もうすぐ訪れる9月27日は、
ランブルフィッシュのヴォーカル・佐治朝吉の命日である。
彼が逝ってしまったのは2007年だったから、
あれからもう15年も経つ。
去る9月18日には奈良で、
彼の奥さんと、息子と、
残された「ネクスカ」のバンドメンバーが集まってささやかに、
彼の思い出話などをして時間を過ごした。
ランブルフィッシュにはその「前身」ともいえるバンドがあって、
それが「ネクスカ」というのです。
佐治、庄司、ベース岩佐、ドラムズ モ吉。
高校2年の時にギターの僕と、サックス三太が加わって完成したバンド。
一番初めは佐治がドラムズで、岩佐がヴォーカル、庄司はベース、
モ吉がギター、という編成だった。
高2で僕が加わったときも、佐治はドラムを叩きながら歌っていた。
でもどういう経緯かはわからないのだが、
岩佐はベースを始め、モ吉はドラムズを始めた。
僕が呼ばれて、とりあえずは秋の学園祭に出演するのが目標だった。
驚いたことに、オリジナル曲をやるのだ。
そんなことは、他に誰もやっていなかった。
オリジナル曲をやるバンドなんて、他にはひとつもなかった。
もちろん「軽音」の中にもなかった。
でも僕はそのとき既に、自作曲を作り始めていて、
何曲か「持ち曲」があった。
佐治の「持ち曲」はまだ1曲だけだったのだが、
その後、彼は曲作りに目覚め、学園祭出場の頃は10曲以上
オリジナル曲があったと思う。
僕が一発で佐治に気に入られたのは、
彼の持ち曲の「コード進行」を発見することが出来たからだ。
メロディからコードを模索していくようなことはその当時、誰もできなかった。
(その記念すべき曲のタイトルは「ひなたぼつこ」という。
いつか演るから、タイトルだけ覚えといてくれ。)
そして僕の後にサックス三太が呼ばれて、バンドは完成した。
佐治はそれ以前から映像作家に憧れていたようで、
彼の家にあったソニーのベータマックスの、
当時は高価で貴重だったビデオカメラで短いSF作品などを撮っていたみたいだった。
彼は学校ではヤンキーみたいな態度と恰好でさんざんイキがっていたから、
そういう面を見て、僕はすごく意外だった。
そして我々は学園祭のための練習に入った。
場所は佐治の部屋である。ドラムセットがあるのだ。アンプもある。
だが防音はされていない。さぞ近所迷惑であったろう。
で、その部屋に行くたびに、ビデオカメラが置いてあって
RECの赤いランプがついているのだ。
全然そんなこと、気にもしてなかったのだが、佐治は練習風景をずっと録画していた。
そして学園祭当日。ライヴは盛況だった。緊張したけど、
底抜けに楽しかった。
で、僕はバンドはそれで終わりなのかな?と少し思っていた。
当初、学園祭に出ることが目的だったのだから、
僕はもう、彼らに呼ばれないのかもな、と思った。
でも全然違った。
学園祭から数日後、「おいミチ、次練習いつやるねん?」と佐治が言ってきたのだ。
あ、終わってなかったんだ・・・と気づいて、僕は少し嬉しかった。
それが1984年の話。
バンドは続いて、オリジナル曲もたくさん増えて、
カセットテープに多重録音したものを「アルバム」と称して作成して、
10本くらいつくって、友達の間で流通させたりした。
そして年を超えて1985年に入って、
佐治がニヤニヤしながらバンドメンバーに「おもろいモノつくってん」
と言った。
佐治の部屋でみんな集まって、
自分たちのバンドの「ドキュメンタリーフィルム」としか言いようのない、
40分くらいの作品を見た。
学園祭に出るために練習していた風景・を録画していた膨大な動画を、
佐治が一人で編集して作品に仕上げたのだ。
自分たちがビデオに写ってるだけでも新鮮なのに、
演奏している姿や、インタヴューの真似事、当日のライヴ風景とか
それだけではなく、彼らはユーモラス・・・というか、関西人なので
全力でふざけるのだ、カメラの前で。細かい、短いギャグの連発。
ほとんど「ギャグ集」のような作品でもある(お笑い系なのか???)
面白過ぎた。みんなで何度も見た。
その後、バンドはいろいろあって、あり過ぎて、
メンバーも何人か替わり、名前も「ランブルフィッシュ」になった。
その後またいろいろあって、岩佐は事故で亡くなり、
ランブルは解散し、佐治は癌になった。
(モ吉は2020年に亡くなった。)
長い長い闘病の末、佐治が亡くなったあと、
遺品となってしまった膨大なビデオテープやカセットテープの中から
僕はこれを見つけ出した。
断言するが、僕にしか見つけることは不可能だったはずだ。
ベータマックスのビデオカセットに「1985」とだけ書いてある。
ぼくは「あれだ」と確信してそれを借りて帰り、
業者に依頼して、テープの修復とDVDへのダビングを、した。
ベータマックスのビデオデッキなど現代では何処にもないのだ。
それは何年か前のことだった。
その作品をこないだ(2022年)の9月18日の集まりで、
見たのだ。
映像は1984年だから、38年前!!!!!!!!!
38年前の「ネクスカ」。
ビデオテープのラベルには「1985」と書いてあるのだが、
映像は1984年の物で間違いないと思う。
編集を終えたのが1985年だったので何も考えずにラベルに書いたのだろう。
我々は16歳前後である。
久しぶりにその作品を見て、色々と感慨深かったのだが
面白いのは、その1984年の学園祭ライヴ、
幕が開いて、ヴォーカリストは佐治・・・ではなく岩佐である。
佐治ドラム、庄司ベースで、
カヴァー曲を何曲かやっている。ギターは僕で、もう一人のギターはモ吉だ。
ビートルズヴァージョンの「ロックンロールミュージック」、
ブルーズブラザースヴァージョンの「エヴリバディニーズサムバディトゥラヴ」、
オーティスレディングの「フォーユアプレィシャスラヴ」とか。
そして中盤、何と僕がギター持たずに(!)真ん中に立って、
当時の自分の自作曲を歌っている。1曲だけ。
そして終盤にやっと佐治が真ん中に立って、岩佐はベース、
僕と庄司がギター、モ吉がドラムズ、サックス三太、というお馴染みの編成で
佐治の自作曲をやるのだ。
そうだったんだ、
一番初めのライヴではまだ編成が固まってなくて、
色々な形態でやってたんだ。そんなこと、完全に忘れてた。
もうひとつ、
その一番初めのライヴでは、女の子がキーボードを弾いている。
これは同級生の「軽音」の女の子で、メンバーの彼女だったTさんだ。
このこともすっかり忘れていた。
2ギターにサックスに、鍵盤まで入った6人編成のバンドだったのだ。
昔の事って、覚えてないものだ。
この、タイトルさえ ないドキュメンタリー作品「ネクスカ」は、
YOUTUBEにアップしたり・・・とかは するつもりはない、って言うか、
出来ない。
どう考えてもプライヴェート過ぎるのだ。
でも亡き人を忍ぶのにはとても有り難いものだった。
これが残っていたことに感謝。
当時、これを作ってくれた佐治くんに感謝。
膨大な遺品のカセットの中からサルヴェージして
業者に修復を依頼した自分自身もエライ。
って言うかもう何て言うか、「世界は素晴らしい」。
高校の時にやってたバンド「ネクスカ」の
発掘されたドキュメンタリー作品の話でした。
長々と、読んでくれてありがと。
退屈だったらごめん。