九月の終わりに思うこと

2021-09-30 21:48:15 | Weblog

今日で九月は終わり。

毎年毎年、誕生日と命日の連続するセプテンバー。

十月に入りさえすればそこは憧れの「たそがれの国」で、

一息付けるかと思いきや そうは問屋が卸さずに、

疲弊したままの私はまるで薄い紙のような頼りない心のままで、

風に飛ばされてひらひらと ただ彷徨うばかりの毎日を、

どのようにして傷つかずに切り抜けて行けるかどうか・・・・・・・。

すり傷ならばよいのです、擦過傷ならいくらでも大歓迎、

でも致命傷なら、それはちょっとマズイ、

急所への一撃は何としても回避しなければならないのです。

改めて思うには

やはり生きていくにはどうしても実質的な「身体」が必要で、

これなくしては誰もが、この「世界」に存在出来ぬ。

だから健康でいることが大事・・・などと教条めいたことを言うつもりは

さらさらなく(いや・・・大事なんだけどさ)、

でもとにかく私が私である という事実は 千載一遇の希少なレアな出来事なのですよ。

でも私と来た日には

芳醇に、色々な色々なチャンスがあったのに、全部棒に振ったよ、惜しげもなく。

でもいいのだ、そうしか出来なかったのだから、それでいいのだ。

前にも言ったけど私に「選択肢」なんてなかったのだから。

目の前のロープにしがみついて生き延びるので精いっぱいで、

そんなことの連続の人生だったのだ。

でもこの期に及んでこの私は思っている、まだやれる、と。

チャンスはこの後も とめどなく空から降って来るし、

また、「ラッキーの極致」みたいな状況も巡って来る。

それがただの思い込みだったとしても、

本当はもう終わりで、この先のチャンスなど全然ない・・・・のだとしても、

「まだやれる」って、そう思えることはすごいことです。

ちょっと厚かましいかも知れないけれど。

 

 

 

 

 

 


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9月27日、西暦2021年。

2021-09-27 20:45:28 | Weblog

 

 

彼が逝ってしまってから14年も経つのか・・・・としみじみ思う。

 

我々が出会ったのは高2の時で、二人とも多分、16歳だったはず。

岩佐が強引に佐治に、僕のことを紹介したのだ。

「こいつなかなかやりよるねん」って。

それは現在から数えると何と、39年も前のことになる。

 

初対面のエピソードは残念ながら覚えていないのだが、

その後、高3になって初めて我々(佐治と僕)は、同じクラスになった。

 

僕の印象では当時の彼は

浮ついたところのない、勝気なヤンキー・・・・って感じだった。

けっこう周囲に対して攻撃的だったし。

 

僕はこの16歳の頃はもう、自分が大人だと思っていた。

でも今から思えば、本当に子供だ。

 

佐治も少年だったな・・・と思う。

僕から見たら当時の彼は、ずいぶん老成して見えたのだが。

だって、目が据わってたもん。高校生なのに。

 

いろんなことがもう、「歴史上の出来事」みたいだ。

 

そんな

ガキだった僕らに、重い重い試練が訪れたのは

その何年か後だった。

1988年6月3日の土砂降り雨の夜の、忌まわしいあの事故。我々は突然、岩佐を失う。

 

 

 

 

あのことがあってからの佐治は・・・・他人に対して優しくなったように

僕には思えた。

 

 

 

 

 

 

でも、思い返してみたら、楽しいことも多かったな。

特に彼(佐治)が、高校卒業後、ヤンキーみたいな感じからだんだん

筋金入りの やさぐれたロッカーに

風貌が変わっていくのを見るのは

なかなか、興味深く、面白いことだった。

 

 

一緒に、髪の毛を伸ばし出したのが19歳の頃。

大阪の街を飲み歩いていたのもこの頃だ。1985年前後か。

ライヴハウスに出演しまくるのは、その もっと後の事になる。

1989年くらいから

大阪・十三ファンダンゴはほとんど毎月出ていたし、

東京にも何度も遠征したし、

青森や、九州の博多や佐賀にも行った。

 

