねこ という名称になった・・・という説もある。さもありなん。

そしておそらく猫は、夢も見ている。

で、

猫にとっては、夢と現実の境界は「無い」のであろう・・・・と僕は推測する。

つまり、夢なのか現実なのか、猫には判別ついてないのではないか。

それはつまり、「夢」という概念を彼らが持たないからだ。

そして人間も、夢と現実の区別がつかなくなる瞬間、というのは数多くの場面で、ある。

深く深く眠って、起きたばかりの時とか。寝ぼけてる時とか。

それともうひとつ。

悲痛な話なのだが、

去年、近しい友達が、弟を癌で亡くした。

死期が近くなった頃、病室にお見舞いに行くと、

鎮痛剤の副作用(であろう)で眠っていることが多かった彼(弟)が目を覚まして、

「幼かったころの夢ばかり見る」と言った、という。

そして

「今の、この瞬間も夢なのか現実なのか、わからない」という意味のことを言ったそうだ。

わかる気がする。

確かに・・・・・もしかしたら彼は本当は幼いままで、

思春期を経て大人になって結婚して子供も出来て癌になって闘病して入院して

今現在死にかけている、という現実は

幼い彼が見ている夢なのかもしれない。

そうなると我々はただの、彼の夢の登場人物だ、ということになる。

というか・・・・彼と実際に知り合ってはいないから、登場すらしていない、夢の付属物だ。

 

僕は、と言えば

つい先日・・・・「川で溺れて身体が冷たくなって行く夢」を見た。

うわっと目を覚ますとそこは寝室で、扇風機が廻りっ放しになっていた。寒くて、体が冷えていたのだ。

あわてて扇風機を消したのだが、

もしかしたら

それは願望的な夢で、あっちの現実では僕はあのまま、川で死んだのかもしれない。

寒い、冷たい・・・・。ここがいつもの寝室だったらどんなにいいだろう、と願うあまり、

死ぬ一瞬前に、

そんな夢を見たのかもしれない。

本当のところは、わからないよな。

 

 

 

そういえばフィリップ・K ・ディックの小説のテーマの多くは

この現実(記憶)は夢なのか、それとも本物なのか?

というものだった。

 

このことって、本当はとても「危うい」こと・・・・のような気がするのは僕だけだろうか?

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