うまく自分の中で整理できていないのだが、
思うに・・・・・
音楽には、「楽譜を読みながら演るもの」と、「自作自演で演るもの」、の
2種類あるのかもしれない。
伝統的で正統的なクラッシック音楽のほとんどは
過去の偉大な作曲家達がつくった、偉大な楽曲を、楽譜どおり・・・(とは言え、
楽譜の解釈も百人百様で、いくらでも「読みよう」があるのだが)、演奏する。
基本的にはそういうものである。
でもパンクとか、ロックやフォークの多く・・・は、自作自演の世界である。オリジナル楽曲が全てだ。
「自分が言いたいことを言う」のだ。そのためには自作自演は必須だ。
でも偉大な作曲家の曲を、楽譜どおり演奏したり、有名曲のカヴァーやコピーをしたりすることが
悪い、とは全然思わない。当たり前だが。
でも、自分自身が演りたいのは言うまでもなく、自作自演だ。
「自作自演」といっても・・・・・・何もない、ゼロの地点から創作など、出来はしない。
もちろん「自作」は、ドレミファの音階ありき、だし(それはつまり、「コード(和音)」ありき、ということでもある)
そして「歌」の場合もちろん、言葉ありき・・だ。
楽曲的には、過去のロックミュージック、ポップミュージック、フォークミュージックのフォーマットも
無意識のうちに土台に、そして参考にしていると思う。
でも、それでも、出来上がった「自作曲」は、世界に唯一のものであるのだ。それは間違いない。
そういうものを創作するのは、そんなに困難なことではないし、
それは「やる」か、「やらない」か、というだけの違いしかないのだ。
だから、何が言いたいか、というと
クラッシックとかの「過去の偉大な作曲家」重視の世界と、
「自分で作っちゃえばいいじゃん」というような世界は
同じ音楽でも結構距離が、かけ離れているのかもしれないなぁ・・・・・・ということだ。
もちろんだが、
どっちが「良く」て、どっちが「悪い」という話ではない。
音楽的達成、とか技術的な高み・・・・みたいなことに関しては
クラッシック・ミュージックに、敵いはしないのだ我々は。
でも、クラッシックに比べたら音楽的に安易かもしれないがロックミュージックは、
自分自身を投影できるのだ。このことの「強み」は、
計り知れない・・・と思う。
思うに・・・・・
音楽には、「楽譜を読みながら演るもの」と、「自作自演で演るもの」、の
2種類あるのかもしれない。
伝統的で正統的なクラッシック音楽のほとんどは
過去の偉大な作曲家達がつくった、偉大な楽曲を、楽譜どおり・・・(とは言え、
楽譜の解釈も百人百様で、いくらでも「読みよう」があるのだが)、演奏する。
基本的にはそういうものである。
でもパンクとか、ロックやフォークの多く・・・は、自作自演の世界である。オリジナル楽曲が全てだ。
「自分が言いたいことを言う」のだ。そのためには自作自演は必須だ。
でも偉大な作曲家の曲を、楽譜どおり演奏したり、有名曲のカヴァーやコピーをしたりすることが
悪い、とは全然思わない。当たり前だが。
でも、自分自身が演りたいのは言うまでもなく、自作自演だ。
「自作自演」といっても・・・・・・何もない、ゼロの地点から創作など、出来はしない。
もちろん「自作」は、ドレミファの音階ありき、だし(それはつまり、「コード(和音)」ありき、ということでもある)
そして「歌」の場合もちろん、言葉ありき・・だ。
楽曲的には、過去のロックミュージック、ポップミュージック、フォークミュージックのフォーマットも
無意識のうちに土台に、そして参考にしていると思う。
でも、それでも、出来上がった「自作曲」は、世界に唯一のものであるのだ。それは間違いない。
そういうものを創作するのは、そんなに困難なことではないし、
それは「やる」か、「やらない」か、というだけの違いしかないのだ。
だから、何が言いたいか、というと
クラッシックとかの「過去の偉大な作曲家」重視の世界と、
「自分で作っちゃえばいいじゃん」というような世界は
同じ音楽でも結構距離が、かけ離れているのかもしれないなぁ・・・・・・ということだ。
もちろんだが、
どっちが「良く」て、どっちが「悪い」という話ではない。
音楽的達成、とか技術的な高み・・・・みたいなことに関しては
クラッシック・ミュージックに、敵いはしないのだ我々は。
でも、クラッシックに比べたら音楽的に安易かもしれないがロックミュージックは、
自分自身を投影できるのだ。このことの「強み」は、
計り知れない・・・と思う。