 

 

本当に、色々あったよね。

 

14年前の今日はもっと暑くて、もうメンタルもフィジカルも、

何もかもが崩れ落ちて消えそうだったけど、

 

今は変に涼しいのだ。

 

2021年の、9月27日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真は、向日葵の後 放置していたら咲いた、青い花。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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雨、本、フォリフォリ、日々雑感、2021年9月末。

2021-09-26 16:26:52 | Weblog

とりとめもなく、いろいろと書きましょう。

 

いい季節に突入中で、小雨すらもいい感じ。

僕は最近はハードワーク過多気味で、へとへとに疲れていたりする。

仕事がキツ過ぎるのだ。

でもへとへとに疲れて眠るのは実は何よりも快感であったりするので

あなどれない。

いちおう、ちゃんと眠れれば翌朝に復活できているので、

そんな風に・・・・まだ健康で在れることが嬉しい。

でもこんなこと、いつまで続けられるのか?とも思う。

 

疲れた体を引きずって自転車で、近所の巨大ブックオフへ行く。

何か「文化」に触れなければ僕は消滅してしまう。

 

さらっと見ただけで、いい本が2冊もあった。

まず、カズオ・イシグロの最新短編集、「夜想曲集」。

「夜想」という名前がいいじゃないか。ライヴハウスみたいで。

まあ、単純に「ノクターン」の訳語なのではあるのだろうが。

カズオ・イシグロの作品を読むのは久しぶりだ。

 

そしてもう一冊、

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの長編、「輝くもの 天から堕ち」。

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアは・・・・・すごいんです。

この人、男性名だけど実は女性で、色々とものすごい経歴の人で、

大好きなSF作家なのです。しかしもう、この世にはいなくて・・・・・。

また亡くなり方が壮絶だったりするのだけれど、

この人の、未訳だった作品が発表されるのは嬉しい。心して読む。

 

そして時計。

僕が時計業界を離れてからもう十年近くなる。

だから、今の時計業界のことは全然わからないのだけれど

時計は今でも好きで、安くて魅力的なものがあったりするとつい買ってしまう。

この写真の、本の上に乗っている時計はフォリフォリというブランドのもので、

十年前くらい前にこれが大ヒットしたのだ。

僕のいた店でも扱っていて、当時は、飛ぶように売れた。

売れるのも当然で、だってデザインがやはり、すごく良い。

フランクミューラーからのパクリデザイン・・・とは言うが、

フランクミューラーのあのデザインも、実はアンティークからの拝借なのだ。

だから、フォリフォリのこれは、アリ。

この、ジルコニア(人造ダイヤ)がついてないもので、新品は

(並行輸入店価格で)19800円だったと思う。

14800円だったかな?とにかくそんなに安くないのだ。

エフェクター1個買えるくらいの値段。

でもそれが、ブックオフのユーズド時計売り場で異常に安かった。10分の一以下の値段。

もと時計店員の目でチェックしたのだが、使用跡がいっさいない。

革ベルトにもしわひとつないし、ベルト穴を通した形跡もない。時間も合っている。

表面にも傷ひとつない。表にも裏にも保護ビニールが張ったまま。「新古品」だ、これは。

以前から、デザインが好きだったので買った。眺めてるだけでも楽しいのだ。

でもこの新古品の投げ売り価格は何だ。

そういえば・・・・フォリフォリというのは確か、ギリシャのアクセブランドなのだが、

倒産したとかしないとかのうわさを聞いた。

だからかな。でもいいや、そんなの、僕にはあまり関係ない。

 

自分に関係ある事って、実は少ないのだ。

とか言って裏を返せばそんなことはない。「世界」で起きているすべての出来事が

僕に、直接関係してくる。

 

くだらない総裁選も、アフガニスタンの出来事も、イスラエルでのいざこざも、

月の満ち欠けも、二酸化炭素排出削減問題も、ワクチンに異物混入の問題も、

コロナ陰謀論も、アポロ陰謀論も、

チャーリーワッツ、実はロボットだった説も、

秋の交通安全週間も、この後の天候の推移も、

阪神タイガースの優勝の行方ですらも。

 

 

 

 

明日は盟友・佐治朝吉の命日だ。

 


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趣味的

2021-09-23 19:18:22 | Weblog

趣味っていうほど軽いモンじゃないんだけど、

趣味でやってる、て言った時の言葉の響きは

なかなか悪くない。

 

趣味の合う人と合わない人がいるけど、

趣味の合わない人なんて僕から見たら

それは単にセンス悪くて知性も欠如、って話だから

そーゆー人と関わらなければならなかったりするのは

一種の地獄である。

 

しかし狭い世界で近視眼的に満足して生きていても

発展というものがないので、やがて行き詰ってしまうのは自明の理であって、

我々はやはり、

ヤなことも雑菌も、清濁併せて飲み下さねばならない運命なのだ。

 

趣味的に凝り固まらず、

出来上がった自分をせっせと壊しながら

それでもある一線は超えず、飽くまでも趣味的な範囲からは逸脱し続ける。

「留まる」ことも大事なのだ。

 

本当は血が出そうなほど思い詰めてるのに

対外的には涼しい顔をキープするのだ。

そして言う   趣味なのよ、と。

 

それは道楽に似ているかもしれない。

身を滅ぼすほどの道楽。

一銭の儲けにもなりはしないヤツ。

何のためにやってるのか???って、もう・・・わからないようなヤツ。

 

 

趣味だから・・・・こそ逆に、

逃げ道は、ない。

 

僕は自分自身と共に、そして仲間と共に、煉獄へのドライヴを続けるのだ。

 

 

 

 

あ、でも結局、着いたところは天国だったわ。

 

 

あははは・・・・ってなことも

 

 

ありえなくはない。

 

 

 

 


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100年後

2021-09-19 18:28:04 | Weblog

陰謀論って、すごく多い。

 

嘘だか本当だか、わからないような話。

 

 

陰謀論として一番有名なのは、

「アポロは月に行ってない説」だと、僕は思う。

でもあれは・・・・・幼稚って言うか、イマイチだ。

発想として面白くは、あるのだが。でも元ネタは映画だよな。

 

さてさて、マリリン・モンローは実は暗殺されたのだ、というのも陰謀論か。

マリリン・モンローという存在はしかし、面白すぎて困る。

ケネディとの浮名とか。

でも実は読書家で、トルーマン・カポーティと親しかったのも事実だし、

彼女の遺品からフィッツジェラルド著「グレート・ギャツビィ」の初版本が出て来たのも事実なのだ。

でも、彼女の死の真相はわからない。

 

カート・コバーンは(妻である)コートニー・ラヴが誰かに依頼して殺したのだろうか?

これも真相はわからない。

僕はカートの死の直後、と言ってもいいであろう1994年12月に

心斎橋クアトロでHOLEのライヴを見ている。

コートニーがMCで「カートアンドミー××××××××××××」と言っていた。

「カートアンドミー」までしか聞き取れなかった。でもそれだけでも貴重な気がした。

 

こないだ30周忌だったが、2001年9月11日の、

あのNY同時多発テロ事件がアメリカの自作自演だ、というのは果たして陰謀論なのだろうか。

僕にはわからない。

でも近所の、飛行機が突っ込んでないビルまで同時に崩壊した、とか胡散臭いことが多い。

WTCビルの中に入っている とある企業は何故かその日、休業だった・・とか。

僕は1998年11月にバンドでライヴのためにNYを訪れて、

合間に、マヌケなことにエンパイア・ステート・ビルを見物に行った。

どうぜならWTCビルを見物しておくべきだったのだ。・・・・まあいいいか。

 

1985年の、御巣鷹山への日航機墜落事故は、僕は裏に、

それの真相を隠そうとする陰謀があると思っている。

知れば知る程、おかしなことが多すぎるのだ。

 

アベ政権の時に強行採決された秘密保護法という世紀の悪法は実は、

あの日航機墜落事件の秘密を隠し通すために出来たのだ、という説すら、ある。

さもありなん・・・・と僕は思う。

 

 

ジョン・レノンの死も、ただの狂ったいちファンのしわざ・・・・ではなく、

CIAによる暗殺だ、という話もある。

これも、もしかしたら陰謀論ではないのかもしれない。

 

 

 

さてさて、現代の、そして現在進行中真っただ中の、

このコロナ禍自体が仕掛けられた陰謀なのかどうか。

 

コロナ・ウィルスは人造の、生物兵器なのか?みたいな。

 

ただのパンデミック(疫病による恐慌)ではなくて、

インフォデミック(情報による恐慌)・・・・なのかもしれない、とは、ふと思う。

 

っていうか、パンデミックとインフォデミックの合わせ技・・・・・みたいな。

 

 

100年後の人たちはこの時代のことを、どんな風に見るのだろう。

 

100年後の歴史の教科書を見てみたい。

 

 

 

 

 

 

 

今思えば、1970年代に、我々子供の間で大流行りした

 

「ノストラダムスの大予言」って、

 

形はちょっと違うけど陰謀論的なもののさきがけ・・・だった気がするな。

 

 

みんなそうだったと思うんだけどあれ、

 

 

アタマから信じてしまったよね。

 

 

 

 

 

 

 

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ガラス片

2021-09-16 20:45:48 | Weblog

身体の何処にも痛いところがなくて、

抱えてる病気もとりあえずなくて、

差し迫ったピンチ(借金とか訴訟とか失業とか墜落とか)もなくて、

朝、起きられてメシが喰えて、

今晩寝る場所の心配もないのだから、どう考えても僕は幸せなのだ。

それどころか友達や、愛すべき人などが居てくれるのだから言ってみればそれは

幸せの極致だ。

 

だから僕は他人に対して寛容にならなくてはならない。

この人生というものは、

寛容になるための修行なのだきっと。

 

傲慢になってはいけない。

傲慢になるのは、とても簡単だ。

 

傲慢にとんがった「角」を少しずつ削られるのはそのたびに、少し痛い。

でも、そーゆーのを何千回、何万回と繰り返していくと

海の中で時々見かける、波に削られてゴツゴツした「角」が取れて丸くなった

ガラス片

みたいになれるのだ。

 

僕はいつか、あれになりたい。

 

色を選べるなら青、

少しくすんで、それでも一応透き通る、

浅瀬の、丸みを帯びた ガラス片に。

 

そして瀬戸内海の

閉鎖された海水浴場跡の浜辺に横たわり、、

 

「君」が海水浴に来るのを待ちわびながら暮らすのだ。

 

 

あ、でも今はまだ夏が終わり始めたばかりの季節で、

 

どれだけ待てばその日が来るのか?は定かではないし、

 

遥かに遠い。

 

 

 

それでも。

 

 


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どうでもいいような話

2021-09-15 21:35:31 | Weblog

本当にどうでもいいような話なのだが

 

 

ABBAというグループが再結成して再始動する、というのを

ネットニュースか何かで目にした。

文字情報で得たのだ。

 

一度目は、

え?ARBが再結成、再始動?と思った。

 

よく見たら違った。

 

 

 

 

 

二度目。

 

え?BBA(ベック・ボガート・アピス)が再結成?

 

と思った。

 

 

違った。

 

 

 

ただのABBAだった。

 

 

 

頭文字名前というのはかように

 

 

間違えやすいものであることだな。

 

 

 

しかし二度も引っかかるなんて、僕は単に

 

 

馬鹿みたいである。

 

 

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機械説

2021-09-09 21:20:14 | Weblog

我々は誰もが例外なくロボット・・・っていうかサイボーグなのではないか?と

僕は時々、考える。

材質は基本的に水分とタンパク質で出来ている、とてもとても高度な

生体サイボーグだ。

誰が製作したのか?は、定かではない。

 

インプットされているのは、「生きる」という本能。

自己保存本能と言ってもいい。

そのために飲み、喰い、排泄し、呼吸する。

そして他者を愛したり、憎んだりする。

そしてそれは自分でコピーを作って増える。別の言い方をすれば、繁殖する。

 

そんな生体サイボーグである我々の人生は、

壮大な実験である。

この世界はつまり、巨大な実験室なのだ。

 

 

幾億もの生体サイボーグに「生きる」という使命を与えて、野に放つ。

そしたら、どうなるのか?

何が起こるのか???

 

実験はまだ途中段階だから、

結論めいたことは、何一つない。

 

 

 

僕は思う、何も考えずに生きればいいのだ・・・・と。

アリンコみたいに、羽虫みたいに、

ボウフラみたいに、動物プランクトン全般みたいに。

 

 

 

 

 

 

 

宮沢賢治著「ビヂテリアン大祭」の中で、

食肉業者のオジサンが

「動物は 本能で動いてるだけの機械だ」というようなことを言っていて、

その人は 人間はそうではない、と思ってるみたいなんだけど

でも

豚が もし、そうなら

・・・・・・・・・・・・・人間も、そうかもよ。

 

 

 

それだけ。

 

 


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楽しんで生きてやる。

2021-09-07 20:58:17 | Weblog

どんな事でも楽しもう、と思うのだ。

ちょっと困難に見えることでも、

しち面倒臭いようなことでも。

それが出来れば、僕はもっと強くなれるし、

今現在の自分からまた、変化することが出来るかもしれない・・・・マジで。

 

ひとつポンッと抜けさえすれば、それで

「脱皮」したみたいに 軽くなれるかも、っていうか、

もしかしたら背中の、肩甲骨のあたりに小さな小さな「羽根」の萌芽みたいなものが・・・・・

いや、もう「羽化」の幻想はやめにしておくが、

それでも、その可能性はゼロではない。だって、どんなことでも起こり得るんだぜ。

 

だから、だから、もっと狙っていこう。

杓子定規な世界の中で、楽しめるスキを探すのだ。

このガチガチで意地悪で乱雑で猥雑で悪意溢れる街の中で、

小さなことは一切気にせずに、楽しんで生きてやる。

 

他人なんか関係ない・・・ってことはないんだが、

邪魔っけな奴は飄々とやり過ごせばいい。

関係ない・・・・・・・・・・・・・・・・って思っちゃっていい。

だって、そんな奴に興味ないからさ。

 

俺は俺の、やりやすいようにやるのだ。

そしてニコニコしながら機嫌良く生きてやる。

 

 

それで全部、上手く行くんじゃないかな。

 

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雑感。

2021-09-04 19:32:11 | Weblog

九月に入って、涼しい日々が続いている。

こういうのって、大昔の九月みたいだ。九月に入った途端、急に秋になる。

でもこの後、残暑のぶり返しが「帝国の逆襲」みたいな感じで襲ってくると思うぜ。

ダース・ヴェイダーのテーマとともに。

 

それはそれとして、

世間では様々なことが進行中。

 

あの ガースー、部活・・・ではない 首相辞めるってよ

というニュースが昨日出回った。地味に嫌な奴だったが、辞め方も地味だ。

でも要はオリパラ強硬開催で感染拡大、それで辞めざるを得ないんだよな。

だったら、せめて国民に謝れよな。傲慢な奴だ。ニュースなどのメディアは、

そういうことをちゃんと報道して欲しい。北朝鮮じゃないんだから。

っていうか、偏向報道ひどすぎて、本当に北朝鮮みたいになってるよ最近。

そんな国いやだ。

 

余談だが、ガースーの顔をメディアで見るたびに僕は「ウルトラマン」に出てきた怪獣

ペギラ に似てるなぁ・・・・・と感心する(「ウルトラQ」だったか??。)

「いい」「悪い」の話ではない。単純に彼は ペギラ に顔が、そっくりなのだ。

・・・・・・どうでもいいけど。

 

 

 

音楽の話。

 

今日のピーターさんのラジオは、チャーリーワッツ追悼だった。

ピーターさんは「ウォッツ」と発音するね。

 

それで そう・・・・「ホンキートンクウイメン」がかかったのだが

実は僕も、あのドラムがとてもとてもとても好きだったそういえば。

有名過ぎてアレなんだけど、あのカウベルから始まる、

いわゆる普通のレコーディングヴァージョンがやっぱ一番かっこいい。

キースのギターも、魔法のように素敵だ。Aメロはドラムとギターと歌だけ。

スカスカで、骸骨のようにリズミック。

でも当時ほとんどのギタリストがあれ、どうやって弾いてるのか(正確には)

わからなかったはず。当時はすごく珍しかった、オープンGチューニングだからだ。

唯一、それを直接パクられたライ・クーダーだけがラジオでかかったあの曲を聴いて

凍り付いていた(らしい)。「やられた・・・・・」と。

でもまあ、その件、チャーリーは関係ないからね。

この曲のおかげで世界中で、どれだけの数のカウベルが売れたか?は神のみぞ知る。

 

でも何だかストーンズを「再評価」みたいにして聴くのはやはり、新鮮だ。

チャーリーのドラムを中心に聴くと必然的にビルワイマンのベースもすごく

個性的なのがよく目立つ。過去、若いころさんざん聴き狂ってた頃は

(まあ、それもしょうがないと思うが)、ギターばっかり聴いてたのだけれど

リズム隊を中心に」ストーンズを聴くとまったく違った感じがして面白過ぎた。

 

「ストリートファイティングマン」にしても、大好きな曲なのだが、

リズム隊があんな風に複雑な感じでアレンジされていることに、あまり気付けていなかった。

でもあんなにギターが目立つのはドラムとベースの工夫のせいでもあるのだ、と今気づく。

つくづく、ストーンズのリズム隊ってすごいなと思った。

 

 

それで、、、、英語圏のネイティヴの人が言ってたけど、あの「ホンキートンクウイメン」って

すごく直接的に性的な、エッチな、やらしい描写が出てくる歌なんだってね?知ってた???

僕もある時、歌詞(英詞)を、いろんな角度から吟味して、やっと理解した。

ああ、これはそうなんだ、と。

まぁ、もちろん、ダブルミーニングに受け取れるようになってるけど。

 

 

 

 

さてさて

 

コロナの件。

 

身近で・・・・感染した(そして回復した)、というような人がついにパラパラ、現れて来た。

ここら辺からが正念場なのかもしれない、と思うのだが

 

今回のこの件は、いろいろとやっぱ、おかしい。

 

情報が多すぎて、わけがわからない、というのも確かにあるのだが、

 

「陰謀論」的なものは、実は・・・・僕は嫌いだなのだ。

 

でも何が「陰謀論」で、何が「正論」なのか、とても判別しにくくなっている。

 

っていうのはメディアが信用できないからだ。

 

「大本営発表」みたいな報道を垂れ流すメディアを信用したくないのだ、

その気持ちはわかるよね?

 

そうなると

PCR検査は全然不正確かもしれないし、

ワクチンは人体に有害かもしれないし、

ワクチンのせいで報道よりはるかに多くの人が亡くなっているかもしれないし、

コロナウィルス自体、実は 大した脅威ではないのかもしれない。

計算方法とかにもよるのだろうが、致死率は高くないように思う。

大体が、コロナ以外の要因で亡くなった人(例えば交通事故死)も、

検査で陽性なら「コロナ死」で

カウントされている、というのが本当ならそれは、決定的におかしい。

何かが歪んでいる。

 

 

 

 

二〇二〇一年九月、

僕は深い懐疑の中にいる。

 

君はどう思ってますか???????????????????????

 

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